第17話 初陣の足音
天文一九年(一五五〇年)、田名部では吉松治世三年目の収穫を迎えていた。吉松の改革により、三年前の三〇〇〇石から飛躍的な経済成長を遂げている。
人口:田名部、大畑、川内 計:五〇〇〇名弱
田畑規模:六〇〇〇反(水田三〇〇〇反、麦一〇〇〇反、大豆一〇〇〇反、野菜類等一〇〇〇反)
米:一万二〇〇〇石(一八〇〇トン)
麦:二五〇〇石(三〇〇トン)
大豆:二〇〇〇貫(一二〇トン)
野菜類:ニンニク、生姜、茄子、牛蒡、大根、葱、糠塚胡瓜、山芋、その他に山菜類等
畜産:鶏、南部牛、南部馬、その他マタギによる狩猟
海産:昆布、帆立、真鯛、真鱈、鰯等(陸奥湾産)
特産品:石鹸、煉瓦、炭薪、炭団、
鉱物:硫黄、石灰、砂鉄、銅、金、銀、鉛(※ただし、銅以降は未着手)
技術:
農業技術:塩水選、育苗法、正条植、耕地農道整備、深耕機鍬、回転式水田中耕除草機、木酢液、人力稲刈り機、足踏み脱穀機、唐箕、水車精米
軍事力:常備兵一〇〇名、マタギ(山の民)による哨戒網
「ようやくだ……」
吉松は感慨深げに呟いた。目の前には大豆が山積みされている。
「ようやく、味噌と醤油を作れる!」
万歳の恰好で叫ぶ。吉松にとって、食生活の最大の不満は味噌、醤油が無いことであった。陸奥湾から良質な塩が得られるといっても、どうしても味が単調になってしまう。同じ塩味でも、味噌と醤油があれば料理の幅は一気に広がる。それはすなわち「食の悦び」を田名部の民に与えられることを意味する。
「吉右衛門。田名部味噌、田名部醤油を作るぞ!」
「殿、あまり
その声にハッとなった吉松は、咳払いして両手を下ろした。振り返ると祖父である新田盛政が苦笑いしている。盛政としては、童らしい孫の姿に内心では喜んでいるのだが、一万石を超える国人の当主としては、いささか感情を出し過ぎであった。盛政は、これ以上は追及せずに話を戻した。
「それで、いつから作り始めるのじゃ?」
「この冬だ。種麹は木灰法によって既に培養できている。味噌の職人もいる。一年後には田名部の食卓は劇的に変わるぞ」
「じゃが、大豆は馬餌にも使う。そちらに使ったほうが良いのではないかのぉ?」
「御爺、美食というのはな。舌を、脳を、魂を焼くものだ。一度でも旨味を知ったならば、もはや人は後戻りできぬ。味噌と醤油を作り、蝦夷から奥州一体にばら撒く。人々の舌を肥えさせる。そして、新田の敵に対して荷留めする。するとどうなると思う? 人々は地に膝をつき、伏し拝みながら、どうか醤油を分けてくれと懇願するようになるわ。戦わずして新田に臣従しよう。クックックッ」
「……吉松よ。今のお前の顔は、童の顔ではないぞ?」
「殿、さすがにそのお顔は……」
顔色を悪くした二人を見て、吉松は頬を手で揉んで表情を改めた。
津軽石川城においても、年の瀬に向けて慌ただしく準備が進められていた。津軽地方はその過半は南部氏の支配下ではあるが、浪岡北畠氏も大きな勢力を持っている。さらに大浦、久慈、蓬田などの国人衆は、三戸南部家に臣従しているとはいえ一個の独立した国人であり、時には勝手に争うこともある。
石川城には南部晴政の実弟である石川左衛門尉高信が、津軽地方から出羽北部まで睨みを利かせているが、石川城の北東にある浪岡御所とは緊張が続いている。岩木川流域には幾つもの砦が設けられ、小競り合いが続いていた。
「殿。大浦城より武田守信様がお越しです」
「会おう。恐らくは新田、そして蠣崎のことであろう」
石川城の評定の間において、武田守信は静かに待っていた。兄である大浦為則は病弱であるため、武田家に養子に入った守信が、大浦城の政務を取り仕切っている。大浦家は南部久慈氏の庶流として、主に檜山安東の押さえという役目を担っている。
大浦家は、先代である大浦政信とともに三味線河原の戦いで討ち死にした猛将森岡為治の遺児である盛岡信治がいるが、まだ齢四歳と童に過ぎない。だが兼平や明野(後の小笠原家)といった忠臣が揃っており、津軽では石川城、浪岡御所に次ぐ第三の力を持っているといえる。
