第6話 稲作革命

 年が明けた天文一九年(西暦一五四九年)、睦月(旧暦一月)となった陸奥は最厳冬期であった。旧歴一月ということは、新暦ではちょうど二月にあたる。

 現在のむつ市では、最低気温はマイナス五度を下回り、一日の平均気温も氷点下となる。だが二月になれば降雪量は少なくなり、曇天や時には晴天の日もある。睦月から如月、弥生と徐々に気温は上がり、宇曽利は短い春を迎えるのだ。


「吉松よ。この冬は誰も死なずに済んだそうじゃ。儂が憶えている限り、田名部の民がここまで笑顔に正月を迎えたことは無い。見事じゃ」


 馬に乗って田名部の民を見て回る。馬の手綱を握るのは盛政であり、吉松は盛政の両腕に挟まれるように、前に座らされていた。集めた雪はまとめて大川(田名部川のこと)に捨てる。スコップや猫車(荷運び用一輪車)を実用化しておいたので、雪かきもかなり楽になっていた。


「道が悪いな。あちこち泥濘ぬかるんでいる。道の水はけを良くしなければ、発展に支障が出る。農地整理の後は、街道整備だな」


「あまり焦るでないぞ? お前ひとりで出来ることには限界があるのじゃ」


 冬の間に田名部領の今後については、盛政とも幾度か話し合いをした。まずは飢えを無くすことである。これは稲作のほかに稗や粟を育て、さらに実用化した石弓を使った狩りを行うことで少人数による大量生産を可能とする。特に稗は重要だ。栄養分が米よりも遥かに多いうえに、酒の原料にもなる。アイヌ民族が作っていた稗酒「トノト」は、二一世紀になって北海道の酒蔵が再現している。


(微かな酸味と甘みのある酒だったな。韓国のマッコリに近い味だった覚えがある)


「さて、そろそろ戻るぞ。行政たちが来るからの」


 如月に近くなったころ、吉松の父親である新田行政が田名部へと戻ってきた。吉松にとっておよそ一年ぶりの再会であった。




「吉松が書いたという書状を読んだ。その年であれほど見事に文字を書けるとは大したものよ。楷書というのも良い。書くとなれば些か面倒だが、読み易く誤解もなかろう」


 戻ってきたのは当主である新田行政だけであった。八戸当主である八戸久松(後の彦次郎政栄)はおろか、母親の春乃方すら連れてきていない。もっとも吉松にとっては他人も同然であるため、名前も顔も覚えていないのだが。


「父上。見ていただいた通り、田名部は徐々に発展しております。新田家のことはどうぞご不安なく、根城、そして三戸をお支えください」


 吉松が慇懃に一礼する。これは本音ではあるが、忠誠心からではない。これから田名部を発展させる上で、南部晴政に近い父親は邪魔なのだ。年に一度どころか一生、顔を出さなくてもいいとさえ思っている。


 だが子の心親知らずというのであろうか、行政は吉松の言葉通りに受け取った。次期当主の頼もしさに破顔し、父親である盛政に顔を向けた。


「父上。吉松に傅役をと考えておりましたが、どうやら必要なさそうですな」


「うむ。じゃが書状の通り人手が足りぬ。三戸や根城から口減らしの子供などを送ってもらえぬか?」


「すでに用意しております。明日には五〇程が到着しましょう。もっとも、子供や女などが多いのですが……」


「構いません。人は使いようです。逃げようにも、この田名部から離れれば飢えて死ぬのみ。最初にそれをきつく伝えた上で、しっかりと働かせます」


(近代農法と農具改良で、生産性は二倍にはなるだろう。田名部は六〇〇〇石になる。さらに開墾や貿易により経済力をつける。南部に付け届けをして無統治地帯に近い下北一帯を統治下に置く。新田は八戸を超えて、南部に従属するの国人衆の中で最大勢力になるだろう)


 吉松は、父親に感謝の言葉を述べて頭を下げながら、その口元には野望に満ちた笑みが浮かんでいた。




 その日の夜、前当主である新田盛政と現当主である新田行政は、親子水入らずの時間を過ごしていた。幼児である吉松は早めに就寝している。吉松が試験的に作らせた稗酒を飲んだ行政は、その味に驚いた。米と比べて味の劣る稗から作られたとは思えない美味だったからである。


