第61話 最初の一歩 その2

 プラクティスのため、マウンテンコースへと飛び出した一行は、マシンの感触や一挙手一投足を微に入り細に入り確かめていく。


 初めてマン島を走る、SSDのマシン。


「思ったより好感触ね。ハンドリングも素直だし、吹け上がりも悪くない」


 時折アクセルを煽り、スロットルレスポンスを確認する紗代。因みにエンジン回りや駆動系回りの慣らしは工場で済ませている。SSDでは事前にエンジンやミッションを組み立て状態にしてモーターで回しているのだが、これはロールスロイスなどでも行われていることだ。


「シフトの入り具合もスムーズだし、少なくとも組み立ては念入りに行われているわね」


 英梨花もフィーリング自体に不満はないようだ。目・耳・触覚など全身の感覚を総動員して何処かに問題がないかどうかを慎重に確かめていたが、今のところ問題はないようだ。


 その横を、欧州の名立たるメーカーのマシンが掠めるように抜き去っていく。実はマン島は事実上速度制限がないため、速い者は躊躇なく追い越しをかける。




「サスペンションの動作、そして路面からのフィードバックも今のところ不満はないわね」


 メンバーの中でも随一のハンドリング重視派である翔馬は、サスペンションの具合を気に掛けていた。しかし、足回りは問題なく路面に追従しているようだった。


 時折抜き去るライダーが、追い越し際にこちらを見る。自分の出で立ちは余程目立つらしい。因みに観客からの指を差すような気配は既に存分に感じていたが。




 ピットでは一行を見送った久恵夫人が腕を組んで既に見える筈のないマシンを遠目に見守るかのようであった。少なくとも、表情には不安はなさそうだ。


 それもそうで、耐久性自体には自信があった。


 久恵夫人は今、マン島の風景を遠目に見つめつつ戦時中のことを思い出していた。


 今から15年前、昭和18年(1943年)には明治神宮外苑競技場(旧国立競技場の前身)にて陸分分列行進曲が流れ、学徒出陣壮行会が行われる光景が印象的であったその年、大学を繰り上げ卒業したばかりの久恵夫人は数少ない女性技術者として中島飛行機に動員され、工場の設備管理にあたっていた。


 この時、日本は物資欠乏のピークに差し掛かりつつあり、常に機械をギリギリの状態で高稼働率を保ち続けるという難題に直面していた。翌年には結婚と同時に宍戸重工で設備管理に従事するも、現状は変わらなかった。


 結局この状態が続いたのは終戦までの2年程であったが、戦後も幾分か緩和されたものの5年程ギリギリの状況下での稼働が続いた。


 しかし、この間の体験はムダではなかった。というのも、工作機械や生産設備など、工場関連の機械は高負荷状態が続く過酷な状況で使われることを想定して高負荷試験などが行われるのだが、戦時下という究極の状況下、それも実践の場でギリギリまで酷使するという、平時ではなかなか得られない貴重なデータを手に入れたことも確かであった。


 各材質についても限界点を見極めることが出来た結果、それは戦後の製品開発などに大いに活かされたのである。無論、SSDのマシンとて例外ではなかった。


 この貴重なデータのお陰でSSDは当初から思い切って攻めた設計を可能にしたと言える。それが時折アダとなったこともあるが、基本的に完走率は高かった。


 無論、初出場の自分たちがそう簡単に世界で通用するなどと考える程甘くはなかったが、4年前にサンパウロで洗礼は受けたし、以前より各部も強化されており、完走は望めるだけの自信に繋がっていた。




 2時間後、プラクティスが終わり、一行は無事ピットに戻って来た。この間、欧州の有力メーカーの中にもプラクティスの時点でトラブルが発生していたケースもあったため、この点では上々だと言えるかもしれない。


「どうかしら?」


「ええ、慣らしでは思った通りにコントロールできるわね」


 自信満々に答える紗代と、満足げな久恵夫人。他のメンバーもヘルメット越しに覗く表情は同じようだ。


 


 しかし、その考えは甘かった。いざ本番となり、レーシングスピードで走ると、世界との差をまざまざと見せつけられるばかりか、マシンとしての完成度がまだまだ低いことを思い知らされることになる……

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