第8話 イロンデル

すっかり日が沈んでから村に着いた。

道中で彼女が何度も寄り道をしたがったために予定より時間がかかってしまった。

僅かな月明かりだけを頼りに進んでいたために、村の看板が見えたときには心から安堵した。

「ポウレット・ニッド」———。

私たちの住む村の名前が刻まれた、よく磨かれた石盤。

一番最初にこの地にたどり着いた、「ポウレット」という人物が寝床にしていたことから、こんな名前がついたらしい。

後ろの彼女は呑気に欠伸をしている。

門をくぐって真っ先に医院に向かっていく。

この村に住む人々は遠出した際には必ず医院で体の調子を診てもらうという習慣がある。

すっかり遅くなって、通り過ぎる家の中に光と灯っているものは一つもなかったのだが。

その医院だけは目印のように窓から光を漏らしていた。

重い足取りで医院の扉の前に着く。

とんとん、と叩くと、中からどうぞ、と声がした。

そのまま扉を開けて入っていった。


「お、やーっと来たね二人ともー」


何やら作業していたらしいイロンデルは、くるりと向きを変えて私たちに声をかけた。

寝静まっている夜にもかかわらず、イロンデルは気さくに話しかける。


「聞いてた時間より随分遅いけど……ひょっとして、寄り道でもしてきちゃった?」


イロンデルの前では誰もが子供のようになってしまう。

私の隣にいた依頼主はぎくりとし、えへへと頭を掻いた。

イロンデルはそんな彼女のでこをこつんと小突いた。

まるで先生と児童のような関係性だった。

イロンデルの前ではどんな誤魔化しも見透かされてしまう。

なんというか、嘘をつきづらいのではなく、嘘をつかなくてもいい。

彼女には本当のことを言ってもいい……みたいな、そんな雰囲気を醸し出していた。


「さ、ちゃちゃっと見てちゃちゃっと帰ってもらうからねー」


イロンデルは依頼主を連れて奥の部屋に入っていく。


「あ、ファルコンは座って待っててねー」


言われた通り、待合室に用意された長椅子に腰を降ろして息を落ち着かせた。

私の番が来るまで、静かに待とう。


ちく、たく、ちく、たく。

目を閉じると聞こえてくるのは、前方に飾られている古時計の秒針の歩く音。

そして、奥の部屋の二人がやりとりする声が小さく。

ちく、たく、ちく、たく。

今日一日歩いてそこそこ疲れは溜まっている。

座っているだけで治るような疲れではない。

いつものベッドに身を委ねて……沈んで、睡魔に背中を突き落としてもらいたい。

ちく、たく、ちく、たく。

……この時計は、イロンデルが患者さんから頂いたものらしい。

患者さんが偶然拾った時計で、なぜかとても懐かしい感じがして大切にしていたものだったんだとか。

今はもうその患者はいないらしいけれど、あの時計が形見のように今も動き続けている。

何か身体におかしなところがあればすぐにイロンデルに診てもらう私たちと違って、あの時計は修理しなくても勝手に動き続ける。

不思議なものだった。

ちく、たく、ちく、たく。

ちく、たく、ちく、たく。

ちく、たく、ちく、たく。


「ファルコンおいでー」


呼ばれた。

だから、立った。

そしてうとうとしながら部屋に向かう。


「はい今日もお仕事おつかれさま。まずは手……よりは先に足腰見た方がいいね」


イロンデルは軽く私の全身を見て判断した。


「はい靴脱いでそこ寝転がってねー。あ、俯せにね」


簡易的なベッドに身を任せるとそれだけで眠気が襲い掛かってきた。

そんな私を見てイロンデルは


「寝るならちゃんと自分の家で寝てくれよー」

と茶化した。


寝転ぶ私の腰辺りを丁寧にほぐしていく。

イロンデルは薬の調合ができる上に、こうして体をマッサージするのも得意だった。

相変わらず手慣れた整体技術で疲れが癒されていくのがわかる。


「ほう、今日はまたよく歩いたもんだね」

「……」


そうやってしばらく揉まれ続けていると、すっかり足腰が軽くなったのだった。


「次は手の方を見てくからねー。ほら、起きた起きた」


むくりと起き上がって大人しく利き手を差し出した。

ふむ、と一言呟いて丁寧に手を揉み解していく。


「今日はどれだけ無理したんだファルコンさんよ」

「……いつも通り、鍛錬してただけだよ」

「そ。相変わらず柔らっこい上に細い手だ、羨ましい限りだよ。どれだけ鍛えても体に変化がないっていうのは、本当に羨ましいものだねー」


イロンデルは笑いながら手の節々をスムーズに確認していく。

彼女はどんな患者に対しても子供として接してくる。

自分が子供のように扱われると思うと、顔の辺りが熱くなってしまう。

恥ずかしさで目線も、合わせづらくなる。


「今日は、村で何かあった……?」


照れ隠しのように何でもない事を聞く。


「今日?なーんにも。昨日と同じだよ。いつもと変わらない平穏な毎日」

「……そっか」

「明日もそうだろうね」


イロンデルは私の手の治療に集中していて目線をずっと下に向けていた。


「はい、おしまい」


今日の検診は終わった。

イロンデルからいつもの錠剤を貰う。

私はそのまま立ち上がる。


「明日のご予定は?」


イロンデルが話しかける。


「明日も……護衛」

「誰の?」

「先週から西の方のところにいる知り合いの家に泊ってるっていう……」

「ああ、ピックさんね、前聞いたっけ。じゃあ結構遠いところだ。また足腰がえらいことになるな?」

「うん、迎えに行く」

「じゃあ朝は早いね」

「うん」


そのまま医院を後にしようとする。

扉に手をかける直前に、イロンデルの方を振り返った。

イロンデルは資料をしまったりしている。


「イロンデル」

「んー?」


気の抜けた返答。


「今日は……うちには……?」


すると眉を八の字に曲げて呆れるように笑った。


「明日早いんでしょー?今日はもう遅いし。私も予定あるし、このまま眠るよ。ファルコンも、早く眠りなよね」

「……うん。おやすみ、イロンデル」


少し残念に思いながら、家に帰った。

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