第51話 前夜 その2

 仁八と技術陣が感慨に浸っていたのとほぼ同じ頃、こちらでも大賑わいであった。その理由とは?


「皆、装備一式が届いたわよ」


 そう聞いて、黄色い声を上げる皆さん。尚、久恵夫人たちが今いるのは、事務棟の奥の空き部屋で、段ボールが七つ置かれていた。


 名前の書かれた該当する箱を手に取り、一式を取り出す。


『わあ~、こ、こ、これって、すっごおおおおおおい』


 お約束と言うべきか、感激の余り全員ハモってしまった。理由は簡単。マン島に行くことが決まり、ツナギ、グローブ、ブーツ、そしてヘルメットの一式が届けられたのだ。久恵夫人が説明を加える。


「それぞれ懇意にしているメーカーが、世界に出るにあたって、皆が恥ずかしい思いをしないようにって」


 しかし、誰も聞いてない。


「まあ、無理もないか」


 その様子に呆れつつも、苦笑しながら許す久恵夫人。大喜びしている時点で思いは伝わっている訳だから。




「それにしても、このツナギ、従来とは随分異なるよねえ」


 そう、SSDのカラーリングに合わせコーディネートしているのは同じなのだが、関節部に蛇腹のような加工が施されていた。


 実は、この加工によって従来より更に動きやすくなっていると久恵夫人から説明された。


「そればかりじゃないわ。随分と軽いし、こんなに薄地で大丈夫なの!?」


 ここで翔馬が自信ありげに説明する。


「だって、牛じゃなくてカンガルーだもの」


 翔馬の話によると、母方の祖父は嘗てオーストラリアに出稼ぎに行っており、懇意にしていた現地の人からどういう経緯かは不明だが、大量のカンガルーレザーをもらっており、あまり使い道がなく家の奥に眠っていたのをツナギに使ってはどうだろうかと物は試しでカジタニへ持って行ったという。因みにその祖父は釦の材料となる阿古屋貝漁師をしており、およそ10年に渡ってオーストラリアで働いていた。


 カジタニの話によると、これは実に素晴らしい皮であるとのこと。


「カジタニって、同じ牛革でも欧州製のツナギより軽くて動きやすいのに、これは更に上を行ってるわね」


 そう、カジタニでは主に国産牛の革を用いるのだが、仔牛並に柔らかく、それでいて丈夫であった。カンガルーは更にその上を行くという英梨花の見解に、当人がそう言うなら間違いないと誰もが納得する。


 因みに、当時ツナギは転倒すると穴が開くのが普通で、それ故使い込んだツナギには継接ぎがあったり、ブーツに穴が開いて指が見えてることもザラであったが、カジタニに限ってその心配は当初から無用だった。


 後に彼女たちが参戦すると、そのことに驚く関係者は多かった模様。それを見てカジタニのツナギを注文する外国人ライダーも増加することに。


 他にも、当初から日本的工夫が随所に施されており、内側には麻が張られ、要所要所にパンチングされていてそこから汗を逃がし、蒸れないようにする工夫がされている。後に内張は化繊に取って代わることになるが、麻の内張りを好むライダーも多く、その後もオーダープランで残されることに。


 麻は涼しく乾燥も早いのに加え、摩擦にも強いので重宝した。また、日本人にとってはなじみ深い素材でもあり、着心地の点でも優秀である。因みに80年代まで、縫製糸にも麻が使われていた。後に更に改良され、麻とリネンの混紡が使われるようになり、更に着心地が向上した。


 尚、麻とは2m以上ある茎から採取しているのに対し、リネンは60㎝程度の茎から採取しているという違いがあり、前者は強靭、後者はしなやかという特徴がある。


 加えて膝や肘、更に背中には開発されたばかりの発泡性素材を充てており、これは転倒時のダメージを軽減する役目があった。加えて当時既に海外では転倒時の頸椎の保護と走行時の空力を兼ねたハンプと呼ばれるこぶ状のプロテクターが装着されており、カジタニもそれに倣って初めて装着することになった。


 膝には新開発のマジックテープで留める革パッドが装着されていたが、これはハングオフがほぼ当たり前になりつつあった彼女たちの要望を反映しており、膝を接触させるメリットに気付きつつあった一行にとってはこれが大きな武器となる。


 更にツナギにはデカデカと蛍光イエローでSSDのロゴが縫い付けられており、更に当人のネームも各所に。これはロメックスやビュガティなど、一部トップチームでも当たり前になりつつあったのを参考にしていた。後にツナギも次第に華やかさを増していく。


 何より、赤をベースに青と白へ蛍光イエローは目立ちまくりであった。当時は今と比べるとこれでもシンプルな方だが、コレクションホールに展示されている当時のライディングギアのデザインも悪くないと評価する声は意外と少なくない。




