躍進編

第46話 昭和45年

 昭和45年(1970年)の年末。


 広島の三瀧荘に、忘年会特有の明るい声が響き渡る。




 三瀧荘は昭和4年(1929年)に料亭旅館として開業。原爆の直撃にも関わらず奇跡的に焼失を免れ、戦後広島の中心部に於いて見られる戦前からの数少ない純和風建築であり(迎賓館は洋風建築なので厳密には和洋折衷)、更に囲碁や将棋のタイトル戦も開催され、あの羽生善治が年度内七冠(現在は八冠だが当時は七冠であった)を達成した歴史的舞台ともなり、昭和天皇、ゴルバチョフ元ソビエト大統領、マリリン・モンローも宿泊したなど、国内外各界の著名人に愛された、迎賓館としても通用する格式高い場所でもある。




 そんな三瀧荘に集っていたのは、二輪メーカーの主要な技術者。実は、二輪メーカーによる懇親会が毎年年末に忘年会も兼ねて行われており、その舞台は毎年変わるのだが、今回は三瀧荘にて10年振りの開催と相成った。


 懇親会に於いて錚々たるメンバーが集まった中、音頭を取ったのは久恵夫人。更にその席には仁八もいた。


「皆さま、今年もこうしてお集まりいただき、深く感謝致します、では、乾杯!!」


 ビールの入ったグラスの音が、大広間に響く。実はこの年、日本の二輪業界にとって芳しいニュースはあまり多くなかった。


 ホンダは2年前にワークス活動から一時撤退、ヤマハ、スズキ、メグロが残って獅子奮迅であったのがせめてもの救いで、今年にはカワサキが陸王の名でグループSとXに参戦したのがちょっとした明るいニュースだろうか。


 戦績は共に2勝をマークしており、ランキングでは4位と3位に食い込んで出だしはまずまず。


 因みに陸王はメグロと並ぶ戦前からの老舗で、主に大型車を手掛けており、その後川崎重工が商標権を始め企業を丸ごと買い取り、経営陣は替わることになったが組織体制や技術者もほぼそのまま迎え入れてくれ、メグロと並び破格の待遇で友好買収したのだ。


 そして、ミドルクラスがメグロ、大型車が陸王のブランド名を頂くことに。尚、後にブランド再編でメグロ、陸王はプレミアムブランドとなり、カワサキの名を冠したバイクとは区別されることになる。


 喩えるならトヨタのプレミアムブランドであるレクサスのような位置づけだろうか。




 しかし、この年はSSDが敗れイタリアのロメックスにタイトル奪還を許してしまい、防衛はV10でストップ。60年代はまさにSSDの時代だったので、ある意味では象徴的な出来事だった。


 皮肉とも言えるのが、SSDに初タイトルを齎した西原翔馬の妹、西原叔子 (としこ)がロメックスに乗り、グループSでタイトルを奪取した。


 因みに叔子は翌年、前年チャンピオンとなったグループXのエースが開幕前にテスト走行で重傷を負い急遽Xに乗ってもらうことになり、残りの二人は時に表彰台に上ることはあったものの勝利が覚束ない戦績だったことや、Xに移ってすぐに優勝したことなどで事実上のエースに昇格し、この年ロメックスの2クラスタイトル防衛にも貢献している。


 尚、ロメックスでは基本的に序列があるため、叔子の移動直後のエース昇格は異例中の異例だった。


 これにより、西原叔子はWMGP女子に於いて史上初の重量級に於けるダブルタイトル達成者となる。


 更に、SSDにとって大きな出来事はそれだけではなかった。


 現在ホンダの専務であり、草創期から本田宗一郎と苦労を共にし、この三年後に二代目社長となる河島喜好が、名残惜しそうに仁八に語り掛ける。


「宍戸さん、今年、社長の座を退かれたのは、ちと惜しいですなあ。まだお若いのに」


「いえいえ、あれが丁度退際だと思いましたよ。あの出来事で、私の時代は終わったとね。それに、丁度節目の年でもありましたから」


 そう、SSDにとって最大の出来事は、仁八が社長の座を退いたことにある。この年の6月、マン島で惜しくもロメックスに敗れた翌日、社長からの引退を発表したのだった。まだ52歳の若さである。


 元より、当人はこの年結果はどうであれ引退を決めていた。というのも、マン島初制覇から丁度10年、そしてマン島制覇宣言から20年が経過しており、更に昭和19年に社長に就任して以降実に26年に渡り社長の座にいたことから、それに伴う老害を気にしていた。なのでこの年が節目として丁度いいだろうと決めていたのである。


