第30話 マン島紀行 後編

 今回宿泊することになっているホテルで(ていうか日本で言う民宿に近い)、まさか日本人に出会うとは誰も予想していなかった。


 応対に現れたその女性の名は、モトエ・マッケンジーといった。戦後間もなく、21歳の時に進駐していたイギリス人将校と出会い、帰国する際にも同行し、結婚して夫の地元であるマン島で家業のホテルを継ぎ、営んでいるという。


 因みにホテルのある位置はブレイヒルのすぐ近くで、スタートして間もなく激下りから激上りへと急上昇しながらコーナーへ突入していく場所にあるため迫力ある光景を見られることから、この頃はマッド・ジューンと呼ばれるマン島TT開催月には宿泊客で一杯になるという人気のホテルでもあった。


 また、夫人が日本的なアレンジを加えた料理も評判だった。


 夫が理解ある人だったので、ホテル内部にはよく見ると日本から持ち込んだ様々な民芸品や置物が融け込むように並んでおり、彼女のセンスの一端を窺わせた。


 尚、これ以降SSDはマン島に遠征した際にはここを定宿にすることになる。それは常勝名門チームになっても変わっていない。


 イギリス、ていうかマン島に嫁いでも変わらない日本人らしい丁重な振舞に、こちらが反って恐縮しそうだった。一団を代表して久恵夫人が会釈し、紗代たちが後に続いて会釈。


 


 1830年代のイギリスの田舎の家を思わせる内装が放つアットホームな雰囲気に、一行はすっかりリラックスしていた。ロンドンのホテルでは侮蔑の視線があちこちから突き刺さり、リヴァプールでもそれは同様だったので、やっと安息の地を得たような気分になる。


 程なく、御婆さんがこのホテルの自慢の一つでもある堅く焼いたスコーンとジャムにクロテットクリーム、紅茶のセットを持ってきてくれた。モトエ夫人にとっては姑にあたるが、夫同様非常に優しい人であった。


 その御婆さん、翔馬の顔を見るなり、びっくりしたような顔になる。


「まあ、貴女はもしかして、あの伝説の日本人レーサーの娘さんかしら?」


 そう言われて一瞬戸惑う翔馬だが、多分自分の母親のことだなとすぐに理解して、


「ええ、そうですわ」


 と快活に応える。


「あの時の女の子に、こんな立派な娘さんが」


 そう言って翔馬を抱きしめる御婆さん。一体何があったのかとメンバーは不思議でならない。だが、翔馬の母親は御存知、戦前マン島女子を制した初の日本人レーサー。その娘である翔馬はサラブレッドなのも当然一行の間では既知の事実なので、この御婆さんと何かしらの縁があることは理解していた。


 そして、その御婆さんは衝撃の事実を告げた。


「実はね、貴女のお母さんも、このホテルに宿泊したのよ」


 そう聞いて、翔馬を含め誰もが素っ頓狂な声を上げる。何と、翔馬にとっては母娘二代の縁だったのだ。


 翔馬の母親である静馬がマン島に挑んだ際、二度ともここを拠点として利用しており、その頃御婆さんもまだ若く、更に驚くことには、御婆さんもまた嘗てマン島女子に何度かエントリーした経験があり、彼女に詳しいコース取りとかも教えたのだという。加えて、実は60過ぎて尚、バイクでブイブイイワせている現役の女子ライダーとしての顔も持っていた。そんな御婆さんの名は、スーザン・マッケンジー。旧姓はスーザン・ターナー。実は、1921年、再開間もないマン島女子350㏄クラスで見事優勝した経験の持主でもある。当時25歳で、その時乗っていたのはイギリスのベロセットであり、シリンダーヘッドをDOHCに改造した仕様だという。当時、ベロセットは戦闘力の高さで人気のメーカーの一つでもあった。


 そして、多田健蔵もそうだったし、翔馬の母親でもある静馬も同じくベロセットに乗って勝利したのだ。


 まさかの縁に、スーザンも運命を感じざるをえなかったろう。




 その日の夜は、昔話を交えたバイク談義に華を咲かせた。同じ価値観と趣味を共有する者同士の話は、尽きることを知らない。




 次の日の朝、来年出場することを決めているマン島のコースの下見ということで、まだ朝靄も晴れない中、好意でホテルのガレージからバイクを貸してもらって走ることになったのだけど、何とスーザンが先導してくれることになった。


 その様子に、誰もが不安を覚えるのだが、嘗てマン島で優勝した経験があり、そしてマッド・ジューンンの名物御婆さんとして、更にイギリスのエンスーからもマッド・ジューンならぬマッド・グランマとして特別な敬意を払われている有名人でもあることなど、一行は当然知る由もない。


「さあ、ついてきな!!マウンテン・コースは長いから、気合入れろ!!」 


 ハーフヘルメットにゴーグルという、当時既にフルフェイスも普及しつつあった中で古典的になりつつあったスタイルに身を包んだスーザンが、愛車の甲高い音を響かせながらコースへ飛び出して行った。


 御婆さんらしからぬ猛スピードに唖然としつつ、一行も慌てて追随していく。


 その様子を手を振って見送るモトエ夫人であった。そしてひっそり独白する。


「皆、御婆さんと思ってると、大変な目に遭うかもよ……」


 


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