第59話 閑話 平和公園での誓い

 昭和32年8月6日。平和祈念公園。

 

 この時季、広島の夏は蒸し暑い。平和祈念式典終了後、昼になろうとしていた時、昭和27年に除幕式を行った原爆死没者慰霊碑の前に佇んでいたのは、西原翔馬。

 12年前のこの日、親戚の家に遊びに行っていて原爆に遭遇した。そして何より、この日は翔馬の誕生日だった。

 叔母の勘の鋭さと、地下室が二階だったという幸運が重なり、翔馬以下5名は爆心地から僅か150mだったにも関わらず全員無傷で助かった。

 翔馬にとっても、あの時の出来事は恐怖の出来事として忌々しく脳裏に焼き付いている。ドーンという物凄い音と共に地下室は激しく揺れ、更に地上に出ると一面闇の世界の中を、僅かに見える橋の欄干の輪郭などを頼りに無我夢中で実家へと逃げた。周囲は地獄の光景が拡がっていたのだが、その時の記憶があまりない。あの時の真の姿を知るのは、戦後数年が経過してからのことである。

 実は、翔馬たちは爆心地から最も近くにいて生き残った被爆者だった。しかし、当時爆心地付近、定義では爆心地から500m以下の場所にいて幸運にも生き残った人の多くは、そのことを周囲に信じてもらえず、いつしか沈黙を守るようになっていった。なので、翔馬もその記憶は封印したまま。

 その証言が信用されているのは、今のところ燃料会館(現レストハウス。昭和57年6月までは東部復興事務所)の地下室へ書類を取りに行って助かったという野村英三氏(当時47歳)のみであった。それまで爆心地付近の実相はそれ自体が闇の中で、それから40年も経過した昭和60年になって僅かな生き残りを探し出し、再調査が行われて漸く爆心地付近の実相が明らかとなる。


 僅か二年前に開館した平和祈念資料館にも足を運んだが、当人にとって実相はもっと生々しいものだった。戦後の混乱期、家が裕福だったのもあって自身はそれほど不自由した記憶はない。だが、周囲で生活苦に喘ぐ人は山のように見ていたし、知り合いにも大勢いた。翔馬にとっては原爆の地獄絵図以上に、生き残った人々のその後の方が遥かに地獄であり、原爆の実相を生々しく感じられたものだった。

 不謹慎な言い方で申し訳ないが、亡くなられた方の無念は察するに余りあるのも確かとはいえ、生き残った人にはその後も生き地獄が襲い掛かるのである。翔馬にとってはそちらの方が比べ物にならない程の地獄の光景に他ならなかった。

 被爆者は当時、稼働していた病院は無論、行政機関や大規模工場、学校など、人を収容可能なありとあらゆる施設が臨時救護所として使われ収容され、宍戸重工でも講堂などに被爆者を収容するほどだった。

 島の小さな開業医から県境近くの田舎の山奥の病院まで、広島中の病院がフル稼働し、一部は県外、山陰や山口の病院にも収容されている。

 翔馬以下一族は幸運にも全員無事だったが、お手伝いさんの子供が被爆して島根の病院に収容されており、そこまで何度か見舞いに行った。当人は当時翔馬より二つ上で国民学校に通い始めたばかりで建物の影にいたのもありケガ自体は比較的軽かったものの、それでもガラス片に由来する左腕から左上半身に掛けて痛々しい傷跡が残っている。そんな当人も去年結婚、秋には母親になるという。

 銭湯などでもそうした傷を残していた人を見るのも当時は日常茶飯事であった。実家に風呂があっても銭湯に行くことが結構あったのだが、チームメイトもあちこちに傷のある人の多さに絶句する他なかった。尤も、それはすぐに見慣れた光景になったけど。

 

 慰霊碑の前で翔馬はふと考える。本来なら灰になっていてもおかしくなかった自分が、今こうして生きて慰霊碑の前に立っているのは、何か理由がある筈だと。自分は生き延びたのではない、生かされたのだといつしか思うようになっていた。

 生かされている理由は何なのか。慰霊碑を見つめながら瞳を閉じ沈思黙考。やがて、ある答えに辿り着く。

 

 それは、マン島を制すること。それは当初、母静馬が戦前マン島を制したことから自分もその後を追いたいと思っていた、自身の野望に過ぎなかった。

 しかし、今それは、戦争に傷ついている広島県民、果ては日本国民にとって希望の灯になることへと昇華していた。

 暗闇の中、一筋の光が差したようにそこへ歩いて辿り着いた答えだった。それは、悟りにも似ていたかもしれない。

 瞳を見開いた翔馬は、清々しい思いに包まれていた。そして、慰霊碑を後にする。すれ違いざま、一人の少女が慰霊碑へ花を手向けに来た。彼女もまた、夏の装いから覗く腕の傷跡が痛々しい。被爆者、特に女性にとって、夏はつらい季節だったに違いない。マン島を制した時、彼女は微笑んでくれるといいな。翔馬はそう思った。


 平和公園を一歩出ると、そこにはいつもの顔ぶれが。

「よお、翔馬。探したぜ。今日が広島にとって重要な日だってのを思い出して平和公園に来たら案の定だけどよ」

「まあ、そうだったの。それじゃ、折角だから楽しみましょ」

「いいの?翔馬そんなこと言って」

「いいのいいの」

 この時、翔馬は5年前、白血病に斃れた知人のおばさんの最期の言葉を思い浮かべていた。知人のおばさんは、爆心地から4㎞近い場所で被爆し、無傷に近かったのだが、黒い雨を浴びていた。当時黒い雨が原因かどうかは断定できなかったが、その可能性は否定できなかった。また、当人もあの日、両親を亡くしており、臨時救護所で発見した時、見るに堪えない最期だったという。だが、おばさんは気丈だった。

「翔ちゃん、8月6日に悲しんじゃいけんよ。あの日死んだ人は、誰もそんなこと望んじゃおらん。生き延びた人は、思い切り楽しみんさい。それが死んだ人の望みじゃけえ。悲しむなんて、誰も望んでないけえ」

 それはもしかしたら、当人が亡くなる直前の両親から伝えられた言葉だったのかもしれない。その言葉を胸に、当人は今日まで必死で生きてきたのだろう。確かに、明るくいつも笑顔を絶やさない快活な人だった。元々の人柄もあるのかもしれないが、両親の言葉を受け継いでいたからこそだとしても不思議はない。

 そう言った直後、おばさんはこと切れた。その時、まだ37歳の若さだった。母静馬と同い年。その死に顔は、とても安らかだったのを覚えている。それ以上に、この最期の一言が今も脳裏に強烈に焼き付いていた。こんな時にさえ、前向きに生きろと檄を飛ばしたのである。

 それが今、翔馬の心の中で自身の目標であるマン島制覇とシンクロし、リンクしようとしていた。そして内心で誓う。私は、皆のためにマン島を制すると。


 そして、今日は自身の誕生日。自分が一番喜ぶべき日ではないのか?おばさんの最期の言葉を脳裏で録音テープのように反芻しながら、翔馬は吹っ切れたかのように言い放つ。

「さあ行きましょ、今日はタマルにしようか。あそこのフルーツを使ったデザートは絶品なんだから」

 

 

 追伸:今日は広島にとって重要な日です。この日に対する心境は、人の数だけあるでしょう。

 私は記念というのは心情的に好きになれないので敢えて祈念としております。そして、私は単なる平和主義者ではありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る