 しかし、ロメックスに敗れたことは、文字通り世代交代を象徴する出来事となった。


 


 河島は続ける。


「我々は、貴方にはホント頭が上がらんのですよ。オヤジさん(本田宗一郎の社内での愛称)も言ってましたからね、SSDの方向に足を向けて寝るなよって。あの遠征の時、貴社が渡航費用を出してくれなければ、今のホンダはなかったと思っています。なのに、貴社に何の恩返しも出来ないまま、貴方は引退されてしまった」


 そんな申し訳なさそうな様子を、仁八は豪快に笑い飛ばす。


「ハハハ、何言ってるんですか。今じゃホンダは押しも押されもせぬ日本を代表する企業の一つじゃないですか。それだけで十分恩は返されてますよ。あの時助け舟でお金を出した町工場が、今では日本を代表するどころか世界に名だたる企業にまでなったなんてこれ程愉快な話はない。ただ、出来れば……」


 この時、仁八が一瞬真剣な表情をしたので、河島はつい強張った。まさか、あの時のカネ返せというんじゃないだろうなと。無論、今となってはあの時のカネくらい現在の貨幣換算でも十分払えるが。しかし、仁八の続きは意外なものであった。


「次に復帰する時は、我がSSDと同じ舞台で戦いたいものですね。それこそが、我がSSDに対する最大の恩返しと言えましょう」


 つまり、今度カムバックする時はタイトルを奪取するくらいの気概を見せろと激励したのである。


「勿論。そのつもりですよ。こっちだって諸事情あっての撤退となりましたが、あれで終わらせる訳ないですから」


 河島は、仁八からの思わぬ恩返しの提案に破顔した。SSDとホンダの対決はそれから10年後のことになり、更にカムバックから三年後、初のグループS及びXでタイトルを獲得することで恩返しを果たすことになる。




 後に河島は、宗一郎と仁八が初めて席を持った時のことをこう語っている。


「浜松の喫茶店でのことだったんですがね。ブラジルのレースに遠征する際、渡航費用が足りなくて困っていると、宍戸さんは何処からともなく嗅ぎ付けてきて、川崎にも話つけてあるからカネについては心配するなっていきなり言われたんですよ。こういう時は同志としてお互い様じゃないかってね。で、当人はすぐに帰ってしまったんですが、オヤジさんポカンとしてましたよ。それに、宍戸重工と言えば戦前から名の知れた企業でしたから、会う前は所詮大学出のお坊ちゃんだろと言ってたんですけど、実際に会ってみたら、あの男、オレと同じ手をしてたぞ、それにあのオーラ、きっとオレたちすら上回る修羅場を見てきたに違いない、ありゃタダモノじゃないぞと言ってましたね。あの時のオヤジさんの様子は今も鮮明に思い出します。その上、お金に関してはホントに鷹揚な人でしたし、助けを請えばすぐに助けに来てくれるような、情に篤い方でした。鈴鹿サーキット建設にも舗装サンプルとか施工表とか貴重なデータもくださり、時にライバルでありながら時に同志になることだってあるのは当たり前だとも言ってましたし。今は時代が違いますから一概には言えないかもしれないですけど、ああいうタイプの経営者がいなくなってしまったのは、ホント寂しい限りですね」




 宴もたけなわ、三日月に照らされた日本庭園を眺めながら、仁八と久恵夫人はしばし語らう。


「しかしまあ、毎回懇親会で思うことだが、皆考えてることは同じだよな」


「ええ。どうせやるなら世界制覇であり、皆マン島制覇を目指していたのって、今思えば頼もしい限りですわ」


 そして、三日月を見ながら二人はSSDのタイトル奪還を継ぎの世代に託す。


「満ちればいずれ欠けてくるのは世の倣い。しかし、欠けるところまで欠ければ次は再び満ちるのを目指すまでだ」


「そうですもの、これでまたSSDは、挑戦者に戻って新たな時代を築いていくと私も確信してますわ」


 その三日月に、そういえば廃墟となった産業奨励館で一人復興を誓ったのも、あの三日月の夜であったことを仁八は思い出していた。


 あの日から既に25年が経過しており、今思えばここまであっという間だったなというのが当人にとっては正直なところであった。


 同時に、三日月に限らず、月はしばしばSSDの歴史とも深く関係しており、節目節目で月は重要なキーワードとなる。


 


 仁八は、同時に一行がマン島を観戦後の技術開発が行き詰まっていた時もまた、こんな三日月の夜だったなと感慨に耽っていた……


 


 

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