第19話 浅間 中前編
群馬県の吾妻郡嬬恋村と長野県北佐久郡軽井沢町の境にある浅間山。嬬恋村、軽井沢。いずれも日本有数の風光明媚なリゾート地であり避暑地として古くから別荘地としても知られてきた。ここが今回の戦いの舞台となる。
尤も、厳密には軽井沢の境より僅かに群馬県側に位置する場所にコースがあった。
正式名称は全日本オートバイ耐久ロードレースと言い、レースが一般に観客収入を得る興行なのに対し、こちらは名称通りまさに走る実験室として日本の二輪業界発展を願って始められた。
第一回は史実より一年早い昭和29年(1954年)。以前から企画はしていたものの、同年日本のメーカーがブラジルのレースに招待されリザルトはともかく全車完走という予想外の好成績を上げたことに自信を持ち、結果開催予定が前倒しになった。
第一回大会では大急ぎで体裁を整えた経緯もあり、大きなイベントとしてはやや不十分な面もあったが、それでも実に3万人もの観客を集め、予想外の盛況で興行としては大成功だったと言える。
既に以前から娯楽に飢えていた時代背景や経済効果を見込んで行政側の半ば黙認の形で(一応開催許可は得ていた)各地でTTを名乗る公道レースや、飛行場もしくは河川敷などを閉鎖しての草レースが開催されていたものの、戦前のようにある程度格式あるレースイベントが更なる発展と二輪の進歩には欠かせないという認識の下で構想され、件の浅間火山レース開催により実を結び、そして3回目となる今年からは舗装コースも完成したことで漸く格式あるレースとしての体裁が整ったのである。
それは同時に日本のモータースポーツが新たな段階に入ったことを意味していた。
戦前は一部例外を除いて大した発展が見られなかった日本の二輪業界であったが、戦後の日本のモータースポーツは60年代に日本に高速道路網が整備され自動車が急速に発展していくまで二輪業界が牽引していた。
歴史上、日本にとって初の本格的な国際規格の常設サーキットは鈴鹿サーキットとされているが、実は浅間も名目上はテストコースであるものの、欧米のサーキットを参考にしているのもあり内容は遜色ない。そのため、後世の歴史学者の中には、浅間を非公式の国際規格の常設サーキットだと解釈する人もいる。
因みに史実と異なり浅間は後に浅間テクニカルウェイと改称してその後も存続することに。
「やれやれ、やっと着いたわね」
到着するなり英梨花が浅間山を見つめながら長旅の苦労を忘れるかのように深く息を吸い込む。因みに軽井沢には戦前から調布家の別荘があり、一時GHQに接収されていたものの三年前に接収解除となり、SSDはここを浅間レースの間の拠点とすることにしていた。こういう時、メンバーにお嬢様がいるというのは何かと便利だった(笑)。
軽井沢と言えば日本有数の避暑リゾートにして別荘地として名高いが、明治に入り外国人が多数ここに別荘を設けたことでも知られる。
その切っ掛けはイギリス人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが西洋に似た気候風土からここを気に入り開拓したことに始まる。
それ以前も江戸時代には中山道の宿場町として栄えていたのだが、明治に入り交通事情の変化により衰退したところを外国人によって再び魅力を見出されたと言えなくもない。
その後は皇族や華族、富裕層など日本のトップに位置する人がここに別荘を構え社交界を形成し、更に文化人など各界の著名人が滞在したことでサロンの舞台にもなった。
こうした経緯から、軽井沢は町全体が別荘地と言っても過言ではない。
また、戦時中は枢軸・中立国の大使館及び公使館、一般在日外国人の主要な疎開先となり、ここに空襲は行われなかった。
戦後になると外国人避暑客は大幅に減少したが、進駐軍将校など好んで滞在した者はそれなりにいた。こうした関係で第一回大会から腕に覚えのある進駐軍レーサーが日本のバイクに乗り、或いは外車も認められていた一級車及び特級車に参戦しており、レースを盛り上げるのに一役買った。圧倒的な性能を誇る外車に多くの観客がため息をついていたが、一方で技術者は冷静で、自分たちに何が足りないのかを分析し、日本のバイクの急速な進化を促した。
「さあ、ここがこれから私たちが開催期間中過ごす拠点よ」
英梨花がそう指差すのは、ハーフティンバー様式の純洋風建築である。これが調布家の別荘であり、結構な大きさがあった。尚、日本の西洋とも言われる軽井沢でハーフティンバー様式はそんなに珍しくない。
宿泊するのはライダーの5名とマネージャーも兼務している久恵夫人で、メカニックなどは英梨花が話をつけておいた、ここから約200m離れたところにある親戚が経営しているクアハウスで宿泊してもらうことになっている。
尚、当時クアハウスはリゾートブームも先のことでまだ時代に早いが、軽井沢は温泉も湧き出るため古くから湯治場としても知られており、調布家はそれを現代風にアレンジしたクアハウスを早くから開業、軽井沢が観光地化するその先駆でもあったと言えなくもない。
因みにクアハウスはログハウス風で、ヨーロッパのセレブ御用達のスキーリゾートにあるクアハウスを参考にしているという。
余談だが、ヨーロッパには会員制のクアハウスや避暑地も少なくない。
英梨花の家ってやっぱスゴイなあと圧倒される皆さん。でもって、英梨花は遠慮なさらずにとばかりに自身が先陣切って別荘に入り、一行に入るよう促す。
