第37話 前座 その1

「あれが……GPレーサーか」


 夜、上陸するGPチームの面々をファンに混じって密かに見物していた一行。この時はまだ、彼女たちにとってGPレーサーは雲の上のような存在であった。著名なトップレーサーは無論、下位チームのレーサーであってもそれは変わらない。何しろ世界最高峰のレースに挑む面々であり、その国を代表するレーサーばかりなのである。


 実際、あまり注目されない下位のレーサーでも、その実績は目を瞠るものがあり、いずれにせよトップレーサーの一翼を担うことに変わりはないのだ。


 レースファンの心理からすればトップレーサーに注目が集まるのは仕方ないとはいえ、それ故あれくらいのことは出来て当たり前ではないのかとチャンピオンデータばかりに注目しがちなのも確かである。


 しかし、チャンピオンになり得る器でありながらも、ある種の谷を大半は越えられず消えて行くのがこの世界に生きる者の運命でもあった。それは、数百分の一、或いは時として数千分の一の超高倍率を潜り抜けプロデビューを果たしながらもその大半が二年以内に消えて行くと言われる程に消耗の激しい日本の漫画界や小説界とも似通っている。所謂評価の谷を越えられずに多くの作家が読者から注目されることなく消えて行くのだ。


 


 GPレーサー特有のオーラに誰もがため息をつく。何しろ来年には自分たちはそのGPレーサーを相手に戦っていかねばならないのだから。


「ああ……今思い出してもあのコゼットっての、手強い相手なんだよなあ」


 コゼットを見つめながら独白しているのはマライソム。そう、当人は東南アジアのレースにも何度かエントリーしており、当時は現役のGPレーサーが本業の合間を縫ってこうしたレースに出場することは珍しくなかった。それ故東南アジアのレースもなかなかにハイレベルだったのである。


「へえ~。ラソム(マライソムのニックネーム)ってGPレーサーとも走ってるんだ」


 独白へ興味深そうな英梨花。


「うん、コゼットとは二度しか戦ってないけど、とにかく速かったなあ。クラブマンはマシンの差も比較的小さいし、それにコースも本格的というほどじゃないから反ってチャンスが多いとも言えるんだけど、あのコゼットはそれでも別格で、ボクなんか赤子の手をひねるような感覚であしらわれたもん」


 そう、GPレースと比べ比較的格差が縮まる傾向にあるクラブマンレースに於いてさえ、コゼットは強かった。つまり、マシンの性能のみならず、当人の実力もハンパないことがマライソムの証言からも窺えた。


 その証言からも、GPレーサーの想像を絶するレベルの高さが知れよう。


「あたしたち、そんなのを相手にしなきゃいけないのか」


「へっ、上等じゃねえか。来年が楽しみってもんだぜ」


 紗代の一言に反応し、粋がってみせる雪代だが、ブルっているのを隠すことはできなかった。そんな遣り取りをよそに、上陸する一行を冷静に見つめている者がいる。それは翔馬だった。


「いよいよ来年なのね」


(お母さんがマン島を制してから23年。私は来年、今度はあの銀幕の向こう側の人間になるんだわ」


 ふと、黄色い声に包まれながら手を振る白い稲妻、或いは紅い髪とイタリア出身であることから情熱の貴公子(敢えて貴公子とファンは呼ぶ)と言われることもあるビアンカ・ロッシと視線が合ったような気がした。


(彼女こそ、私の超えるべき目標……)




 一日置いて、いよいよマッドジューンに向け熱気も本格化することになる。ここからはイベントの連続であった。


 まず。マン島クラシックが行われ、同じく歴史を彩った名車に往年の名レーサーが跨りファンを沸かせる。因みに開催スケジュールの都合上、イベントは全てクリプス・コースで行われることになっていた。


 嘗てのクラシックマシンが走り抜ける度、懐かしい思い出が甦り、感動の余り涙する老人も珍しくない。




 そしていよいよ、前座として市販車によるクラブマンレースが開催される。参加条件は非常に緩いもので、年間300台以上生産され、公道走行可能なことを示す形式認定を受けていれば問題なかった。また、市販車という建前上、保安部品の装着が義務付けられている。


 クラブマンレースと言っても、出場するレーサーの表情は真剣だ。それもそうで、GP関係者が大勢見ており、同時に才能発掘の場でもある。それ故、レース展開はGPレースとも遜色ないほど激しい。また、観客にとってはGPレーサーと比べ身近な存在であるせいか、本番以上に盛り上がるという意見もある。


 クラブマンもGPと同じく排気量別に7クラス+サイドカー、男女別で構成されていたが、全てクリプス・コースを使用する。


 コース上には最初にレースとなるサイドカークラスが既に互い違いで行儀よく並び、メカニックが最後の調整に追われ、またライダーはマネージャーと思しき人物と打ち合わせをしているようだ。