 グローブもカンガルーレザーで、動きを阻害しないよう発泡性素材が要所に配置され、掌はバックスキンを一枚余分に当てて強度と扱いやすさを両立させている。僅か60分程度、マン島ともなると2時間前後に及ぶレースでは、短時間とはいえグローブは想像を超える過酷な環境に曝され、穴が開くことも珍しくなく、ツナギ程ではないにせよ高価なグローブを頻繁に買い替える訳にもいかないのでツギハギしていることも多く、こうした対処は有難い。


 


 ブーツはツナギ同様関節部に蛇腹状の加工が施されており、靴底を縫い込む手間は掛かるが強度が高く履き込むにつれ足に馴染んでいくグッドイヤーウエルト製法が採用されていた。当時、海外でもブーツにこの製法を採用していたメーカーは多くない。このためハードに使い込まれる内に足の指が露出するのが常であった。


 しかし、カジタニのブーツでその心配は無用だ。


 内張には豚の革が使われており、通気性、強度、触り心地で文句のないセレクトだった。




 ヘルメットは当時フルフェイスが普及しつつもまだジェットヘルやハーフカップヘルにゴーグルで出場するライダーもいた混交であったが、SSDは将来性に鑑みフルフェイスを選んだ。実は戦前、SSDでは僅かな間ではあったがライディングギアの一つとしてヘルメットを製作販売しており、更にフルフェイスヘルメットも研究していた。だが、程なく戦争に突入すると、石油とも関わりの深い樹脂素材は規制の対象となり、販売及び開発は途絶えてしまう。


 その後、戦後に入って密かに研究だけは再開していた。それが漸く実を結ぶことになる。


 ヘルメットのデザインはアメリカのベルもあったがイタリアのAGVを参考にした。その際英梨花が現物を提供してくれたのが大いに役立った。また、英梨花からの要求水準は女の子のワガママを通り越して驚くほど高かったが、いずれも不可欠な要素だったので開発陣は全て受け容れてくれ、静かに開発を始めた。


 その甲斐あって、非常にスタイリッシュ且つ、これまでになく戦闘力の高いヘルメットが完成した。デザイン的にはAGVのピスタなどをイメージしてもらいたい。当時としてはオーバースペックだが。


 空力のみならず通気性も早くから意識しており、元々航空分野にも進出していたのもあって風洞設備に於いてマシンに乗り込んだ状態で体を張って何度も相談を重ねた価値はあった。


 そして、内装は取り外し可能でFRP製の本体も含め完全に丸洗い可能というのは、恐らく当時世界初だろう。


 シャープな造形も満足いく仕上がりであり、何よりライダーに合わせてカラーリングが施されていた。このために各自ヘルメットデザインについては頭を悩ませては久恵夫人から何度もボツを食らっているのだが、それだけの価値はあったと言える。何しろ世界に出るのだから恥ずかしくないようにとカラーリングについては拘った。


 紛れもなく全ての面に於いて当時世界の最先端にあるヘルメットであると豪語できる、それほどの自信作だった。


 後にSSDブランドとしてヘルメットは販売されることになり、日本を代表するヘルメットメーカーの一つに数えられることになる。尚、時代が下るとAGVなど一部の国内外のメーカーはカーボン製帽体のヘルメットを発表するが、SSDなどは安全上の見解に対して、その特性からFRPで十分であり、且つ最も適していると、FRPに拘り続けている。


 実は、結論から言うとこの見解は正解で、無論どのヘルメットも後に登場するスネル規格など非常に厳しい安全基準をクリアしているので問題ない訳だが、何でも適材適所があるのは事実と言えよう。優れた素材が必ずしも万能選手とは限らない。




 また、ツナギなどは個人個人微妙にデザインに変化が付けられており、例えば翔馬の場合、所々に蛍光イエローのアクセントが施されているなど、さり気なく個性を主張していた。




「それにしてもホントに気合入ったデザインね」


「そうよ、世界に出ていくにあたり、皆が恥ずかしくないようにって、それどころか、我が国がこれから恥ずかしい思いをすることがないようにって。貴方たちは親善大使でもあるのよ」


 そうなんだ……そう思うと皆、気が引き締まる思いだった。




 最早、マン島制覇は自分たちだけの目標ではなくなりつつあった。そこへ、多くの人の支援や応援も背負って世界に出るのである。しかし、そう考えると、更に闘志と勇気を掻き立てられるのだった。一人で戦うんじゃないんだと。


 ライディングギアを見つめる先に、自分たちを応援する大勢の人の声が聞こえてくるようだ……

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