第50話 前夜 その1

 昭和33年(1958年)4月。SSDのマン島初参戦まで、あと二か月になろうとしていた。


 折しも前年、丁度久恵夫人を団長とする一行がマン島を視察に行っていた頃、東京タワーの建設が始まり(尚、工期が短かったため、最終設計を終える前に基礎工事が始まるあわただしさだった)、今年一杯には完成する予定だった他、長嶋茂夫がこの年巨人軍に入団するなど、何かと話題の多い年であり、また、岩戸景気によって高度成長は本格化、東京タワー誕生と軌を一にするかのように全国で都市開発が急速に進んだ。


 日本人の多くが、自覚するしないに関わらず、世の中が大きく変わろうとしていると感じ取ったのは、間違いなくこの年だろう。


 その意味では節目と言える年であり、その節目に、宍戸重工、というか日本の二輪業界は偶然か必然か、その歴史に於いて一つの節目を迎えようとしていた。




 深夜、宍戸重工の工場の片隅で、遠慮がちに明かりが灯っている。その灯りの下で、マン島制覇プロジェクトによる極秘開発が行われていた。尚、その明かりは工場の最奥部であり、基本的に塀の外からは伺えない。


「社長、遂に完成しましたね」


「ああ。皆、よくやってくれた」


 漸く完成したマシンを前に、誰もが感慨深げである。


 


 SSD RH-1と名付けられた二台のマシンは、これまでの鉄丸パイプを溶接して作られていたクレードルフレームに代わり、ビュガティで採用されていたツインスパーフレームを参考に、航空機の構造を採り入れ応用したアルミセミモノコックフレームへ、4連キャブを搭載した水冷DOHC4バルブデスモドロミックエンジンを組み合わせ、更にラムエア効果を利用した吸気口へ、エアクリーナーボックスを取り付けた。これも戦前から戦中に掛けて航空機分野に進出していた頃に研究していた技術を応用したものである。


 エンジンをフレームとして利用する完全モノコックも検討されたが、セッティングのために頻繁に分解することが多いレース用マシンでは問題が多いことが設計段階で判明したため、エアクリーナーボックスなど一部をフレームと一体化する程度に留めて妥協したが、当時としては間違いなく先進的であった。


 ビュガティが採用していたツインスパーフレームと外見上はそんなに差異はなかった。


 SSDならではの工夫として、前部を太く、後部にいくに従い細くしているのは、所謂撓り効果によるハンドリング向上を狙っていた。


 宍戸兄弟は、感覚的に撓りがハンドリングに与える重要性に創業当初から気付いており、単に剛性があるだけではダメで、意図的に剛性の低い部分を設けてハンドリングを高める手法を受け継ぎ進化させている。


 


 尚、エアクリーナーボックスカバーはアルミ製であったが、プラスチックで作ることも検討したものの、当時はまだ信頼のおける材質ではなかったのと、アルミによる空気の冷却効果をも狙っていた。


 その効果は絶大で、4気筒でありながらグループS仕様で120hp、X仕様で135hpに達し、前年のビュガティ、ロメックスの6気筒とほぼ互角の性能を手に入れた。


 4気筒を選んだのは、伸びが弱い反面扱いやすく、また、軽量なためハンドリングを重視していたSSDの設計思想とも合致するからであった。尚、当時ミドル級(500㏄)から重量級では4気筒が主流だった。ビュガティ、ロメックス、更に最初に6気筒を持ち込んだイギリスのトライアンフが別格だったのである。因みにトライアンフは軽量級及びミドル級と、グループXにエントリーしており、47~49年、51年、55年と56年にはグループXで6気筒のアドバンテージと独自ノウハウによる軽量な車体を活かしチャンピオンとなっている。


 潤滑は当時主流だったウェットサンプでオイルクーラーを搭載、ミッションは7段というのもグループS及びXでの流儀に従った。


 


 エンジンブロックやピストンは鍛造アルミ製で、ブロックは削り出した後に特殊鋼製シリンダーライナーを挿入するという手間が掛かっており、シリンダーヘッドも高圧縮比に耐える目的から同じく特殊鋼を採用。


