第21話 浅間後前編

「!?」


 好スタートを決め、1コーナーへトップで進入した英梨花。しかし、突如感じた気配に左を見ると、何やら影のようなものが過った。それは無論、自分を追い抜きに来たマシンに決まってるのだが。


「だ、誰よ!?」


 一瞬のことなので冷静な英梨花も狼狽してしまった。SSDワークスの間を巧妙にすり抜けるようにしてトップに立ったマシンの正体……


 


 それは、前年にプライベーター向けに市販を開始したSSDの750㏄モデルを改造した仕様であった。元がクラブマンレースを意識して開発され、ワークスの遺伝子を受け継いだマシンであり、安価な割に高性能なため評判は口コミで広がり、進駐軍の間でも一定のユーザーを獲得しており、マイナーレースでは外車に混じって優勝することも珍しくなく、とあるイギリス人ライダーに見出され、シンガポール及びマレーシアなど東南アジアのレースに持ち込んでしばしば勝利をもぎ取っていた。


 それから僅か数年後、日本のメーカーが世界中の二輪レースで向かうところ敵なしへと急成長していくことになるのだが、マイナーレースとはいえ、SSDが世界に伍して勝利の足跡を刻み始めたのは、その前兆と言えなくもない。僅か2年前のサンパウロの結果を考えると、恐るべき進化であった。無論、その時に得られたデータも反映されているのは言うまでもない。




 その裏話として、このクラブマンレース仕様が開発されたのは、そもそもがSSDの収益改善が背景にあった。というのも、後にSSDと言えば誰もがレーシング遺伝子を受け継いだスーパースポーツモデルやレーシングマシンを思い浮かべるだろう。現にスーパースポーツはSSDがレースで培った持てる技術を注ぎ込んだフラッグシップモデルも務めている。


 だが、こうしたモデルはメーカーのブランドイメージ向上には貢献しても収益は知れており、それどころか赤字のケースもある。従って、実際の主力は125から250㏄、更に50㏄などの実用モデルこそが最大の収益源であり、一連のモデルがSSDのブランドイメージやストーリーを共有していることが重要な意味を持つのだ。


 


 話を戻して、そうしたワークスで得られた技術やノウハウを移植した市販モデルであるクラブマン仕様を開発販売し、裾野を拡げることは長期的視野に基く販売戦略の観点からも、そしてワークスが活動を継続していくため宣伝による知名度拡大は必須であり、その意味からも必然であった。


 同時に多くのレーサーが乗ってクラブマンレースなど数々のレースに出場することによって多くのデータが得られるため、それは当然ワークスにとっても次期開発の上で多大なメリットがあり、クラブマンレースなどのマイナーレースを中心としていたレーサーにとっても、こうしたワークス遺伝子を受け継いだ高性能マシンに安価に乗れるメリットは多大であることは言うまでもない。


 


 尚、このクラブマン仕様はそれでも80万円と、マイナーレースに出場する前提にしては当時としては非常に高価なプライスタグが付けられていたが、性能を考えると一部の部品はワークスと共通だったという噂もあったことなど、噂が事実ならレース用モデルとしては比較的安価且つ良心的だったと言えなくもない。何しろワークスマシンの価格は非公開だが、この時既に350万円を軽く超えていたと推測されている。


 当時トヨペットクラウンの値段が101万円だった時代であり、大卒初任給のおよそ4年分に匹敵していたにも関わらず国内外のレーサーに支持され、更に1ドル360円だった時代なので海外レーサーにとっては高性能モデルが手頃な値段で手に入ったのも手伝い (当時2500ドルから3000ドルだったという。同時代、1953年型キャデラック・エルドラドが8000ドル近かったことを考えると、外国人にとってはレース用モデルがこの値段で手に入るのは、高性能も手伝いバーゲンプライスに等しい)、最終的に3年間で当時の日本の大型二輪の市場規模を考えると、驚異的と言える3000台余が生産され、内8割が輸出されて日本に貴重な外貨を齎すなど予想外の収益を得ている他、SSDの知名度上昇にも貢献した。


