第60話 閑話 長崎にて

 昭和32年8月9日。


 昭和20年のこの日、長崎に二発目の原爆が投下された。広島に投下された史上初の原子爆弾がウラン235を用い、ガン・バレル型起爆方式を採用したリトルボーイに対し、長崎にはプルトニウム239を用い、インプロージョン型起爆方式を採用したファットマンが投下された。

 リトルボーイは途中の行程も含め全てが順調に経過し、快晴の中目標に向かって投下され、広島はほぼパーフェクトだったのに対し、長崎の場合は杜撰だった。

 まず、小倉が第一投下目標であったが、前日の八幡市空襲の残煙が上空に燻り、その上八幡製鉄所は執拗に空襲を受けたことからB-29来襲に際し僅か三日前の原爆投下を知らされていたのもあり、コールタールを燃焼するなどして煙幕を張り投下妨害を行った。

 因みに八幡製鉄所は幸運なことに、終戦に至るまで執拗な爆撃に曝されるも被害は殆どなかった。そして、戦後復興の一翼を担うことになる。

 結果、小倉は目標視認ができないため最終的に断念。その上原爆搭載機ボックスカー号は燃料系統にトラブルを生じ、帰還不能になるのを避けるため一刻も早く投下する必要があり、乗員は焦っていた。

 第二目標だった長崎上空も雲が掛かり、本来なら太平洋へ投棄せねばならなかったが、それでも必死で投下地点を探していた。

 その上、相当焦っていたのだろう、合流する筈の三機目は誤って12000m上空を飛行していたために合流できず、二機で爆撃決行となるも、危うく衝突しそうにもなっている。また、機内通話用のインターホンに触れたつもりが誤って無線スイッチを押し、無線封止を破る結果にもなった。

 本来なら目視投下厳守であり、禁止されているレーダー爆撃も検討し始めた矢先、雲の切れ間から長崎市街が見え、大急ぎで爆弾を投下した。

 昭和20年8月9日午前11時2分。二発目の原爆が長崎市上空で炸裂した。

 こう言うと不謹慎かもしれないが、広島と比べ長崎市の被害自体は目標であった中心部から外れた場所で大慌てで投下したこと、更に山に囲まれた特徴的な地形によって爆風や衝撃波が遮られる形となり想定より少なく、行政機能の全滅は免れた。それでも投下時7万人以上が一瞬にして命を奪われた。

 最新型爆弾だっただけに威力はリトルボーイよりも大きく、もしも本命であった小倉に投下された場合、被害は僅か1㎞足らずの関門海峡を越えて下関にも及んだのは確実で、その場合最大で40万人以上が犠牲になったという推測もある。

 しかし、想定より被害は少なかったとはいえ、最大の被害を受けた浦上地区は広島同様悲惨の一言であった。

 そして、生き残った被爆者の生き地獄も広島と同様である。


 それから12年後の8月9日。強い陽射しに蝉の鳴き声が喧しい中、五島紗代は墓地に姿を見せていた。着ていたのは鮮やかな向日葵柄のアッパッパ。それは、母の唯一の形見であった生地を仕立てた物である。

 また、被っていたカンカン帽は、出生後程なく出征した父の形見だった。傷みがひどかったリボンだけ黒ではなく反物の余った部分で作った物に変更している。生前の父を知る術は知人や親戚の証言、写真にしかなかったが、ハヤシライスとコーヒーをこよなく愛した、かなりハイカラな人であったようだ。

 因みに母は嘗て喫茶店でウエイトレスをしていた他、モガ、所謂モダンガールを気取っていたこともあり、昭和アバンギャルドを体現した一人でもあるなど、父に劣らぬハイカラさんだった。


 今日は紗代にとって二十歳の誕生日であり、唇に紅を差し、母の形見をアッパッパに仕立てて墓参したのは、大人になった自分の晴れ姿を天国の両親に見てもらいたかったから。

 お盆前であったが、この日墓地には他にも墓参に来た人が散見された。明らかにこの日犠牲となった方の遺族である。

 紗代もその一人だった。

 よく見ると、昭和二十年八月九日一家全滅と刻まれている墓石も少なくない。無論、広島でもそう刻まれている墓石が散見される。こちらは八月六日であったが。

 紗代は父を早くに戦争で亡くし、更に八月九日、唯一の肉親であった母をも亡くした。爆心地から僅か1㎞の自宅の庭に掘られた防空壕に留まるよう言い聞かされて分かれたのが母との今生の別れとなってしまった。母は遺品すら見つかっていない。

 そして何より、翔馬がそうであったように、紗代もまたこの日が誕生日だったのである。

 墓前には生前両親が好きだったというカステラを供え、線香の煙が仄かに漂う中、紗代は午前11時2分、静かに手を合わせ黙祷。

 黙祷を終え瞳を見開くと、周囲からは時折すすり泣く声も聞こえる中、紗代は明るい口調で語り掛ける。

「お父さん、お母さん。来年マン島に行けることになったんよ。晴れ姿、天国で見ていてね」

 そう言って、墓地を去る紗代。例え離れていても通じ合っている者に多くの言葉はいらない。その顔には、ある種の清々しさが浮かんでいた。

 何より、紗代も原爆の日にも関わらずあっけらかんとしているが、これは亡くなった両親が自分が悲しんでいる姿など見たくもないだろうと思っていたからである。一部の人からすれば翔馬もそうであるが、紗代の考え方は不謹慎だという声もあるだろう。だが、紗代は犠牲となった方は生き残った人に前向きに生きて欲しいと願っているに違いないと確信していたし、何より悲しむよりは前に向かって進む方が建設的だと考えていた。そして、それこそが生き残った者の責務ではないのか!?

 去り際、そんな紗代も心密かに誓っていた。私は生き延びたのではなく、見えない力によって生かされたのだと。   

 あの日、爆心地から僅か1㎞しか離れていない場所で無傷で助かったのは、いくつもの幸運が重なっていた。

 まず、防空壕が比較的深いところに掘られ、最奥部は出入り口からやや曲がっており、そこに蹲っていたため結果として初期放射能を直接浴びなかったこと、防空壕の前に大きな家があったお陰で衝撃波や熱線の直撃を免れたことなど。

 これが奇跡でなかったとしたら何だというのか。高度成長期に入ったとはいえ、既に焼野原も消え去ったとはいえ、未だに戦争の傷に苦しみ希望を見出せない人がいる。そうした人のための希望の灯になろう。

 自身も二輪の魅力に憑りつかれ、いつしかマン島、そしてGPに出てみたいと漠然とした夢を抱いていた。だが、その目標は最早自分だけの物じゃないと。

 

 紗代はそういう人間である。ある意味凄まじいメンタリティーと言えよう。


「さて、折角長崎に来たことだし、ハヤシライスに皿うどん食べて土産にカステラ買ってと。やっぱりカステラと言えば福砂屋だよねえ」

 因みに紗代はちゃんぽんではなく皿うどん派。そして太麺ではなく細麺派である……

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