第34話 マッド・ジューン その3

マン島TTが近づくにつれ、更に多くの観光客が上陸してきた。その中にはライダーのみならず所謂紳士淑女の姿も見える。元々モータースポーツ自体初期こそ性能競争として始まったものの、やがて体系化されていく過程で貴族のスポーツへと変遷していった経緯を考えると、紳士淑女がレース場に集うのは不思議なことではない。


 彼らにとっては競馬を見に行くような感覚である。


「それにしても、聞きしに勝る光景ね」


「そりゃそうよ、何せ世界最大の二輪の祭典ですもの」


 ホテルから溢れかえらんばかりの観光客に圧倒されているのは翔馬と久恵夫人。マン島と言えば大正時代にはバイク愛好家は無論、大衆の間でもそれなりに名前は知れ渡っており、翔馬も洋書などでこうした光景を見たことがあるので知ってはいたものの、やはり写真やニュース映画で見るのと実際に見るのとでは訳が違う。


「ヨーロッパのモータースポーツって、GPにもなるとレーサーは国賓並みの扱いだもんね」


 そう言ってやはり外の光景に圧倒されているのは英梨花。日本ではまだ体系化されておらず、それも始まったばかりなのと比べ、ヨーロッパでは既に文化であり、このため最高峰クラスのレースともなると、それに出場するレーサーはまさに国を代表する英雄に他ならない。


 それ故、戦前は代理戦争の様相を呈したこともあるし、ヒトラーやムッソリーニはプロパガンダの一環としても政治利用して自動車産業の育成促進を図った。余談だが、ドイツイタリアというと戦前から自動車王国のイメージがあるが、意外にも戦前はそうではなく、当時自動車王国と言えばアメリカを別格にすればイギリスやフランスの方が遥かに自動車が普及していたし、またそれ故モータースポーツも盛んだった。


 その構図が大きく変わるのが1930年代半ば頃からで、ドイツではヒトラーが総統に就任して以降産業育成に力を入れたのもあってドイツ勢はあっという間に強くなっていくのだが、それでもドイツの自動車産業にそれだけの技術力がないとああはならなかったろう。


 そして戦後、ドイツとイタリア、日本は共に10年近くに渡り航空機の製造はおろか研究も禁止され、大学に於いて航空関係の学部も廃止に追い込まれた結果、あぶれた航空関連技術者が軒並自動車産業に身を投じた結果、復活成ったGPでは無類の強さを見せた。尤も、1955年(昭和30年)のルマンの悲劇を切っ掛けにドイツ勢は撤退したことから長期に渡る沈黙を余儀なくされるが、皮肉にも航空禁止によってドイツの自動車産業は大いに飛躍していくことになる。


 また、イタリアは戦後間もなくからモータースポーツで無敵とも言える強さを見せ、それは二輪でも同様であった。


 現在、モータースポーツの主導権、特に二輪では戦前から強かったイギリス勢と新興のイタリア勢、更に戦前の名残としてフランス勢の一部が辛うじてトップに食い込んでいるというのが実態であった。つまり、イギリス、フランスのメーカーがイタリアのメーカーに押され気味だったのである。従って、マン島TTはイギリスにとって自らの優位性を誇示出来る最後の戦場に他ならない。


 今のところミドルからライトクラスはイギリス勢がまだまだ優位であり、上陸した大半の観光客はこうしたクラスでの自国の活躍を期待していた。


 しかし、まさかそれから5年もしない内に全クラスで日本勢が欧州勢と互角以上の存在に台頭してくるなど、大半の人にとっては予想外だったろう。


 だが、紗智子とメグロのように、或いは当時欧州と並んで比較的レベルの高かった東南アジアのレースに於いてSSDを持ち込んだ者もいたことから、日本製マシンに将来性を感じ取った先駆者もいたことを考えると、その前兆は既にあったと言える。