 その潜在能力は非常に高く、世界のマイナーレースで期待を上回る活躍を見せた他、そのことに気を良くし、3年後にSSDが送り込んだ後継モデルは95万円のプライスタグにも関わらず、これでGPレースに挑むプライベーターも現れ、驚くことに表彰台こそなかったものの、しばしば上位に食い込む活躍を見せることに。


 また、間もなく発足する全日本選手権や世界各地の国内選手権にクラブマンレース、草レースなどのマイナーレースでは無敵を誇り、マイナーレースのワークスマシンと絶賛されるに至っている。こちらも3年間で最終的に3000台余が送り出された。


 


 その意味では、このクラブマン仕様はSSD黎明期の傑作モデルの一つと言えよう。当然のように後にミュージアムに於いて、SSDの歴史に於ける重要なモデの一つにも位置づけられている。

 余談だが、共に3000台も生産されている割には多くが輸出されたことや各種レースに出場して消耗しており、21世紀現在、現存する個体は1%以下と推測され、特に前車は現在1憶円出しても買えないという。

 


 ワークスと同じくカウルを装着し(因みに浅間では横風に弱いことからGPに先んじて前輪までカバーするタイプのカウルは禁止となっていた)、ややカラーリングは異なるもののSSDと同じく赤・白・青で塗り分けたシルエットは、まるでワークスのサテライトチームと勘違いする程だ。


 実はある国旗をモチーフにしているという。


 違うのはワークスが既にフルフェイスヘルメット、更にマシンとコーディネートしたツナギであるのに対し、当時典型的な白のジェットヘルメットにゴーグルと黒のスカーフで顔を覆い、黒のツナギであることだった。尚、よく見るとヘルメットに描かれているチェッカーフラッグは白黒ではなく白を挟んで赤と青の配列となっている。


 また、僅かな隙間から見える首の色は小麦色であった。因みに小麦色というと小麦は白なのに何で褐色をそう呼ぶのかと不思議がる人もいるが、実は収穫前の小麦の色で、産地や種などによっては褐色の肌と色合いが似ており、小麦色の由来であった。




「まさか、同じメーカーの市販車とやり合うことになるとはね。でもこれで我々が敗けたらジャイアントキリングになっちゃうわ。英梨花、責任重大よ」


 英梨花の後ろにつけている紗代はその様子を見て苦々しそうに独白した。こちらも調子が悪い訳ではないのだが、時にこういうことが起こるのがレースの恐ろしさと言えよう。特に草レースや公道レースではこういった荒れる展開が起こりやすい。


 今回の浅間も舗装され本格的なサーキットの体裁をとっているとはいえ、前身はやはり公道に近かった。




「い、一体誰なのよ。あんな走り、私も覚えがないわ」


 コーナリングしながら佳奈も覚えのありそうなライダーを記憶から探るものの、該当するライダーが思い浮かばない。


 何しろ相手は高速でカウンターを当てながらスライドさせコーナーを抜けていく。しかもハングオフスタイルで闘争心剥き出しである。こちらも実はタイム的には負けていない筈なのだが、なかなか抜けない。


 一見すると無謀そうに見えるが、英梨花たちから見てもマシンコントロールは確実であるように映った。


 


 (これは……並の腕じゃない)




 ワークスの三人の間に、共通の見解が生まれた。コイツはヤバいと。


 それにしても、見事なスライドコントロールとしか言いようがないが、見た目はかなり乱暴そうに思え、恐らくマシンに掛かる負担も尋常ではないように感じていた。そのイメージは、差し詰めワイン・ガードナーといったところか。




 市販車でありながらワークスマシンを向こうに回してトップを快走する光景に、傍で見ている観客も大歓声を送る。また、近くでアジア系と思しき一団が応援しているのだが、やはりトップを走っているライダーと何らかの関係があるのかもしれない。




