第67話  デビュー それはほろ苦きものなり その5

 グループSのスタートが間近となり、昨日までのクリプスコースから一転してマウンテンコースへと舞台を移し、マン島をこれまでになく緊張に満ちた空気が包み込む。


 マウンテンコースになると、クリプスコースの一周17.38キロから一気に一周60.7キロへと跳ね上がるため、コースの確認は特に慎重に行われる。


 一周が60キロにも及ぶだけに一旦スタートラインを過ぎると20分は情報が入らないため、一部のチーム要員は他に指定された所にも待機しており、無線交信を受けながらサインボードを出しライダーに情報を送るようになっている、無論、ライダーはこの長いコースのこともだし、何処で情報が出されるかも当然頭に入っている。そもそもどんなに長いコースだろうが、きちんと頭に叩き込んでいないとあんなスピードでレースなどできはしない。




 グループSに出走するマシン37台は既にホームストレートに待機しており、ポールポジションは今年マシンと共に絶好調のコゼット・ジェヌー。しかも開幕を除き5戦連続ポールであることも当人の好調ぶりを物語っていた。


 また、3位までビュガティ全車が独占し、フロントローを青く染めている。当然のことながら、メディアによる取材もこの三台に集中しており、コゼットのエスプリを利かせたインタビューも相変わらず。


 フランス人の会話はとかく鼻につきがちだが、不思議とコゼットにはそれがない。


 一方、SSDは全車予選は通過したが、紗代が一人18位であることを除けば英梨花が24位、佳奈が26位、マライソムが29位と後方で苦しい戦いとなることが予想されていた。


 尚、グループSにはスポット参戦のみも含め44台がマン島にエントリーしていたのだが、7台が予選107%ルールを満たせず予選落ち。というより、明らかに前年より性能がレベルアップしており、去年は通過できても今年は通過できない程に厳しい戦いを強いられるようになった。


 あの戦争から既に13年。マシンの性能向上は、明らかに戦後復興に比例していたとも言える。実際、市販車でも各国の経済的な立ち直りと共に実用車のみならず趣味性の強い贅沢なモデルを求める声も日増しに高まりつつあった。




「青きミストラル遥かなり、か」


 後方から微かに確認できるビュガティの一団を見つめながら独白する英梨花。そう、目標は高く、そして果てしなく遠い。


「けど、最初の一歩を踏み出さない限り永遠には追い付けないのよ」


 そう言って言葉を繋げるのは久恵夫人。そう、当人にとってはマン島出場宣言以来8年。やっとこぎつけた最初の一歩なのである。また、英梨花たちにとっても長い下積みの末に辿り着いた世界の表舞台だ。


 一方、観客席からは心無い声も聞こえてくる。


「見ろよ、あれがSSDとかいうジャップのマシンだぜ」


「全く、赤主体で目立つことだけはトップチーム並だな」


 撮影しているのもほぼ物珍しさからである。しかし、数年後に自分たちが撮影した写真は、SSDの駆け出しを撮影した一枚として貴重な資料となるのだが。




 その頃、マウンテンコースのグースネックを抜けた先、マウンテンセクションでは、モーター月報から派遣された羽矢がカメラの準備をして待機していた。因みに撮影に持ち込んだのはニコンFシリーズの試作仕様で、モータードライブが装着されている。これは当時ゼンマイ式が主流であった中、画期的な電気式であり、羽矢が何でこれを入手できたのかというと、父がニコンにコネがあり、そしてニコンとしても実践テストとしてマン島は格好の材料に思え、互いの利害が一致した結果であった。


 当時、意外に思うかもしれないが、日本ではモータードライブに対する理解はそんなに進んではいなかった。寧ろ『下手な鉄砲数撃ちゃ当たる』と懐疑的というより撮影技術が未熟なことを披露するようなものだという声さえあった。その認識が大きく変わるのは、64年東京五輪に於いて、海外の報道陣がモータードライブで次々と決定的瞬間を逃さず撮影している様子を目の当たりにするようになってからである。


 その意味では羽矢は日本に於けるモータードライブを駆使したカメラマンとしても先駆的存在であり、彼女もまたモータードライブの持つ威力を早くから理解していた。羽矢は、自覚するしない如何に関わらずこのマン島に於いてモータードライブに未だ懐疑的な日本の写真業界に於いてその認識を改めさせる重責を担っていたばかりでなく、ニコンの未来までもが双肩に掛かっていたと言えなくもない。