 シリンダーライナーには、プラズマ溶射が施されていたが、これは当時日本では宍戸重工が初めての採用であった。元々レース用に早くから使われていたが、潤滑性能の向上による耐久性や経済性の向上といったメリットがあり、市販車にも有効なため、生産技術の向上と共に徐々に採用が広まった技術である。


 因みに容赦技術は1910年代にスイスで生まれており、当時でも既に40年を超える歴史があり、意外と古い。


 クランクシャフトはクロムモリブデン鋼から削り出したフラットプレーン、軸受には滑り軸受を採用。また、強度的に負担のない部分、クランクケースやカムカバー、その他カバー類には軽量化のためにマグネシウム合金が採用されていた。


 因みに切削加工に於いては、魚雷の気室製造に於いて磨かれたノウハウが活かされていた。当時の日本軍の魚雷は、圧縮空気を高圧で詰め込むために気室と呼ばれる部品をニッケルクロムモリブデン鋼の円柱を切削加工して製作していたのだが、手間が掛かる反面軽量且つ高強度を実現した。このために日本の魚雷は気室が最も高価な部品であった。宍戸重工は過去、下請として魚雷の気室を製造していたのである。


 余談だが、欧米では金属板を円筒状に溶接加工していた。実際のところ、日本には当時これで気室が耐えられなかったために切削加工するという非効率且つ手間の掛かる工法を採用せざるをえなかったという事情があったのだが。


 だが、皮肉にもこの時に得たノウハウが、このような形で活かされることになった。




 サスペンションはフロントが正立テレスコピック、リアがロメックスを参考にしたモノショック式スイングアーム。


 フロントはロメックス及びビュガティを参考にダブルディスク、リアはシングルディスクとした。


 乾燥重量はグループS仕様で200㎏、グループX仕様だと220㎏あった。これはロメックスやビュガティと比べるとまだ30㎏重い。しかし、当時の日本製二輪としては、同排気量と比較しても70㎏以上も軽いのだが、そこがまだまだ世界との差でもあったと言える。


 尚、セミモノコックと並び、当時としては無自覚に先進的だった部分として、早くからカセット式ギアクラスターを採用していたことが挙げられる。これは、僅か3本のボルトを外すだけでミッションユニットを取り外してギア交換が出来るという優れた構造であったのだが、WMGPではSSDが初めて採用した。


 これは、戦争で多くの男子を失い、結果としてモータースポーツの裏方にも女子が多数進出せざるをえなくなり、それは日本とて例外ではなく、SSDにも女子メカニックが多かったことから少しでも負担軽減を目的に採用された。


 後にこのカセット式ギアクラスターはそのメリットが各メーカーにも認知され、重量級クラスでは3年と経たない内に普及し、更に10年以内には全クラスに普及した。


 


 鈍い金色のダイキャストホイールは、マグネシウム合金製で、マグネシウムのみの方が軽いのだが、耐久性の面で難があると判断し、安全上の見地から当時の流儀に則り次善で妥協してイタリアのマルケジーニを採用した。これは当時重量級では最もユーザーの多かったホイールでもある。


 また、当時の重量級の流儀に従い、サイズは17インチ、幅は前が120、後180を選んだ。


 タイヤはイギリスのダンロップ、キャブ及び電装品はドイツのボッシュ、プラグはボッシュではなく当時技術提携していた日本のNGK、チェーンはタカサゴ(後のRK)から供給されることになった。


 


 そして、ダンロップ、マルケジーニとは長い付き合いとなる。また、当時ヨーロッパ初のスリックタイヤのファーストユーザーとなった。これは、エイミーが早くから目を付け、浅間でもそのアドバンテージを如何なく発揮したことから採用に迷いはなかった。


 尚、ダンロップは後にライダーのセッティングの好みに合わせて幅に関して数種類用意してくれた他、後に追随してスリックを導入するピレリ、ミシュランと比べグリップ力ではやや譲る反面、限界付近での挙動変化が穏やかなことや、コントロールし易いことなどがSSDに好まれたのも一因と言えよう。