 市販車でありながらトップを快走して拍手喝采ではあったものの、ワークスとの絶対的な性能は埋め難いものがあるようで、しばしばファーストファイトなどのストレートで詰め寄られ、最大のオーバーテイクポイントと言えるヘアピンでもなんとかテクニックでカバーするも、かなりのプレッシャーが掛かっているようで、三人には相手に疲労が見え始めているように感じた。


 というのも、時折マシンを制御しきれずにふらつくことがあるのだ。それは傍目には一瞬のことなので分からないものの、彼女たちにははっきりと見えていた。


 


 更に、英梨花はあることに気付く。


「よく見ると、乗ってるのは小柄みたいね。ていうか、それでよくあそこまでコントロールできるわね。しかし、レースはまだ半分も終わってないのに、持ち堪えられるかしら?」


 当人の見立てでは、相手は恐らく160㎝もないであろうと思われた。当時の日本では成人女性としては割と標準だが、レースでマシンに言うことを利かせるにはちとキツい。


 その上、トップを襲う問題はそれだけではなかった。




「あのマシン、確かにクラブマンレースでは無類の強さを見せるけど、ワークス相手は少し酷かもね」


 紗代がそう言うのも無理はなくて、マシンのフラツキは、ライダーの疲労のみならずマシンそのものにもトラブルが発生しつつあったことを意味していた。


 恐らくブレーキやサスペンションに異常が発生しているのではないかと紗代は推測する。その上、時折聞こえるエンジン音もおかしいような気がする。


「あのマシン、いつ悲鳴を上げてもおかしくないわね」


 佳奈は異常な程耳が良いので前を走る英梨花と相手のマシンのエンジン音を聴き比べ、こちらはまだ何ともないのに相手からは不規則な音が聞こえていた。因みに佳奈は犬笛も聞こえるらしい。




 やがて、三人に共通の見解が生まれた。コイツはチームプレーで追い落とすかと。


 


 英梨花が何度も後ろから動的にプレッシャーを掛け、佳奈がコーナリングでスライドを仕掛け英梨花と争っているように見せて相手の判断を迷わせる。紗代は後ろから機を窺うようにつかず離れずに位置していたが、これが相手にとって無言のプレッシャーになる。


 如何に優れたライダーでも、ワークス三人の共同戦線を相手にするのはさすがにキツい。


 作戦は功を奏し、相手の動きが徐々に乱れ始めた。


「ほらほら、油断してるとあっという間にトップから脱落するわよ」


 ゴーグルとスカーフで相手の表情は伺えないが、英梨花には頻繁にこちらを見ている様子から、かなり動揺していると確信していた。


 はっきり言ってえげつないが、これがレースなのである。




 傍目には市販車がワークスの攻撃を凌ぎ切ってリードする白熱のバトルにしか見えてないだろうが、ライダーもマシンも着実に追いつめられつつあった。


 そして、幕切れは突然訪れる。




 7周目、ヘアピンに差し掛かったところでブレーキングに入ろうとした時、トップを走っていたマシンにトラブルが発生した。


「!?」


 フルブレーキングにも関わらず、マシンが止まらない。それどころかエンジンがロックしたような音が。


 刹那、白煙が上がりヘアピンを曲がり切れずマシンはコースアウトし、ライダーは慌ててベイルアウトして芝生を転げまわる。


 幸いヘアピンでスピードが大幅に落ちるのと、並外れた反射神経でマシンからベイルアウトしたのも幸運であった。草塗れにはなっているものの、慌てて駆け付けたコースマーシャルに自分は無事だと身振り手振りでアピールしている様子から多分ケガはないだろうと思われた。しかし、救援車両に乗ってドクターブースに向かう。


 で、そのライダーはヘルメットを脱ぎ、スカーフを降ろすとその正体は一昨日の前夜祭にSSDのメンバーと食事を共にした黒髪のショートに小麦色の少女だった。


 そして薄ら涙を浮かべながら日本語でない言葉で、


「スィアヂャイっ!! (残念無念っ)」


 これは、とある言葉で残念という意味で悔しいのバリエーションの一つ。今回不運なマシントラブルと自らのミスが重なったことに対する思いがこのセリフになって表れたようである。


