第52話 マン島再び その1

 昭和33年(1958年)5月。




 SSDの一行は、マン島に向けて旅立つ直前取材を受けた他、今年はホンダ、スズキ、メグロも参戦を決めていた。なので、合同で日本二輪選手団が結成され、選手団長は日本人として初めてマン島に出場し、その後も様々な形で日本の二輪レースの発展のために奔走した、多田健蔵、副団長は、何と翔馬の母親、静馬であった。


「まさかお母さんが一緒に来るとは思わなかったわ」


「あら、これで翔馬は反って気合が入るってものでしょ?親の前で恥ずかしいマネは出来ないものね」


 その一言に、一同呵々大笑。


 その時、実はカメラのフラッシュが眩しい記者会見の席でのこと。なので、静馬のこの一言にはマスコミからも笑い声が漏れる。実は、静馬の場を和ませようとするジョークであった。


 驚くことに、取材メディアの中には何とアメリカのFOXや、イギリスのBBCもいた。




 実は、結成式が行われている舞台は何と帝国ホテル。


 当時フランク・ロイド・ライトの設計による大正12年(1923年)竣工の二代目の時代であり、ライト館とも呼ばれていた。


 尚、帝国ホテルというと、厳密には帝国ホテルという宿泊サービスを営む企業グループを指すのだが、一般には帝国ホテルというと、東京にある帝国ホテルを指すことが多い。


 また、結成式当時、ライト館の裏には客室数170の第一ライト館と、その横に客室数450の第二ライト館が増築されたばかりであった。このためライト館は後にライト本館と呼ばれるようになる。


 ライト本館は都心の一等地にある巨大建造物でありながら客室数は270しかない贅沢な間取りであり、二代目のライト館は帝国ホテルの歴史上、最も華麗な時代であったと言えよう。


 その孔雀の間が結成式の舞台であり、これから世界に羽ばたこうとする日本の二輪メーカーにとって、これ以上に相応しい舞台はあるまい。


 


 余談だが、このライト本館は昭和42年(1967年)を以て閉館となり、玄関部が後に明治村に移築された以外は全て取り壊しとなった。


 震災はおろか東京大空襲にも耐えて生き延びた歴史的建造物の解体には反対も多かったが、現実問題として築40年以上が経過し老朽化に加え、地盤沈下によって柱が傾くなどして雨漏りがしていたこと、更に都心の一等地にある巨大建造物でありながら客室数僅か270では、戦前と異なり採算性を悪化させる原因となっていた。


 このために解体はやむを得なかったのである。




 記者会見の後はビュッフェ形式の立食でライバルなどの垣根を越え、思い思いに語らうのだが、そんな中にあって今回選手団長を務める多田健蔵の周囲には取り分け大きな人だかりが出来ていた。因みに彼は一人紋付袴姿であり、当時既に齢70であったが、なかなかにダンディーで、人を惹き付ける魅力もあった。無論人だかりにはSSDのメンバーも。女子選手からすれば、この時の多田は、間違いなくオジサマであった。


 その人だかりからして多田に誰もが特別な敬意を払っていたことが窺え、女子部門ではあるが日本人として初めてマン島を制した静馬や、宍戸重工社長の仁八も例外ではない。


 それも当然で、確かに戦績は15位、11位と目立たないかもしれないが、完走どころか生きて還れるかどうかさえ分からないマン島であることを考慮せねばならない。例えビリでも完走するだけで賞賛されるのがマン島であり、それはビリでもゴールするだけで称えられるトライアスロンと同じである。


 そして、多田は出走時40と若くはない。本来なら引退を考えるべき年齢であった。当時とこの頃ではマシンの性能にかなりの差があったので、一概には比べられないかもしれないが、二輪レーサーの選手生命は基本的に短い。ケニー・ロバーツがGPの舞台を去ったのは32の時だし、エディー・ローソン、ケビン・シュワンツなどもほぼそのくらいである。


 


 何より、日本人として初めてマン島に挑んだ勇気ある挑戦が後進に与えた影響は大きく、彼がマン島に挑んでなければ静馬のマン島制覇もなかったかもしれないし、ましてや今日、ここにマン島に挑む日本の二輪メーカーの姿もなかったかもしれないのだ。その意味では間違いなくレジェンドである……


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