第53話 マン島再び その2
一旦ここで、多田健蔵にスポットを当てることにしよう。彼の挑戦なくして今の彼女たちのマン島出場もなかったであろうことは確かで、未来へと繋げてくれた偉大な先駆者について話をしない訳にはいくまい。
多田健蔵は明治22年(1889年)2月17日、神奈川県秦野市にある穀物商店を営む家に生を受けた。しかし、13歳の時に家業が傾き、近所の同業者に丁稚奉公に出ることになるのだが、過酷な仕事に耐えかね3年で退職。親のツテで横浜の米問屋へと転職するのだが、これが人生最初の転機となる。
店にはドイツ製の自転車があり、彼は毎日この自転車に乗って得意先の御用聞きに回った。多田には生来か、はたまた御用聞きをする内に鍛えられたのが加わってか、並外れた健脚の持主であった。それを見込まれ不忍池で開催される自転車レースへと出場。その後明治40年(1907年)には横浜貿易新報(現神奈川新聞)主催の自転車長距離走にて250マイルを16時間53分で走破し優勝している。
その間自転車競技の選手生活をこなしつつ、やがて東京日本橋で二輪の輸入販売を営む多田商店を開業し、大正10年(1921年)頃から自転車競技を引退すると共に二輪レーサーへと転向した。この時多田は34歳であり、ほぼ同時期、28歳にして二輪レーサーとなりレーサーとしてのキャリアをスタートさせた、イタリアのタツィオ・ヌヴォラーリと比べても更に遅咲きであったが、一方でかなりの冒険心の持主であったことが窺える。実は多田が二輪レーサーとなった時、日本にはまだ20人程しかいなかった。その意味では日本の二輪レーサーとしても先駆的存在である。
この時代、日本でも二輪レースが全国紙の後援を受けて急速に盛り上がりを見せ、観客動員数も次第に増加していく。当時、まだ選手権としての体裁は整ってなかったが、大きな大会や祭りの呼び物として開催が次第に恒常化し、ライダーは人気者となっていった。
勿論多田もこの頃には全国に名を知られた著名人の一人であった。
二輪レーサーとしてはかなりの遅咲きであったが、多田には自転車選手時代に鍛えられた勝負勘やバランス感覚があった。恐らくその健脚も二輪を操縦する上で大いに役立ったことだろう。
そして第二の転機が訪れる。それは、当人が店で扱っていたメーカーの一つ、ベロセットからの招待状であった。それは何と、マン島TT出場の招待状だったのである。
多田をマン島へと招待したベロセットは1905年(明治38年)創業のイギリスのメーカー。250から500で活動していたが、主な戦場はミドルクラスであった。
当時、戦後の日本ほどではないにせよイギリスには数多くの二輪メーカーが乱立しており、大手のBSAなどと比べると、ベロセットはその中にあって町工場に毛の生えた程度の規模であったが、高性能と先進のメカニズムで知られ、二輪の歴史に名を残すべきメーカーの一つであり、後世に与えた影響は非常に大きい。
ベロセットが画期的だったのは、現在では当たり前になっているフットチェンジを最初に採用したことであった。
それまで変速操作はスロットルを離して手で行うのが基本だった。当時のクラッチは非常に重く、左手ではなく左足で操作していた。尚、フットチェンジが確立後も戦前にはクラッチを左手で操作しつつシフトは右手で行うメーカーが散見された。
ハンドルから手を離さず行えるこの方式は画期的で、これによりずっとハンドルを握り続けられるため、バランス取りの観点からも非常に有利だった。
ベロセットこそ、まさに現代の二輪に連なる基礎を確立したメーカーと言えよう。尤も、操作配置に関してはその後もメーカーによってバラバラで、それがベロセット式にほぼ収斂するのは、60年代に入り日本のメーカーが世界各地のレースで圧倒的な強さを見せるようになってからのこと。強きに倣えが二輪業界なので、圧倒的な戦闘力を誇る日本製二輪に世界中のレーサーが乗り換えた結果、当然その操作配置が骨の髄まで沁みこむので、少なくとも追随しないと自分の製品が売れなくなることに直結するためそうなっていったと推測される。
そんなマン島に出走した多田はこの時40歳(史実より一年早い)だったが、ベロセットの期待に応え見事15位完走。これに気を良くしてベロセットは再び多田を召喚。二度目も11位で完走し、東洋からの高齢の挑戦者に対し、主催者は二度に渡りレプリカ杯こと特別賞を贈った。
また、40代とは思えない果敢な走りに観客を息を呑んだという。表彰式には何と紋付袴で臨んでおり、今もその写真が残っている。
それから四半世紀余りが過ぎ、多田は選手団長として再びマン島へ旅立つことになるのだが、結成式に展示された各メーカーのマシンを見て感慨一入であった。
「私が出走した頃と比べ、随分進化したものだね。しかも日本製だなんて考えられないよ。もしもあの時に戻れるなら、私も乗ってみたかったなあ」
特にSSDのマシンは殊の外見入っていた。赤を主体としたマシンは特に目立っていたのもあるだろう、取り分け盛んにフラッシュを浴びてもいた。
尤も、赤を主体としたカラーリングは、当時の風潮からしてダイタンに映ったのか、批判的な見解も多かったようであるが。
先駆者の前で、恥ずかしいレースは絶対出来ない。自分たちは鋼の勇気を受け継ぎ、次へと繋いでいくのだと。感慨深げにマシンを見つめている多田の傍らで、今日に至る伏線を作った勇者を前に、誰もが決意を新たにする。
二日後、一行を乗せた飛行機が、マン島に向け飛び立って行った。歴史は、動き始めたのである……
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