第9話 三無
金崎屋善衛門はおよそ二ヶ月ぶりに見る田名部の町に目を細めた。田畑は整然と並び、稲が等間隔で植えられて青々と茂っている。家々も移築されたようで、褐色の煉瓦と木によって建てられており、かなり頑丈に見える。そして道が広く整備されており、行き来する人々の表情にも活気があった。
「やはり新田の若君はただ者ではない。商いの匂いがプンプンする。この町はさらに発展するぞ」
そう言いながらも、善衛門は田名部の弱点も看破していた。人が足りないのである。いかに新田吉松が傑物であろうと、まだ齢三歳の幼児なのだ。吉松の指示を受けて現場で動く者がいなければ、これ以上の速さで発展することは難しいだろう。
「ヘヘヘッ、そういう意味では若君も喜んでくださるだろうな。おい、行くぞ」
善衛門は仕入れた商品たちと共に、田名部館に向かった。
「二月ぶりか。待って居ったぞ、銭衛門」
田名部館の庭に面した居間で、吉松は善衛門を迎えた。相変わらず銭衛門と呼ばれるが、あえて正したりはしない。そう呼びたいのなら呼べばよい、商人の名前としては悪くないと思っていた。
木椀で出された褐色の湯を口にした善衛門は、思わず「ほう」と口にした。なんとも不思議な芳ばしさと甘さのある茶である。
「これは…… 牛蒡でございますか?」
「一口で見抜いたか。それは牛蒡を乾燥させて煮出した茶だ。この北国では京の都で出る茶など無理だからな。田舎者の知恵という奴よ」
だが善衛門は商人の視点から、この茶を決して無価値とは思わなかった。形式ばった茶会などより、こうして対面して話しながら飲む茶としては、こちらのほうが合うのではないか。なにより、牛蒡は薬として使われているほど薬効がある。京料理を取り入れている越前あたりならそれなりに売れるだろう。
「長月(旧暦九月)あたりには収穫ができる。乾燥させた牛蒡なら日持ちもするし、気軽に飲める茶として良い交易品になるのではないか?」
「左様でございますな。ですが、宇曽利の冬は早うございます。神無月(旧暦一〇月)には雪も降りますれば、来年以降のお話ということになりますなぁ、ハイ」
善衛門は仕方なさそうに首を振った。吉松は黙ってうなずく。それを改善する方法はある。交易に二ヶ月も掛かるのは、船が悪いからだ。正確には帆が悪い。
「それで、頼んでいたものは手に入ったか?」
「概ね、というよりはそれ以上でございます。いやはや、田名部の特産品は凄まじい人気でしたぞ。越前、越後もまた、冬は寒く雪深き土地ですからな。炭団は一瞬で売り切れてしまいました。石鹸や煉瓦も十分な利益が出ましたぞ」
「うむ。それで仕入れたものだが、その者たちがそうなのか?」
庭に敷いた
「和紙、芋麻、京人参などを仕入れてきましたが、目玉は人でございます。和紙職人、麻職人、鍛師や番匠などの職人を連れてきました。また読み書きができる者も数名おります」
「ほう、大したものだ。だがそれほどの者たちが、どうして売られていたのだ?」
「それは……」
原因は、加賀一向一揆にあった。天文一五年(西暦一五四六年)に尾山御坊(後の金沢城)が建てられると、加賀一向一揆は一気に激化した。越前朝倉氏は朝倉宗滴を大将として一向一揆に対抗、凄まじい戦いを繰り広げる。その結果、一揆に参加した百姓や職人の多くが奴隷となったのだ。
「それに加え、昨年ですが越前守護様がご逝去されました。ご嫡男の孫次郎
「なるほど。巡り合わせが良かったというわけか。ご苦労であった」
吉松は立ち上がり、庭先に出た。身なりは良いが幼児にしか見えないため、職人たちは戸惑っている。梅千代は、頭が高いと声を張ったが、吉松が手を挙げてそれを止めた。
「俺が田名部領を治める新田家次期当主、新田吉松だ。遠路はるばる、よく来てくれた。その方らには決して後悔はさせん。俺はここで、
職人たちの怪訝な表情が緩む。戦国時代において、飢えず、震えず、怯えずを実現した土地など殆どない。それは夢の中にしかない桃源郷であった。吉松はその桃源郷を本気で実現しようとしていた。
「梅千代、この者らを職人街の長屋に連れていけ。食べ物と着る物も与えよ。手筈は吉右衛門が整えてくれる。それと読み書きができる者は、俺直属の文官とする。皆はまずこの一年、田名部に慣れてくれ」
梅千代の後に職人たちが続く。吉松は再び、善衛門と向き合って座った。
「よくやってくれたぞ、銭衛門。これで田名部はさらに発展するだろう」
「ヘヘヘッ、そう言っていただけると
「ほう?」
吉松の眼が光った。
蠣崎氏の歴史は古い。鎌倉時代に津軽地方を治めていた津軽安東氏の支配下で、下北半島を治めていたのが蠣崎氏だ。その後、南北朝時代を経て室町時代に蠣崎蔵人の乱があり、蠣崎氏は下北半島を追われ、道南の徳山館(今の松前市)に逃げた。
蠣崎氏はアイヌ民族とは争いながらも交易を続け、やがて独占するようになる。戦国時代を経て江戸時代に松前藩として残ったのは、この交易の利益と北海道という地理的優位性があったためである。
蠣崎氏は戦国時代において四方を敵に回したと言ってよい。アイヌ民族や仇敵である南部家はもちろん、自分たちを庇護していた安東家すら裏切り、戦国大名として独立する。それを成したのが、天文一四年(西暦一五四五年)に当主となった蠣崎若狭守季広であった。
「若狭守様は、
「だが若狭守殿がそれを許すか? 南部家はいまのところ、蝦夷地への出兵などは考えておらぬであろうが、
「まさにそこでございます。アッシの見立てでは、若狭守様は檜山にご不満をお持ちなのではないかと。なにしろ義広様(※蠣崎季広の父)の代から兵役を課せられておりますからな。ただでさえ食べ物が不足する地において、まるで奴婢のようにたびたびの兵役とあれば、不満を持つなというほうが無理というもの……ハイ」
「確かにな」
蠣崎氏の歴史を見ると、蠣崎蔵人の乱以降は蝦夷地においての自主独立というよりは、生存圏を確保するための戦いをしていたとしか思えない。とにかく生きるために必死なのだ。蠣崎義広はアイヌと戦い続け、本拠地である大館近くまで攻め込まれたこともある。その時は偽の和睦をして西蝦夷の支配者であったタナサカシを暗殺するなど、卑劣な手を使っている。さらには、その娘夫婦まで殺した。それもすべて、鎌倉から続く蠣崎の家を残すためだったのだろう。
「蠣崎にとっては、自分たちが生き延びることが最優先なのだろう。自分たちを守ってくれるのであれば、それが安東であろうが南部であろうが構わない。そう考えているのかもしれんな」
つまり、それが新田であっても構わないということだ。米で餌付けして経済的に新田に依存させる。そうすれば蠣崎が持つアイヌ民族とのパイプがそっくり手に入る。十三湊を支配すれば津軽海峡の制海権を手にすることもできる。そうなれば、新田はすぐに南部を超えるだろう。
「クククッ…… 金崎屋ぁ、
「いえいえ、若様ほどでは…… ウッヒッヒッ」
齢三歳とはとても思えぬ極悪な笑みを浮かべる吉松と、どこから見ても脂ぎった強欲な悪徳商人としか思えぬ金崎屋の二人を眺めながら、祖父の盛政は黙って牛蒡茶を啜った。
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