 尤も、当時スリックタイヤについて、多くの関係者は懐疑的だった。今となっては笑い話だけど、その頃は溝がタイヤを支えてくれていると考えられており、こんなツルツルタイヤなんて使える訳ないだろというのが常識で、タイヤが溶けてグリップすることによって支えられているという考えが主流となるのは、SSDが急速にトップチームへと飛躍し始めてからである。


 しかし、ダンロップが逸早く導入したというだけで、同時期、ピレリとミシュランも密かにスリックタイヤについて研究はしており、アメリカにてドラッグレース用にグッドイヤーが開発し、程なくファイヤーストーンも追随したスリックタイヤがレースで齎すであろう潜在的優位性に気付いていたことから、ダンロップでなくともレースに登場するのは時間の問題だった。


 実のところ、ロメックスとビュガティに於いて密かにテストが行われていたのである。だが、品質がなかなか安定せず、導入は共に1960年まで待たねばならなかった。


 


 フレームだけの姿は、何処か貧弱で間が抜けて見えたが、そこへカウルを取り付けると、美しき獣へと変身した。


 そして、マシンの名はグループS仕様がRH-1S、グループX仕様がRH-1Xとなる。Rはレーシングの意味であり、Hは広島の意味であった。余談だが、これを機にクラブマン仕様及び国内選手権向けの市販仕様はHRとなる。


 


 赤地に青と白のラインを配したシンプルな外観に、スポンサーとなってくれた出光のアポロマークがアクセントとなっている。尚、アポロマークは白地なのだが、特別に金地となっている。これは、当時出光興産の社長であった初代出光佐三のアイデアで、日本のメーカーが世界に打って出るのだからこれ程目出度いことはない、マシンは日本を象徴する赤でもあることだし、ならば目出度い色として金色がいいだろうと、特別に採用された。


 アクセントには黒も若干入っているが、これも佐三のアイデアで、日本を象徴する色の一つとして、漆に使われる黒が選ばれた。


 SSDのマシンは、この時からカラーリング、シルエット、フォルムの美しさは際立っていた。といっても、当時の関係者の証言によると、まだまだ野暮ったい部分が多かったようで、シーズンを重ねる毎に洗練され、より戦闘的なシルエットに変身していく。


 まだこの時のマシンは、醜いアヒルの子であったと言うべきか。実際、出走してみると、多くの問題が露呈することになる。


(ここまで来るのに8年。長かったな……)


 あのマン島出場宣言から、既に8年が経過していた。その成果が、今、目前にある。この時、仁八には、あの原爆からの再出発の日々が走馬灯のように駆け巡っていた。


「やっと、ここまで来たな。世間から色々批判もあった中、それでも私の大風呂敷について来てくれた皆のお陰だ」


「何言ってるんですか。社長の英断と、思い切った自由裁量を認めてくれたおかげですよ」


 そう、思う存分やれる環境のお陰で、どんな思い切ったことも出来た。時にそれ故の修羅場も多々あったが、その過程で得られた物も少なくない。だが、仁八は何処までも控えめだ。


「おいおい、それは久恵に礼を言ってくれ」


 確かに、仁八は計画遅延にも技術陣に文句を言うこともなければ表立って命じることも殆どせず、現場はほぼ久恵夫人に任せきりであった。久恵夫人も仁八の意図を理解しており、技術陣の度重なる失敗を寛容に受け止め、辛抱強く見守った。


 萬国製針に足を運ぶなど、時折密かに助け船を出すことはあったが、それでも仁八にしてみれば自分のしたことなんて困っている所へほんの少し手助けした程度にしか思っていない。実際には経営者として宍戸重工を支えながら、裏方で人知れず奔走しており、功労者の一人に違いないのだが決して驕ることのない、そういう人間なのである。


 それは、仁八の産業人としての矜持でもあった。




 それでも漸く完成したマシンを前に、仁八も改めて感慨に浸る。ふと見上げると、漆黒とは対照的な三日月。心奪われそうな、美しい三日月だった。その三日月を見つめながら、仁八は心に誓う。


(ここから我々は、三日月から満月になっていくように上り詰めていくんだ……)

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