 因みにこちらではタイムトライアル形式ではなく通常のレースと同じくマス・スタート方式であることに留意されたい。


 クラブマンはチームの台所事情がGPレース以上に反映されているせいか、未だカウルを装着していないマシンも珍しくない。また、そのカウルも申し訳程度のマシンも目立つ。


 サイドカーは二人一組であり、特にサイドに乗る助手の動きは重要だった。サイドカー独特の挙動と、特有のスリルに魅了される観客も少なくない。サイドカーはイギリス勢とドイツ勢が鎬を削り合っており、その様を英独の代理戦争に準える者もいる。だが、イギリス製マシンにドイツ人が、またその逆もあるのがレースの世界ならではなのだが。勝てるマシンを求め、チャンスがあるならそれを活かすべく躊躇なく有力チームやマシンを選ぶのが西洋流の考えなのだから当然だろう。愛国心だけでやっていける程レースの世界は甘くない。


 また、それ故パドックやストーブリーグは日本人が考える以上にドロドロしがちで、将来性有りと見做したレーサーを引き抜くべくまだ契約期間が残っているのを承知でトップチームが相手チームに違約金を支払うことも当たり前であった。




 エントリーリストを見ると、英独に混じり、何とメグロのエンジンを搭載して参戦している者がいた。当時、1ドル360円の超円安によるドルペッグ時代だったのもあり、高性能の割に格安で手に入るのをメリットに感じて日本製エンジンをオリジナルのフレームに搭載、参戦している奇特な御仁がいたのだ。

 サイドカーの場合、その構造の特性上レギュレーションが別に規定されており、年間300台以上生産されているエンジンユニットであるなら出場資格を満たすことができ、ある意味他のクラス以上に条件が緩かった。だからこそ上述のようなマシンがメグロのみならず多数出場していた。


 尚、現在の1ドル140~50円台でもかなりの円安なのだが、当時の360円は今に換算するとざっと3600円であり、安価なのに高品質という日本製品のイメージは、この超円安時代も大いに関係しているだろう。元々が日本経済を弱めるために戦後処理の中で決定したと言われているが、結果的には海外にとって日本市場進出に於ける天然の参入障壁となり、その間様々な幸運な条件が重なった中で高度成長期も手伝い、異常な程の輸出競争力を持ち、やがて世界を席巻するメイド・イン・ジャパンを齎すという皮肉な結果となった。


 そして、明治以来の殖産興業は、ムダではなかった。寧ろこの時代になってそれまでの投資と努力が漸く報われたというべきだろう。




「こうやって見ると、随分と低いシルエットね」


 スタートラインからやや離れた場所で観戦し、今かとその様子を見つめているのは佳奈。尚、自分たちが来年戦う舞台はこれより遥かに長く、事実上島を一周する60.7キロのマウンテン・コースなのだが、そのマウンテン・コースを凝縮したようなコースと言われるクリプス・コースでのレースを観ておくのも悪くないということでメンバーは各所に散っていた。


 尚、佳奈は宿として借りているパブを兼ねたホテルに近い場所というのもあって、朝からビール飲みながら観戦している人も多いため、周囲は酒臭くてたまらない。


 尤も、ここだけの話、佳奈は青森出身、それも漁師町育ちというのもあってか、法律違反も何のその、小学生の頃からしばしばお酒に手を付けており、酒好きな漁師に囲まれていたせいか、あまり抵抗はなかった。


 佳奈が興味深そうに見ている要因である低いシルエットなのは無論空気抵抗を少しでも減らすためであり、転倒を気にする必要のないサイドカーならではなのだが、それ故体感速度はかなりのものであり、慣れないと恐怖感が付きまとう。だが、それと引き換えのスリルに魅せられ、サイドカーレースにハマる者は少なくない。


 走る側見る側それぞれに魅了される独特の要素から、サイドカーは一定のファンと独自の地位を保ち続けている。


 余談ながら、国家元首や政府首脳などのパレードで護衛にサイドカーが用いられるのは、二輪より安定しており、且つ四輪よりも機動力が高いことが護衛向きのためである。


 それはさておき、レース5分前になり、関係者は傍らの仮設ピットに退去。競技委員長が近くの大時計を見つめながら持っているスタート用の国旗を振り下ろすタイミングを計っている。


 同時に、周囲には針一本落ちても音が伝わってきそうな程の緊張感が漲り、レーサーは集中力を高めると同時にレーサーモードへと頭のスイッチを切り替える。


 その様子を観客の一人として見ている佳奈も手に汗握ってしまう。国内レースでも何度もそれを経験しているだけに、今レーサーはどんな気持ちなのか手に取るように分かる。レーサーのためにも、かなりの距離があり聞こえる筈もないとはいえ、その集中力を乱さないためにも、ちょっとした声すら上げてはならないという気持ちになるのだった。


 そう、日本だろうが外国だろうが、レースが始まる前の気持ちは皆同じなのだ。


 レース開始1分前、間もなくレースが始まるというのに、まるで永遠とも錯覚しかねない程、時間の感覚がゆっくりと感じられる。佳奈は、コース上にいるレーサーと感覚がシンクロしているかのような錯覚に陥る。


 


 やがて、大時計の針が午前9時を指した、その時。


 


 競技委員長が国旗を振りながらコース上を横切り、エントリーしている17台のマシンが一斉にスタートした!!


 マッド・ジューンの始まりである……

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