第二章 津軽へ

第15話 さらなる発展

「この度は、当家のことで殿をはじめ皆々様方にご迷惑をおかけし、面目次第もありませぬ」


 三戸城において、新田行政が頭を下げる。相手は当然、南部晴政および重臣たちだ。晴政は特に気にする様子はないが、重臣たちの中には、その口上に眉を顰める者もいた。本来、新田行政の「殿」は八戸久松であり、三戸南部は主君の主君、つまり「大殿」である。八戸久松自身が「殿」と呼ぶのならわかるが、たとえ久松の父親であろうとも、本来は「大殿」と呼ぶべきなのだ。

 家老である毛馬内靱負佐ゆきえのすけは、咳払いして当主に視線を向けた。晴政は一瞬だけ視線を合わせ、行政の詫びに鷹揚に頷く。


「別に気に病むことはない。此度のこと、新田家内部の親子喧嘩と儂は理解しておる。むしろ倅殿からは米まで送られてきた。見事な気遣いの出来る倅殿を持ったこと、羨ましく思うわ」


 行政の期待は、三戸南部家による八戸、新田家の仲裁であった。だが出鼻でそれを挫かれる。新田家内部のことだから自分たちは関与しないと言いつつ、吉松を褒めることで言外に「隠居せよ」という意味まで込めた。

 だが行政にはそこまで読み取る余裕がなかった。何となく言い出しにくい雰囲気だと感じたのがせいぜいである。顔を上げてすがるような表情を浮かべる。


「つきましては、根城と田名部の仲裁を……」


「んんっ…… 新田殿、控えられよ」


 靱負佐が再び咳払いし、行政を止める。晴政はフゥと息を吐いて、あくまでも気軽な雰囲気を出しつつ苦笑した。だが内心は違う。


「まぁ強いて(迷惑を)言うならば、田名部との縁をどう持つかだな。左衛門尉(石川高信)が倅殿のことをえらく気に入ったらしく、桜の婿にとまで言っておったのだが、ひとまず棚上げせざるを得まい。左衛門尉が神童とまで褒めた倅殿を迎えられず、残念なことよ」


 ここまで言わねば解らぬのかという思いを込める。さすがに行政もこれには気づいた。三戸南部家と血縁を持てば、新田家の格は大きく上がる。自分はその機会を潰してしまったのだ。

 顔を青くして再び詫びる。だが隠居するとは言わない。吉松ともう一度話し合うと告げて下がった。


「殿、御嫡女の婿に新田家をというのは、本当でしょうか?」


 行政が下がった後、その場にいた浅水城主、南長義ながよしが晴政に尋ねた。長義は南部家の三男で晴政の弟にあたるが、公式の場で晴政を「兄」と呼べるのは石川高信だけである。当然、晴政は臣下に対する態度で長義に応じた。


「年は合うがな。だが未だ齢四歳、まだまだ先のことよ」


(それに、聞く限りかなり我の強い童のようだ。儂に従うなら良し。逆らうならば、

殺すしかあるまい)


 三戸南部家は現在、津軽と陸奥に広がる一族を束ね、中央集権化を図っている。南部晴政の意志が絶対なのだ。己の意志を持って立ち上がる者というのは、下手をしたら邪魔になる。それが神童と呼ばれるほどの者であれば、なおさらであった。


「田名部はもうしばらく様子を見る。それよりも今は西を押さえたい。安東、斯波と相対すには、鹿角かづのを押さえる必要がある。来年には攻めるゆえ、心得ておけ」


 天文、弘治、永禄と続く戦国中期において、南部家は安東、斯波、大崎との小競り合いを続けている。だが史実では、その所領は大きく変わらず、十和田湖南部の鹿角四十二館は、その所有者を入れ替え続ける。南部晴政は、最盛期ではその版図を現在の岩手県南部にまで広げるが、それ以上の拡大はできなかった。その要因の一つとして、南部一族はそれぞれが国人であり、南部晴政はその代表に過ぎなかったためである。





 天文一九年(一五五〇年)八月、新田吉松が領する田名部においては、一〇〇名の常備兵が整えられ、調練が行われていた。指揮を執るのは祖父である新田盛政である。転生者である吉松は、戦国時代の合戦の仕方など何も知らない。そのため祖父の指揮ぶりを見て学ぶことにしていた。


(とはいっても、こんなデカい声で指揮するなんて無理だよ。メガホンでも作るか?)


