第14話 独立勢力への道

 「新田家の独立」という報せは、数日のうちに南部領内の主だった国人衆に広まった。これは吉松が「問題点の明確化」と「既成事実化」を図ったためである。名目としては、新田家の御家騒動であるが、事実上の八戸家からの独立であり、つまり三戸南部家の陪臣ではなくなったことを意味する。吉松が欲しかったのは、まさにこの立場であった。


「じゃが、危険でもあるぞ。野辺地を治める七戸彦三郎直国は、九戸氏とも昵懇じゃ。小川原には六戸がおる。根回しをしたとはいえ、いつまでも独立を許してくれるとは思えぬ」


 吉松の祖父である新田盛政は結局、田名部館に残ることにした。吉松を宥める者が必要という理由もあるが、住み慣れた田名部を離れたくないという心情もあった。それに、やり方はどうあれ新田家を格上げしたのは吉松である。これで新田が三戸南部の直臣となれば、八戸と肩を並べることになる。祖父としてはともかく、前当主としては吉松を褒めたいくらいであった。


(倅も倅じゃ。今は八戸に力を入れ、少しでも右馬助様の歓心を買うべきであろうに……)


 自分が倅の立場であれば、旧八戸家の家臣を立てつつ、城代として根城八戸の安定に力を入れる。三戸の直臣という立場に立つ以上、他家との縁も結ばねばならない。陪臣から直臣に立場が変わったのだから、動き方も変わってしかるべきなのだ。

 だが行政はそうしたことに力を入れず、八戸の城代として自分の好きなように動こうとした。それが根城内に軋轢を生み、結果として吉松がそこに付け入ったのである。


「御爺の言うことはもっともだ。だが逆を言えば、倉内(現、六ケ所村)までは未統治地帯ということだ。誰のものでもなく、強いて言うなら山の民のものだろう。田名部では、山の民との縁も深い。横平(現在の陸奥横浜)まで一気に獲るぞ」


 史実では、一五五五年に横平館よこひらだてが再建され、その城主となった七戸系の庶流である七戸慶則が横浜氏を名乗るようになる。横平は陸路で田名部に行くための要衝であり、この地を先に抑えることで田名部の安全保障を確立するというのが、吉松の構想であった。




 新田家の御家騒動とは関係なく、田名部では順調に「吉松治世」の三年目を迎えていた。米、大豆、小麦の輪作が開始され、交易も順調である。毎月のように移民が来るため、それぞれの経験に応じて人を配置する。その中でも、吉松が特に力を入れているのは、建設専門部隊「黒備衆くろぞなえしゅう」である。


「三日に一日は必ず休むのだ。一刻(二時間)ごとに四半刻の休憩を入れよ。それと昼は半刻の休憩とし、握り飯、漬物、肉が入った汁を出せ」


 田名部にある圓通寺では、隣接する形で日時計と鐘が置かれた。一刻ごとに「今、何時か」を鐘の回数で伝えるのである。戦国時代では「時間的概念」が未発達であった。だがこれでは作業効率が低下する。「次の鐘が鳴るまでにここまで片付ける」という意識が、技能習得を加速させるのだ。


「建設作業は昼までに二刻、夕暮れまでの二刻とする。休憩を入れれば、一日四刻半の労働だ。だが飯は食えるし、月単位で扶持米も出す。いずれ、扶持米は銅銭に変えるつもりだ。すでに良銭を何枚か手に入れたからな。灰吹きによって得た精錬銅を使って良銭を大量に作るぞ」


 戦国時代、畿内では貨幣経済が浸透していたが、奥州ではまだまだ物々交換であった。貨幣経済は、最初に買う物があり、次に値付けが行われ、そして貨幣を使う者が出始めて広がっていく。供給力がなければ銭など何の役にも立たないのだ。


「物産だ。田名部では消費しきれないほどの生産力を手に入れ、次に価格を統制し、最後に良質な貨幣を大量に発行する。信用力のある通貨を発行すれば、いずれは宋銭すら駆逐できるだろう」


 吉松の中にあるのは「圧倒的な経済大国の実現」であった。すでに大畑と川内では集落作りが始まっている。大畑では火薬製造、川内では焼き物を行う予定だ。新たな集落を有機的に繋ぐには、しっかりとした道が必要である。そのための黒備衆であった。