 検査したところ、何処にも外傷らしきものは見当たらないことが不幸中の幸いであった。後に病院に運び込まれ、レントゲンでも異常は見られなかったが、一か月の経過観察を言い渡されることに。




 悔しいといった表情でスタート地点に戻ってくると、多くの観客から惜しみない拍手が贈られ、当人もつい涙がホロり。


 


 優勝は結局紗代が見事に三連覇。SSDワークスが表彰台を独占しワークスの面目を保った。それでも途中まで冷や汗ものだったのが三人の本音ではあったが。




 表彰式の後、三人も当人が無事なのを労い、更にマシンもこちらで診るという。同じSSDのマシンということで、今後のためにもデータを取る必要があり、他人事ではないということであった。


「こりゃもう使い物にならんな。手の施しようが無い」


 メカニックも白煙を吹き上げたことから原因はおおよそ推測はしていたが、やはりエンジンブロ―だった。分解すると、予想通りシリンダーやクランクシャフトが損傷を受けている。恐らくはエンジンブロックも歪んでいるのではないかと思われた。


 加えてブレーキにもトラブルが発生しており、フレームにもダメージが及んでいる可能性も否定できないなど、安全を考えると残念ながら廃車である。クラブマン仕様とはいえ、当時としては非常に高価なマシンだったのだが、仕方がない。


 結局、このマシンは後にSSD本社へ回送され、子細な調査が行われて後継モデルに対策が施されることになる。


 それにしても、スピードが落ちるヘアピンとはいえ、あの状態では一歩間違えれば受け身を取る間もなく転倒から命に関わる恐れもあっただけに、無傷で済んだのは不幸中の幸いだと、あの時事故の一部始終を目撃したメカニックの一人が少女に慰みの言葉を掛ける。


「よくこれでピンピンしてるよな。きっと仏様の御加護があったんだろ」


 実際、傍目にもあの事故はそう思いたくなる程際どいものだったのだ。彼女は、反射神経もだが運がよかった可能性も否定できない。




 そんな一連の対応に、小麦色の少女は、


「ぼ、ボクにそこまでしてくれるだなんて……ワークスのメンバーでもないのに」


 ワークスチームのスタッフに心配を掛けられ、更にボロボロになってしまったマシンに申し訳ない思いで一杯であった。廃車になったとはいえ、そんなマシンを診てくれるSSDワークスのメカニック。また、自分のチームのメカニックも一緒に心配そうに診ている。


 


 でもって、そんな様子に先程優勝した紗代が寄り添い、


「ナニ言ってるの。私たち相手にあれだけの戦いを見せてくれただけでも立派よ。ホントあの時私たちは焦ってたんだから。もしもこっちに勝ち目があったなら、あんな共同戦線を張ったりしないわ」


 そう、確かに小麦色の少女は、ワークスに乗る三人を向こうに回してみせただけでもジャイアント・キリングに匹敵すると言えよう。その証拠に、紗代はレースが終わって間もないとはいえ、かなり上気していた。小麦色の少女は、確かにワークスの三人を追い詰めていたのである。


 だが、彼女には運が二つなかった。一つはマシントラブル。そしてもう一つは相手がワークスであったこと。もしもワークスが出てなかったら小柄故の軽さもあって、進駐軍たちを向こうに回して優勝していたかもしれない。また、相手がワークスであったこともトラブルを誘発した原因の一つであった可能性は高い。


 ワークス相手に当人は意識してなかったにせよ、マシンに必要以上に負担を掛けていたのは想像に難くなかった。闘争心剥き出しの我武者羅戦法だけで勝てる程レースは甘くない。


 彼女はそれを肌で知った。これがレースなのだと。




 この後彼女は近くの病院へ向かった。そして午後、浅間最後にしてメインイベント、特級車によるレースが間もなく始まる……


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る