「吉松はコレを陸奥酒むつざけと名付けて売るつもりじゃ。田名部の民は吉松に心酔しておる。新田は大きくなるぞ。下手をしたら、根城を超えるほどにの……」


「それは頼もしい。我らは斯波、安東、蠣崎と囲まれております。新田が強くなるということは、南部が強くなるということ。殿も喜ばれましょう」


 無邪気に笑う息子を見て、盛政は内心でため息をついた。倅の行政は南部右馬助晴政に心酔している。確かに南部晴政は傑物だ。この奥州において晴政を超える人物はいない。だが次代はどうであろうか。晴政は今年で数え三四歳になる。だが嫡男がいない。石川左衛門尉さえもんのじょう(※石川高信のこと)の庶子である亀九郎を養子にという声も聞こえるが、吉松を超えるとは思えなかった。


(儂であれば、いっそ吉松を右馬助様の養子に出して、いずれ子ができたときに新田家再興という形にするがな。だが吉松自身は納得するまい。あ奴は誰も仰がぬ。誰にも忠を持たぬ。天下において唯独り、己にのみ忠を誓っておる……)


 ひょっとしたら吉松は、八戸氏はおろか南部氏すらも飲み込んでしまうのではないか。だが盛政は内心に沸き上がった懸念を口にすることは無かった。むしろ「それならそれで面白い」とすら思っている。力関係から南部氏に頭を下げているが、新田は新田で一つの国人なのだ。南部に取って代わって悪いわけがない。ならば自分はどうするか? 新田家が生き残る可能性を少しでも高めるべきだろう。


「吉松がな。恐山の先を拓きたいと言うておる。あそこは誰の所領でもなし。しょせんは子供が考えることじゃ。好きにすれば良いとも思うのだが、一応は右馬助様に口添えをしておいてくれぬか?」


 あえて吉松を子ども扱いして行政に話す。こうすることで警戒されずに済む。予想通り、新田家当主は笑って了承した。




 如月(旧暦二月)になると、雪もかなり少なくなる。田名部はそれまで歪だった田畑の整地を始めた。一反(一〇アール)の広さを規定し、それをいくつも作る。スコップと猫車によって、能率はかなり良い。目標は一反あたり三〇〇キロの米を収穫することである。本来、一反とは一石(米一五〇キロ)を収穫できる広さを示していたが、農業技術の発達によって二一世紀では一反から六〇〇キロ以上の収穫が可能となっていた。吉松が目標としているのはその半分である。


「塩水選、苗代栽培、正条植え、各種堆肥を使うことで生産性は上がるはずだ。草刈り用の雁爪、二一世紀でも田んぼの四隅を刈るときに使われている人力式稲刈り機などを使えば、農作業も楽になる。三〇〇〇反の農地を開発するのに必要な人員は半分以下になるだろう」


 一九六〇年時点で、農家一家当たりの平均耕作面積は約八反であった。だが稲作以外にも行っていたため、これは参考にならない。吉松は一人平均して三反と仮置きしていた。


「田名部の民はおよそ三〇〇〇人。一〇〇〇人で三〇〇〇反の水田を耕すことができれば、人員を別の産業に充てられる。椎茸栽培の手伝いなどは捨て子でもできるしな」


 およそ二ヶ月を費やして、田名部全体を作り替えていく。そして弥生(旧暦三月)を迎えると、いよいよ米作りが始まった。予め塩水選しておいた種籾で苗代栽培を行い、それを水田に植えていくわけだが、育苗だけでも一ヶ月は掛かるため、苗代栽培の間も整地を行い続ける。


 田名部の民たちは当初こそ不審がっていたが、吉松が考え出した各種農具の利便性にはすぐに気づいていたため、命じられるまま新しい稲作に取り掛かった。


「水田に向かぬところは稗を栽培せよ。かといって手を抜く出ないぞ。稗が多く収穫できれば、それだけ多くの酒が飲めるのだ」


 卯月(旧暦四月)、見事に長方形が並んだ水田に、深緑の苗が植えられていた。


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