「殿、山の民の代表と名乗る者が来ました」


「イキツカ殿が来たか、会おう。アベナンカを呼んでくれ」


 イキツカとは田名部一帯の山の民をまとめている男であり、元々は蝦夷の民である。そのため名前も和名ではなく蝦夷の名前となっている。大館の蠣崎家などでは「強制改名」などが行われたりしているが、吉松はその必要性を認めず、山の民の暮らしを尊重していた。

 アベナンカを通訳として、山の民の代表と話をする。床几二つが向かい合うように置かれ、毛皮を羽織った毛むくじゃらの男が座った。


「新田吉松です。よく来てくださいました」


「イキツカだ。最近、我らに接触してくるという者に挨拶をと思っていた。差し入れてくれた酒は美味かった。礼を言う」


 アイヌの言葉であるためアベナンカを通じてでなければ理解できないが、田名部に対する山の民の印象は悪くない。マタギの中には大和言葉日本語を話せる者もいるため、吉松が山の民を尊重していることは広まっているようだ。


「いま、山の民には野山を守るための間伐、鹿や猪などの狩り、椎茸栽培をお願いしている。これに、あと二つを加えて欲しいのだ。無論、米や麦、酒などで返礼する」


「具体的には?」


「硝石づくり、そして野山の監視だ」


 二つとも蝦夷の言葉にはないため、アベナンカが戸惑っている。吉松は硝石とはどのようなものなのかをかみ砕いて説明した。


「硝石とは、簡単に言えば糞尿から作られる薬だ。監視というのは、不審者を見つけたときに知らせてくれという意味だ。ひょっとしたら、南から攻められるかもしれない。だから野山で生きる山の民に、もし剣や槍をもった集団が北に向かっていたら、それを知らせて欲しいというお願いだ」


 陸奥みちのくには伊賀、甲賀、風魔のような諜報専門集団は存在していない。伊達政宗が作った「黒脛巾組」でさえ、岩代国(福島県)が拠点である。吉松は本州最北端の地に、諜報専門組織を作ろうと考えていた。無論、それは容易ではない。山の民は言葉も文化も違うのである。だが、山の民はどこにでもいる。日本の半分は山なのだ。極端な話、平地で暮らす大和民、山で暮らす蝦夷民と分けられるくらいだ。彼らの持つ情報網は、使いようによっては立派な諜報活動になる。


「とりあえず、小川原湖までの山の民と、連絡を取ってくれないか? 常に監視しろとは言わない。気づいたら知らせてくれという緩い認識でいてくれればいい」


「それくらいなら問題ないだろう。糠檀の岳(八甲田山のこと)にも我らの知り合いがいる。この地を行き来する者を見つけることなど容易い。その薬とやらも了解した。作り方さえ教えてくれれば、我らの手でやろう」


 田名部では、形式上は山の民からの税収はない。彼らはあくまでも独立した民であり、自発的な贈り物として、肉や皮が届く。吉松は山の民に「業務委託」し、対価を支払うという形式を成立させた。この対価はやがて貨幣になり、山の民は平地に降りて買い物をするようになる。そして貨幣を得るために、吉松に仕えるようになる。


(戦って支配するなど脳筋がやることだ。経済力によって取り込むことで、蝦夷の民の生産力をそのまま吸収する。いずれは学校をつくり、子供たちの教育を行う。一〇〇年もすれば、立派な大和民になっているだろう)


 吉松の一日は忙しい。田名部館に戻ると、蠣崎氏への書状をしたためる。特に変わった内容ではない。季節の挨拶と今後も取引を拡大していきたい旨を伝え、米二〇石と共に送ってやる。新田家の騒動については簡単に触れておく。蠣崎氏の背後には檜山安東氏がいる。安東に詳細が伝われば、三戸南部家に誤解を持たれかねない。


「誤解ではないがな。俺は、どこにも臣従せぬ」


 あと数ヶ月で再び冬が来る。田名部にとって豪雪は厳しいが、安全保障を考えると恵みにもなっている。年の半分は兵を動かせなくなるというこの奥州では、本来農閑期などない。農民兵が一般的な南部家や八戸家にとって、田名部を攻めるのは相当な覚悟が必要になるからだ。


「今年で、田名部は八戸の石高を超えるだろう。まずは一〇〇人の常備軍を組織しようか」


 天文一九年(一五五〇年)水無月(旧暦六月)、経済力がついた田名部は、いよいよ軍拡へと乗り出した。新田吉松が齢四歳のときであった。

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