 尤も、当初は高速撮影用機材を所望したのだが、非常に高価な上に重く嵩張るので見送らざるをえなかった。


 しかし、羽矢は試し撮りでモータードライブの性能には満足しており、決定的瞬間をモノにする自信は大いにあった。モータードライブはフィルムを大量に消費するため、傍らにはフィルムを大量に詰めたバッグを用意していた。また、助手がもう二台のニコンにフィルムをセットしている。そう、決定的瞬間を逃さないため、すぐにフィルムを装填済みのカメラを渡し、その間にフィルムの詰め替えを行うのだ。


 その様子はまさに長篠の三段撃ちである。因みに当時フィルムは高価だったため、安くない出費だろうにその量からモーター月報の気合の入りようが伺える。


 そして羽矢がふと助手の方を振り向き、


「準備は万端かしら?」


「ああ、問題ないね。動作確認もバッチリだぜ」


 助手の名は竹原拳たけはら けん。羽矢と同い年で、名前は後に世界的写真家となる土門拳から頂いた。彼の父は日本工房に勤めており、日華事変から大東亜戦争、更に朝鮮戦争まで従軍カメラマンとして活躍し激戦地を渡り歩いた猛者でもある。そんな父も現在はモーター月報編集員の一人。羽矢とは高校時代からの写真仲間でもあった。


 羽矢と共にモーター月報の一員として世界を渡り歩き、羽矢と同じく世界的な写真家となる。また、彼には文才もあり、羽矢がカバーしきれないコピーライティングも担当することに。


「さて、もうすぐだな」


 そう言って年代物のロレックス(ロメックスではない)の腕時計を見つめる拳。このロレックスは父と共に激戦を潜り抜けた戦友でもあり、これから先世界中を渡り歩くのは戦場を転々とするようなものだと父が渡したのだった。




 やがて、スタート時刻である午前9時30分が迫り、ライダーと競技委員長兼観光大臣以外はコースから退避。久恵夫人もピットからしか様子は伺えなくなる。


 ホームストレートを、いや、マン島全体を静寂が包み込み、針一本落ちてもその音が伝わって来そうな程の緊張感が漲る。


 4人の様子は、いたって落ち着いていた。


 時計の針が、午前9時30分を指した瞬間、スタートを意味する三本足の島旗が振り下ろされた瞬間、アイドル状態にあったマシンにライダーが一斉に跨りスタート!!周囲には大排気量ならではの太い排気音がオーケストラとなって交響曲を奏でる。そのサウンドに熱狂する観客。


 スタートから飛び出しクリプスコースで使われていたすぐの右カーブではなくまっすぐ向かいトップでブレイヒルへ突入したのはコゼット。彼女はスタートも抜群に上手く、ヨーイドッカーンによるロケットスタートからの流れも淀みなくスムーズだ。ダイナミックではないが、リーンウィズからの流れるような美しい走りに見惚れる者は少なくなく、さすがにプリンシパルと呼ばれているのはダテじゃない。


 後に続けとばかりに一斉にブレイヒルへ突入していくマシン群。その中にあってコゼットは一頭地抜けていた。


 


 そして、SSDはどうか。


 マシン群に囲まれながらも何とか全車クリアしていく。スタートからブレイヒルまでが最も混乱が多く、事故も多いのだが、今年はここでの事故は何とか免れた。


「くっ、全く容赦ないわね」


 国内とは比べ物にならない程のスピードで、しかも接触ギリギリまで接近してくる様子に、佳奈も戸惑いを隠せない。これが、世界なのかと。


 しかし……悲劇はすぐに発生した。


 ブラダン・ブリッジの立木に一台がコントロールを誤って衝突しライダーが投げ出された。その際にストラップが引きちぎれ路面にガラス片を散らし横たわるゴーグルが痛々しい。周囲には鮮血や脳漿、肉片らしきものも飛び散っている。


 マシンもフロントフォークが引きちぎれ前輪が分離しており原型を留めていない。それは何とロメックスのマシンであった。警官や医療スタッフが見るなとばかりにジェスチャーをして野次馬を退けているが、余程見るに堪えない光景であろうことは想像に難くない。このライダーはその後還らぬ人となった。

 サテライトチームであったが、将来を期待されていたであろうことは想像に難くない。


 死と隣り合わせの栄光。それがマン島なのである。


 尚、通過するライダーは決して現場を見ないようにし、努めて走行ラインだけを意識していた。レースで最も危険なのは、その場面を注視してしまってそこへ突っ込んでしまうことなのである。物凄いスピードで接近戦を演じることも珍しくないレースでは避けようにも避けられるもんじゃないケースが少なくないのも事実だが、多重クラッシュの原因の一つでもある。


 それでも通過時にチラ見するライダーは多い。


「何てこったい」


 紗代もその一人であった。


 また、他のメンバーも多かれ少なかれ残酷な現実を目の当たりにして少なからず動揺していた。




 6周に及ぶレースはまだ、始まったばかりである……

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