第47話 十六夜
一行がマン島観戦から帰国後、技術開発は大詰めを迎えると共に、行き詰まりつつあった。
特にエンジン開発は文字通り困難を極めた。更にこの年の5月、ヤマハが一足早くアメリカのレースに挑み、何と6位入賞。クラスが異なるため直接対峙していた訳ではないとはいえ、同じ二輪メーカーとして他人事ではなく、ある種の焦りに繋がっていたことも事実である。
グループSとXでは2バルブではあったが、既にDOHCが常識化しており、またビュガティやロメックスでは3バルブを採用していた。当然のことながら同じことをしていては、相手の方が一日の長がある以上、いつまで経っても勝利は覚束ない。それどころか影さえ踏めないだろう。
このため、考えたのが4バルブ化であった。航空機エンジンでは比較的有触れた技術ではあったが、それは頻繁な整備を前提としていたからこそ採用できた。実はDOHCどころかSOHCすら当時なかなか普及しなかった理由の一つが、カムシャフトでバルブを直接開閉する構造にあった。高出力が望める反面、当時問題だったのがカムシャフトがタペットを押すことでバルブが開閉するため、タペットが徐々に摩耗してくるので頻繁なクリアランス調整が必須であった。
頻繁な整備を前提とする軍用機ならまだしも、これがネックとなって自動車用エンジンでは当時採用例はレーシングカーを除き市販車では極僅かに過ぎない。
当時日本のメーカーでは経験の浅いメカニズムだっただけに試運転の段階で大きく摩耗してしまい、バルブクリアランス調整もノウハウが必要で、先が思いやられそうだった。
後には極短いプッシュロッドを介し、バルブクリアランスを自動で一定に保つ機構が採用されることで市販車にも普及が始まるのだが、それはかなり先の話である。尚、レース用エンジンでは直押しが主流だ。
その上で4バルブを採用しているため構造は複雑化し、部品点数も増えるため、全ての部品の品質を均質に揃えるのも容易なことではなかった。何しろ日本に品質管理が本格的に上陸してまだ日も浅かった。
戦前、現SSDの前身であった宍戸オートバイ製作所では世界的にも遜色ない性能を誇る二輪を送り出しはした。しかし、それでも部品の歩留まりは悪く、多くがスクラップになってしまったと聞く。このために製品は高い物につき、加えて欧米のメーカーと比べ資本力の差があり過ぎ販売力の差もあって太刀打ちできるものではなかった。この点、やはり当時の日本の基礎工業力の低さも災いしていたと言える。
それがSSD号が短い内に歴史の彼方に消え掛けた要因であった。因みに歩留まりとは同じ数作る過程でどれだけの不良品が出るか、或いは一定数作ってどれだけの製品が不良になるかの割合のことで、無論これが低い程望ましい。
何より最大の問題は、デスモドロミック機構にあった。戦前にもSSDではデスモを採用したオートバイを開発したものの結局市販化に至っていないのだが、部品の歩留まりの低さも理由の一つであった。しかもその頃より更なる高性能が要求されているのである。技術陣の想像を絶する困難振りが伺えよう。
「くそっ、またバネがダメになってやがる」
今日もまた工場の片隅にて技術者の悔しそうな声が響く。時計の針は既に夜8時を回っており、一般の工員はほぼ退社していた後だった。
一体何が問題なのか。
デスモドロミック機構は、バルブの開閉を全てカムシャフトによって行う。通常、カムシャフトはバルブが開く時のみ作用し、閉じるのはコイルスプリングに任せるのだが、デスモドロミックでは閉じるのもカムシャフトによって行う。その際問題となるのが閉じている間バルブを如何に密着させるかであった。これがヘタってしまうとバルブを密着させられず、ヘタをするとバルブが勝手に下がってピストンとぶつかりエンジンを壊す恐れがあり、最悪の場合エンジンブローを引き起こしライダーの命にも関わる。
まさに難物であった。
「だが、これがクリアできなけりゃレースなんざ出来やしねえ」
苛立ちも尤もだろう。
「そういや英梨花お嬢様もロメックスの最大の弱点だと言ってたしな」
英梨花はクラブマン時代からロメックスに乗っていたのはスカウト編に詳しいが、同時に早くから弱点も把握していた。
デスモドロミックを武器にし、そして市販車もそれを大いにアピールしていたのだが、英梨花の証言によると、バルブを密着させるのに使われるトーションスプリングは市販仕様の場合、たった2万㎞でダメになってしまうという。元々高価なバイクであり、それ故購入層も知れることからそれ程問題にならないとはいえ、整備の度にバルブ周りを分解せねばならないし、当然のことながらタイミング調整も必要となるので中には面倒くさがって手放すユーザーも少なくないという。
更に過酷な使用条件となるレースともなると、ほぼ1レースでダメになるとのことだった。耐久性はざっと300㎞前後であり、マン島ではほぼギリギリだろうという。
このため、英梨花は愛車のロメックスでは対策としてダブルスプリングにしていたのだが、逆にバルブを開く際の抵抗が大きくなるため、デスモならではの持ち味である高回転までの吹け上がりが若干スポイルされるのが問題であったが、それでも当時の国産車と比べれば性能には大きな開きがあった。
SSDはまさにそれを超えなければならなかったのである。超えなければならない壁は、想像以上に高かった。
英梨花から提供されたレース用のバルブスプリングを見つめながら、一人の技術者がため息をつく。無理もない。この小さな部品に翻弄され行き詰まっていたのだから。
技術者なら誰もでも分かっている。どんな小さな部品だって疎かにはできないことを。
そんな折、不意に部屋にソースの甘い香りが立ち込めていた。それは、オタフクソース独特の香りでもある。
「皆、隣のお好み焼き店から差し入れよ」
久恵夫人が持ってきたのは、宍戸重工の向かい隣りにあるお好み焼き店『五エ門』の差し入れであった。それは当店の看板、満月焼だった。戦後間もなく、一銭洋食からスタートした広島のお好み焼きは復興と共にバージョンアップしていき、昭和30年頃になると肉玉そば入りが登場して、お好み焼きの原型がほぼ出来上がった。
満月焼は、当時高価だった玉子を二個使い、内一個は目玉焼きにして載せ、周囲にもみ海苔を鏤めているのが特徴である。これは瀬戸内の夜を控えめに照らす満月の様子を再現しているという。当時玉子が高価だった時代であり、なかなかに贅沢なメニューだったと言える。
しかし、この満月焼は何処か違って見えた。
「何だか月が海苔で靄って見えるなあ」
「今日は十六夜でしょ。だからそれを表現してみたんだって」
久恵夫人からそう聞いて、技術陣ははたと気付いた。
「ま、まさか……」
「そのまさかよ。お店の人はね、夜遅くになっても本社の一角でいつまで経っても灯りが消えないのを心配されて私にこれを差し入れてくれって。何か悩んでるんじゃないかって、十六夜風に仕立てたこの満月焼が励みになればと思ったそうよ」
十五夜の翌日の十六夜の特徴は、十五夜より30~40分前後遅く上ってくることである。そう、どんなに大変でも、いつしか解決する時が来る。それを十六夜に喩えていたのだ。心憎い励ましである。しかも五エ門も、SSDのマン島制覇宣言を応援していた。
この日の満月焼は、いつにも増して忘れられない味となったと、当時の技術陣は後に振り返る。
一方、仁八も技術開発が行き詰まっていることを黙って見てはいなかった。
「こういう時こそ、オレが動かないとな。あの会社に頼んでみようか……」
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