 その上、今年はクラブマンとはいえ日本のマシンも参戦することになっており、一行はまだ知る由もなかったが、既に一部のライダーがホンダやメグロに乗りたいと水面下で打診していた。多分東南アジアのレースで好成績を上げていることを知っている者に違いない。


 また、当時は1ドル360円の超円安時代だったのもあり、高性能マシンが格安で手に入るために掘出物扱いで日本製マシンを選んでいた者も少なくなかった。


 実際、自国製マシンが買えなくて止む無く日本製マシンを買い、それによってチャンスを得て飛躍していき、後に世界的なレーサーとなった者も珍しくない。


 元々この超円安は日本の経済力を弱めるのが目的だったのだが、海外メーカーにとっては日本市場を狙おうにも天然の関税&参入障壁となったばかりか、日本製品が世界的な水準に達してくると輸出はウハウハで笑いが止まらず、結果として日本経済の台頭を促し、皮肉にも自らの首を絞めただけであった。


 1944年(昭和19年)7月に締結されたブレトン・ウッズ体制が、僅か27年後の1971年8月15日に事実上の終焉を迎えたのは、日本の経済的台頭も無関係だったとは思えない。


 尚、この終焉を別名ニクソン・ショックともいうが、厳密には当年の7月15日に発表した訪中、8月15日に発表したドルと金の兌換の一時停止を合わせた総称であり、当時のアメリカ大統領であったニクソンに由来している。そして、日本を含む世界は翌年から固定相場制を廃止、変動相場制に移行することに。


 後に世界を一時混乱に陥れる経済的混乱であるが、二輪業界に於いて既にその兆候は表れていたと言えよう。




「さあ、お前たち、あたしと一緒に地獄に逝く覚悟はできてるかあ!!」


 ホテルの前で集まったライダーを前に音頭を取っているのは、マッド・グランマことスーザンであった。普段はイギリスの田舎で見掛ける典型的な素朴な御婆さんなのだが、現役当時に着ていたライダースーツに袖を通すと一変するのだ。


 スーザンの鬨のような掛け声に、集まった皆さんも応えるかのように声を上げ、辺り一帯が地響きに襲われたかのような錯覚に陥る。


「どひーっ、なんなんだよコレ。ていうかあの御婆さん、タダ者じゃねえな」


 雪代に対してモトエさんは一言。


「だって、御義母様は戦前マン島を制したレーサーですもの。今も伝説的存在として崇める人は大勢いますわ。この時期になると、マッド・グランマと一緒に走ることを皆楽しみにしてますから」


 やがて、スーザンが先導するようにコースとなる道路に出ると、大勢のライダーが一斉に走り出す。その数ざっと100台以上。


 非公式ながらこのパレードはマン島前夜祭名物ともなっており、このパレードが始まるといよいよだなと誰もがレースが近いことを感じ取るのである。


 100台以上に上るバイクが堂々と轟音を島中に響かせる光景は、ここでしか見られず圧巻であった。まさに前夜祭のクライマックスと言えよう。




 前夜祭の大騒ぎをよそに、漆黒のダグラスの港に、警戒厳重な中で観光客とは異なる一団がフェリーから続々と上陸していた。


 そう、それは、マン島TTに出走するコンチネンタルサーカスの一団である。


 当然のことながら、その上陸を心待ちにしているファンも大勢おり、見知った顔がダグラスの港を照らす灯りに映し出されるたび、周囲から黄色い声が上がる。戦後の経緯から女子選手権が盛んになった影響もあって、女性ファンが特に多かったのだ。


『キャー、ビアンカ様ステキよ~❤』


『コゼット姫、こっち向いて~❤』


 そう呼ばれたのは、前者がグループXにて現在トップを走るロメックス・ワークスのビアンカ・ロッシ。後者は去年グループSで鮮烈なデビューを果たし、名門ビュガティ・ワークスと契約してトップライダーへと急成長しつつあったコゼット・ジェヌーである。


 


 共に、イタリア、フランスが誇る英雄であった…

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