第38話 前座 その2

ユニオンジャックが振り下ろされると共に、最初のレースとなるサイドカー17台は、レーシングサウンドを轟かせながらスタートしてすぐブレイヒル手前の右の直角コーナーへ入っていく。クリプス・コースもマウンテン・コースもスタート/ゴール地点は同じだが、マウンテン・コースではそのままブレイヒルを直進してV字コーナーであるクォーター・ブリッジ目掛け下っていく最初の度胸試しが待ち構える。クリプス・コースではライダーが誤って進入しないよう右コーナーより先は封鎖していた。


 ここで、改めてクリプス・コースを紹介すると、スタート間もなくブレイヒルに入る手前の直角コーナーを右に曲がり、マウンテン・コースでは最終セクションにあたるクレッグ・ニーバー通過後の緩いカーブと直線で構成されたA18の超高速セクションを逆走するのと、クレッグ・ニーバーは直進して頂点のヘアピンまで比較的高速のセクションが続き、ヘアピン通過後は様々なカーブで構成されたセクションを緩く下りながらガバナーズ・ブリッジ手前で再びA18に合流し、共通コースであるガバナーズ・ブリッジを通ってゴールとなる。

 本来下るA18セクションを遡るため、当然感覚は大きく異なる。長い上り坂にカーブが連続するようなコースとなるので、マウンテン・コースでは超高速で下ることを除けば比較的攻略しやすいセクションなのだが、クリプス・コースでは一転して難所となる。

 

 サイドカーではドライバーとパッセンジャーのコンビネーションが求められるが、前半の上りセクションは上述の性質上、いきなりそれが求められる。ここでのタイムロスは致命傷となるため当然気は抜けない。

 

 レース用サイドカーは通常のサイドカーとは構造が大きく異なっており、その構造上空気抵抗低減と安定性追求のため極限まで低めることが求められることからフレームはオリジナルが多く、後にはそれを市販するメーカーも現れる。

 そして、伏せるように、というより跪くように乗り込むことから別名ニーラーとも呼ばれ、操作配置は二輪に近いが、走行特性上構造は四輪に近く、バンクもしないことから自動車用のタイヤを用いるのだが、この頃はまだ今と比べると細い。クラブマンでは予算の都合などから二輪用タイヤを流用しているケースも珍しくなかった。

 どっちつかずの構造故の複雑性から見た目以上に高度なテクニックと二人で一台を操縦するチームワークが求められるため、それがサイドカーレースを独自の地位にしていると言っても過言ではなく、根強い人気に繋がっていた。

 特にパッセンジャーのアクロバティックな動きやポジションの数々が、レースを更に迫力あるものにしている。

「それにしてもよくこんなことできるわね」

「ああまったくだ」

 そう言ってアクロバティックな走りに目を見開いているのはA18セクションで観戦していた翔馬と雪代。因みにSSDはサイドカーレースの出場も検討したことがあるのだが、日本では開催自体が当時は非常に少なく、ノウハウに乏しいことから結局単車のみに絞ったという経緯があった。


 やがて、レースを5周したところで先頭を走るマシンがチェッカーを受けた。優勝したのはBMWで、当時サイドカーはドイツ勢の強さが目立ち、そこにイギリス勢が食い込むという展開が多かった。

 そして、驚くことにメグロエンジン搭載車は7位に入賞した。これは、図らずも日本のメーカーがマン島に於いて初出場で完走を達成した記念すべき瞬間だった。

 尚、クリプスコースはクラブマンでもクラスにより5~8周前後するのだが、サイドカーはミドルクラスにも関わらずその特性上体力の消耗が激しく、レースは通常の半分程度の周回で行われる。何しろパッセンジャーもだが、ドライバーはバンクさせることができないため伏せった状態でハンドルを切らねばならず、しかもこれが意外と重い。更にコーナリングスピードは二輪どころか時に四輪さえも上回ることからもそのハードさが想像できよう。

 それでも観る側も走る側も、サイドカーに魅了されるケースは少なくない。

 尚、最初のレースであるサイドカーで完走したのは17台中7台。そう、メグロはビリだったのだ。それでも完走しただけで観客から惜しみない賛辞がメグロの二人にも贈られていた。何しろ完走するだけでも大変なのはクラブマンとて同じなのである。

 ここマン島ではそもそも挑戦しただけでも英雄なのだから。

 

 表彰台でウィルキンソンシャワーが繰り広げられているのを、感動の様子で見ていたのは紗代、英梨花、エイミー、マライソムの四人であった。

「クラブマンでさえこんなに感動できるなら、GPレースはどれ程感動できるのかしら」

 因みに、この世界では二輪というのはタダでさえ不良文化、若者文化と結びつきが強く、それ故社会的イメージが決して良いものではないことを誰もが自覚していたことなどから、これ以上のイメージ低下を防ぐ意味でシャンパンなどのアルコールではなくウィルキンソンの炭酸水を用いていた。

 後に日本勢が向かうところ敵なしとなっていくと、三ツ矢サイダーやキリンレモンが世界各地の表彰台で供されるようになった。


 一日目はこの後50㏄、125㏄、250㏄のレースが行われ、盛況のうちに二日目を迎える。二日目は午前が350㏄、午後が500㏄である。周回数は7周で争われる。

 

 天幕を張った即席のパドックでは500㏄クラスにエントリーするメグロのマシンが最終点検に追われていた。その様子を腕を組んで見ているのは紗智子。平静を装って入るが、集中している中にも表情には緊張している様子が感じ取れた。

 そのことを察してか、激励に来たSSDのメンバーも、敢えてそっと見守ることにした。何しろレーサー同士、こういう時の心境は心得ていた。

 やがて、競技委員がセッティングを終えたマシンを預かりに来た。不正防止等の一環として、出場まで厳重な警備の中で封印するのである。

 何しろアマチュア枠とはいえ、国際格式の上に未来のプロレーサー予備軍という位置付でもあるため、こういった運用規則の適用は厳格であった。


 警備員に囲まれながら競技委員によって運ばれていくマシンを見ているだけで、否応なしに緊張が高まる。こんな光景は、国内では見たことがなかった。

 それだけでも、これは国際レースなんだということを思い知らされるのだった……

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