「へえ~、内部は外観同様にシンプルね」
翔馬もお嬢様育ちなので、こういうことにはすぐに気づく。
「ええ、戦前イギリスの建築家に依頼してるのと、日本ブームの影響を受けた世代だしね」
この別荘が建てられたのは大正時代。明治に入り鎖国を解消し、それまで神秘の国であった日本に気軽に入国できるようになって多くの欧米人が入国したのだが、その中にはデザイナーや建築家も少なくなかった。
そして、当時西洋デザイン、特に装飾様式はアイデアも出尽くして煮詰まっていた時代でもあり、欧米では本気で次世代デザインに於ける改革が求められていた。そんな時、彼らが出会い衝撃を受けたのが、簡素の美であった。
次世代デザインは、シンプルこそが相応しい。その後競うようにシンプル化が始まったのだが、そのまま模倣するのではなく、あくまで自分たちが連綿と築いた文化へ落とし込む形で新たなデザインを編み出したことがポイントであろう。
装飾の世界も同様で、それまでゴテゴテ飾り付けるのが当たり前だった所へ日本の簡素の美と出会い、試行錯誤を繰り返した結果誕生したのが洋和折衷とも言えるアール・ヌーヴォーであり、その後大量生産大量消費の時代に入って量産性を高めることが求められ、更なる簡素化と同時により洗練度を高めたのがアール・デコと言える。
その後、西洋デザインをマスターした日本人の手により、その西洋装飾へ和のデザインを落とし込んでアレンジした和洋折衷様式も明治の終わり頃から散見されるようになっていく。
外観のハーフティンバーも最盛期の頃はもっとゴテゴテしているのだが、日本の影響を受け飾り柱や梁の数を減らしてシンプルに見直したデザインとなっており、内部も装飾は最小限度に抑えられ、アールヌーヴォーの装飾がピンポイントで使われていた。
因みにマントルピースの装飾は定番とも言える西洋に於ける豊穣の象徴である葡萄ではなく、日本の豊穣の象徴とも言える稲穂に換えられているのだが、これはデザイナーの日本に対する一種の敬意だという。
言わば調布家の別荘はそうしたデザインの熱き時代の生き証人と言えなくもない。そこに、これから世界の頂点を目指そうと奮闘している自分たちとの姿が重なる。そう、ベクトルは違えど熱いのは同じだと。
それぞれ部屋を確認して荷物を置くと早速コースの下見へ。コースは別荘から約15分程歩いた場所にある。
コースが近づくにつれ、ガソリンや機械油、エンジン特有の匂いが鼻を擽り、獣の吠えるような爆音が響き渡り鼓膜を刺激し、紗代と佳奈にとっては一年振りの懐かしい空気が甦る。
一方、英梨花、翔馬、雪代にとっては初めての浅間となる。これまで何度か舗装コースも経験はしているが、浅間の雰囲気は一味違った。
「やっぱりこの音を聴かないと私は落ち着かないのよね」
「紗代さんもそうだったのですね。私も同じですよ」
SSDでも最古参の二人は、去年一昨年と出場しているだけに、熱き闘いの記憶がそうさせるのか。
「さすがに名にしおうイベントだよなあ。あたいがこれまでやって来たことが小さく見えて来たぜ」
雪代も本格的なレースを前に緊張を隠せないでいるようだ。
「あら、あの時私を打ち負かしたんだからもっと自信持ちなさいよ」
そう言って発破を掛ける翔馬だが、久恵夫人は別の意図を汲み取っていた。
「翔馬、それって実際にはどっからでも掛かってこいという宣戦布告でしょ?」
意図を見抜かれ翔馬はバレてたかとテヘペロ。周囲も笑う。
パドックでは既に到着していた参加チームが忙しなくセッティングに励んでおり、既にコースに出て練習走行中のライダーも少なくない。
パドックの裏にはワークスチームと思しきトランスポーター、更に有力プライベートチームのトラックが軒を連ねており、前者ではトランスポーターを作戦室として利用し、後者ではトラックの隣に米軍払い下げのテントを立ててそこを作戦室にしていた。
その中にあって、やはりSSDのトランスポーターは赤をベースにしているのもあって目立ちまくっており、中には物珍しさからかトランスポーターをカメラで撮っている人もいた。後にはこの影響からかワークスもプライベートも次第にコーディネートしたトランスポーターを導入するようになり、パドック裏も年を追う毎にカラフルになっていくことに。
今大会では去年から第一回が始まった、浅間クラブマンレースも前座として男女別で併行開催となっており、ある意味彼らのパドックはワークス以上に熱気ムンムンとしていた。
それも無理からぬことで、クラブマンレースはプロへの登竜門的な位置づけとなっており、ここで好成績を上げ、更にロードレースに招待されワークスを向こうに回して勝利し、そしてワークスチームに迎え入れられ歴史に名を残したライダーも少なくない。
やはり何だかんだ言ってもプライベートよりワークスの方が有利に戦えることに変わりはないのだ。尚、SSDの初期メンバーのように草レースで見出されいきなりワークスへと迎え入れられたのはかなり幸運なケースと言うか、レアケースと言える。
「この中にも、きっと宝石の原石が眠っているのでしょうね」
その熱い様子を見て、久恵夫人は意味深なセリフを呟く。
明日から浅間の最も熱い一週間が始まるのだ。
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