そして大浦家は南部一族ではあっても、三戸南部ではなく久慈南部の庶流であった。そのため三戸南部には従属しているものの、滅私奉公の忠誠心を求めることはできない。あくまでも「御恩と奉公」という、現代風に言えば「ギブアンドテイク」の関係であった。
「武田殿。お越しいただき、忝い」
石川高信は、立場上は上であるため、評定間においては上段に座る。だが大浦氏に対する一定の配慮は必要であった。それが自然と言葉遣いにも出る。
「石川殿、お聞きになられたか? 蠣崎のこと」
「噂では」
蠣崎が蝦夷と和睦した。これにより蠣崎は南に集中することができる。衰えたとはいえ、十三湊にはいまだ安東氏の勢力下にあり、浪岡とも一進一退の状況である。下手をしたら、津軽そのものを失いかねない。高信のみならず、三戸南部方の国人たちの危機感は増していた。
「蠣崎の件、噂では田名部新田が絡んでいるとのこと。某も耳にした。しかし、幾ら新田吉松が神童とはいえ、蠣崎と蝦夷の和睦を仲介できるとは思えぬ。また表立ってそのようなことをすれば、兄上の不興を買うのは必至。そのような愚かなことをするとは思えぬ」
石川高信は吉松と直接対面し、言葉を交わしている。そのため南部家の誰よりも高く、吉松のことを評価していた。
「だが間接的、あるいは結果的に、蠣崎を援けたのではあるまいか。蓬田越前の話では、この一年、新田に幾度も船が入っている。それも見たこともないほどに大きな船だそうだ。蓬田殿は、あるいは檜山と繋がっているのではないかと懸念していたが?」
「それは深浦の商人であろう。誤解が無いようにと、某と兄上のところには書状が届いていた。新田はただ商いをしているだけだ。疚しいところはなにもないとな」
「しかし……」
「証拠は何もない。だが武田殿の懸念も解る。某から新田殿に書状を送ろう。蠣崎の件、新田は関与しているのかとな。疚しいところがなければ、包み隠さず伝えてこよう」
南部家家中の大半は、田名部の繁栄を噂程度でしか知らない。高信は、直にそれを目にしている。新田を敵に回すと厄介なことになる。懐柔し、南部のために働かせるべきだというのが、高信の考えであった。
だが、石川高信の考えとは別のところで、田名部新田に対する大きな動きが起きようとしていた。
三戸城から北へおよそ一二里にある「七戸城」では、城主七戸彦三郎直国が厳しい表情を浮かべていた。
「殿。野辺地のみならず、六戸や五戸、さらには津軽油川においても、人が離れているとのことです。皆、田名部を目指していると」
田名部の繁栄が人づてに広まると、飢えと寒さを逃れるために村を捨てる者が出始めていた。まだそれほど数は多くないが、本来は稼ぎ頭であるはずの二〇代の男までも、田畑を捨てて逃げるように田名部に向かっているという。
「このままでは我らが飢えてしまいまする。新田は八戸家を離れたとのこと。根城を気にする必要はありませぬ。ここは新田を討ち、田名部を我らのものに!」
七戸家家中では、新田討つべしとの声が強まっていた。この時代は民も逞しい。食える場所、安心できる場所があれば、家を捨ててでも逃げるということは、日本各地で頻発していた。そしてそれが、国人同士の争いを生み出し、農村が疲弊し、また民が逃げるという連鎖を繰り返していた。
「待て。田名部を攻めるのは良いとしても、まずは問い質すべきであろう。人を返させるなり、詫びとして米を出させるなりすべきではないか?」
それは良いと皆が口々に言う。傍目から見れば脅して金品を奪うだけのならず者だが、これが戦国時代では当たり前の光景であった。
「では、まずは田名部を詰問する。従うなら良し。拒否するのならば雪解けと共に攻める。良いな?」
七戸直国の言葉に、家臣たちが一斉に頭を下げた。こうして、天文一九年(一五五〇年)に起きた、吹超峠の戦いが整ったのである。
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