 新田盛政は齢五〇を過ぎているが、食事が改善されているためか体は頑強である。神童と呼ばれる吉松に教えることができると、盛政は喜んでいた。それが調練にも出ているようで、傍目から見てもかなり厳しい。


「御爺、始めてから一刻になる。そろそろ休憩を入れたらどうだ?」


「ならばあと四半刻やるぞ。疲れたからと言って、それで敵が待ってくれるわけではないからのう」


(出た。体育会系理論! 「疲れたところから頑張れ」って精神論は嫌いなんだけどなぁ)


 陣形などの戦術は確かに重要である。だがそれ以上に重要なのは、戦術では覆しようのない「環境」を整えることだ。敵よりも多くの兵を動員し、兵糧が切れないように後方からの補給体制を整え、敵の情報を正確につかみ、敵よりも質の高い武装をした兵士を、末端まで伝わる明確な指示で指揮する。これを実現すれば、大抵の戦には勝てるだろうと吉松は考えていた。


(武田や上杉などの代表的戦国大名と同じ土俵に乗る必要はない。戦う必要性すら無くしてしまう。戦うまでもなく降伏させる。それが俺の目指す天下統一への道だ)


「吉松よ。今はまだ良いが、新田が大きくなるには、将が必要となってくるぞ?」


「それは考えている。だがそのためには、あと一段の改革が必要だ。田名部に、貨幣経済を導入する」


 盛政は首を傾げたが、何も言わずに調練に戻った。そうした政事においては、孫にはとても敵わないと思ったのだろう。




 江戸時代以降、下北半島は南部藩領であったが、徳川幕府の政策により鉱山開発は許認可制であった。そのため下北半島の鉱山はほとんど手つかずのまま、明治維新を迎える。

 大正時代、後に日本三大銅山とよばれた大鉱山が下北半島で本格開発された。川内川上流の渓谷では、銅の他、金、銀、鉛、鉄が露天掘りできるほどに眠っていた。採掘できる場所が微妙に異なるため、それぞれに鉱山名が付けられたが、その中でも特に有名なのが「安部城鉱山」である。


芋麻からむしの栽培によって、麻布を作れるようになった。これで口覆くちおおい作って防塵すれば、灰吹法による鉛中毒を防ぐことができる。恐山の硫黄、安部城の銅と鉛を使って、金、銀、銅を大量に作るぞ」


 安部城鉱山の開発は慎重に行わなければならない。金山、銀山が見つかったとなれば、南部晴政が本腰を上げて侵略してくるかもしれないからだ。そのため、吉松は川内川下流で焼物を作る窯場を建てることにした。川内川では焼物に合う土が採れる。煉瓦で登り窯を造り、木灰の釉薬をかけて赤松で焼く。出来上がった陶器は、唐物の磁器と比べれば素朴な色合いのものだが、蹴轆轤けろくろを導入することで腰を痛めずに済むし生産性も上がった。


(蹴轆轤が日本に導入されるのは豊臣秀吉の時代だ。当然、他の地域では手轆轤のはず。登り窯と蹴轆轤による大量生産、費用逓減。これだけで競争優位性が生まれる)


「この焼物は“宇賀物”としよう。そして窯元には宇賀の姓を与える。その方は今日から、宇賀長次郎を名乗るがよい」


 吉松は、むつ市にある本州最北端の焼物に敬意を表し、この新しい焼物を「宇賀物」とした。登り窯建造や土探索などで人をまとめていた初老の男を登用し、窯元に据える。だがこれはカモフラージュにすぎない。吉松の本命は川内の上流にある「大鉱山」だ。


「とりあえずは灰吹法だけでもやってみるか。粗銅や鉛は他からでも手に入る。本当なら鹿角郡の尾去沢から得たいところだが、あそこは係争地だからな」


 尾去沢鉱山は平安時代に発見された金山、銀山、銅山である。だが場所が問題であった。安東、南部、斯波、戸沢に挟まれた係争地帯である。そのため戦国時代ではあまり鉱山開発が進まず、江戸時代に南部藩領となってからようやく、採掘が本格化した。


「やはり畿内からの輸入に頼るか。明や南蛮に粗銅が流出するくらいなら、新田家で灰吹きしたほうがいいだろう」


 南部、安東、蠣崎などに先駆けて、新田家が大々的に貨幣経済を導入する。日本最北端に大きな経済圏が生まれようとしていた。これが少しずつ、歴史を変え始めることになるのであった。

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