第17話 平穏という名の日常 彼女たちだってそりゃこういう日もある

 今日はテストも休みということで、心の洗濯と称してメンバーの皆さんは町へと繰り出すことにした。




 といっても、この時代の五日市や翔馬の自宅がある己斐はそこそこ街だったけど目ぼしい店などない。何しろ当時の広島はほぼ川を境にして都市と農村に分かれていた。特に山手川(後の太田川放水路)はまさに国境ともいうべき川で、川を境にして南側が広島市内、北側が農村とはっきり分かれていたくらいであり、北側に位置する安佐南区や安佐北区などが後に高度成長期に伴い田舎から多数労働者が流入して人口が増加し、宅地造成が進行して新興住宅街へと変貌、広島市へ編入されるのは70年代のことであり、当時はまだまだ先のこと。


 それまでは安佐郡と呼ばれており、町名ではなく村名であった。




 こうした経緯から、安佐郡が改称され広島市になって以降も住民の中には川より南を旧市内と慣習的に言う人もいる。


 このために広島県民の間では街に繰り出すというと大抵は川より南に行くことを指す。また、県外の人が広島に来て市内に行くと聞けば上述のことだと思って間違いない。なので、安佐南区とか安佐北区にいて、そう聞いた時に決してここ市内じゃんとツッコんではいけない。




 さて、その市内に繰り出すことにした一行であるが、女の子にはある儀式が欠かせない。そう、おめかしである。


 現在、メンバーは宍戸重工本社に近い己斐の翔馬の自宅を拠点にしており、英梨花はともかく、和風の環境に育ってきた雪代、また紗代と佳奈は初見でその豪邸振りに圧倒されることに。


 尤も、彼女たちでなくともアールデコ様式にパノラマガラスやガラスレリーフで飾った白亜の豪邸に圧倒されない者は恐らくいない。


 あの時の心境について、雪代が語る。


『あたしの家もいい加減豪邸だけどよお、アイツの家に初めて行った時は住む世界が違うとしか言いようがなかったなあ。ガレージにはジャガーやガルウイングベンツまであるし。その上翔馬のやつ、天蓋付きのお姫様ベッドで寝起きしてんだぜ』


 戸惑う一行をよそに、両親は勿論大歓迎であった。


 


 いくらスピードの戦士とはいっても、バイクを降りれば彼女たちも十代の少女。オシャレにおめかしに興味津々のお年頃であり、鏡台や姿見を前にちょっとしたファッションショーを楽しんでいるのだが、取り分け弄られたのが雪代だった。


「雪代、アンタこの年頃で化粧の一つもしてないだなんて信じられないわ」


 そう、雪代は(公職追放による迫害を甘えの口実にして)グレていた過去があり、粋がって化粧などいらないとばかりの少女時代を送っていた。そのせいで口紅の差し方も知らない。


「でも、よく見ると顔立ちは端正だし、色白できめ細かいし、黒髪もサラサラだし、京女の遺伝子はしっかり受け継がれてるわね。これは弄り甲斐があるってものよ」


「お、お、おいやめろ、やめてくれ!!」




 すったもんだの果てに、雪代はトレードマークとも言える右目を隠すように半分だけ長くしシャギーを入れた前髪を流すように矯正されてロングヘアーはポニーテールに、更に当人の雰囲気を生かすように薄化粧なのと敢えてシンプルに落ち着いた色調の青のソリッドで少しクールにキメたAラインを着せられた雪代からは不良少女の面影は全く感じられない。勿論口紅も差している。


「うおお~、これだと何処から見ても女子大のお嬢様でも通用するわ」


 姿見で自分の姿を見た雪代は、別人のような自分に、つい赤面してしまった。


「こ、こ、コレが、あたいなのかい!?」


 しかし、違和感ありまくりのようで、


「脚がスースーするし、腰に薄い布地巻いてるだけって感じで何だか頼りねえな」


「大丈夫大丈夫、すぐ慣れるって」




 そして次にターゲットとなったのが佳奈である。東北の出身で、その上大都会と地方との間にはおよそ2年もの情報格差があったと言われる時代、典型的な田舎娘を変身させることに。


 当人はファッションに興味津々なせいか、意外にも大人しく身を任せる。


「まあ、これがわたし……」




 佳奈はトレードマークのお下げを下ろし、薄化粧を施して紅を入れ、ファッションはもう少し華がある方がいいということで赤地に水玉の入ったワンピースをチョイス。七宝のブローチをアクセントに。普段の地味な印象から、随分華やいだ雰囲気になった。


「おお~、こっちも何処から見てもお嬢様じゃない」


 


 何しろ5人とも幼少時に戦争を潜り抜け生き延びた世代であり、統制経済による不自由を経験しているだけに女の子してられることの有難さを誰よりも知っている世代でもあり、オシャレやファッションに対する欲求はある意味現代の同年代よりも強かったと言えるかもしれない。




 そして、バッチリキメたところで街へ向かうことに。


「それじゃあ、コレで行きましょう」


 そう言って翔馬はガレージに停めてあるブリティッシュグリーンのジャガーマーク1を指差す。因みにガレージにはもう一台同じくブリティッシュグリーンのジャガーXK120クーペもいるなど、西原家はジャガーのファンでもあった。因みにXK120はクーペとオープンがあるが、XK120の生産開始が1948年なのに対し、クーペの生産開始は1951年からの上、全体に占める数もずっと少ない。


 2台ともワイヤーホイールを履き、ブレーキを改造して四輪ディスクに変更しているのと、SEと呼ばれる高性能パッケージをオプション装備していた。


 更にガレージには件のシルバーのガルウイングベンツの他に当時西ドイツ国内でも見掛けることは少なかったV8仕様の紺のBMW501や、生産台数全体の僅か3%程度しか生産されなかったと言われ大衆車クラスながら稀少な小洒落た淡緑のモーリスマイナーのコンバーチブルもあった。


 モーリスマイナーも歴史に残る名車であり、当時のイギリスでは代表的な国民車として大工から産婆さんまで多くの人の足となり、後にモーリスミニが登場しても尚1971年まで生産され続けた他、日本にもかなりの台数が上陸している。


 因みに翔馬は四輪はジャガーのファンで、特にXK120は非常に気に入っていたらしく、70年代に入っても愛用していたという。




 当時、日本では大衆車ですら自家用車なんてまだ家庭にはロクになかった時代、進駐軍が持ち込んだ車両以外でジャガーなんてそうそう見られるものじゃないし、ガルウイングベンツも当時日本ではプロレスラーの力道山、俳優の石原裕次郎、同じく俳優の夏木陽介の三人が所有していたことが有名だが、更にもう一台、西原家のガレージに鎮座していたのだから次元が違いすぎ、メンバーを唖然とさせたのも無理はない。奥には海外マニア垂涎のデューセンバーグSJもいたし。


 しかし、翔馬はそんな稀少なジャガーにまるで日常感覚で乗り込むようさり気なく持て成すのだった。尚、翔馬は当時16歳だが、まあ我々とは異なる史実を生きているので、当時は16歳で普通免許が取れたものと解釈していただきたい。二輪の方は当時14歳から解禁となっていた。というのも、増加傾向にあったとはいえ当時はまだ高校へ進学する者は少なく、中学卒業後に社会人となる者も珍しくなかったので、その関係上免許が必要だった者も少なくなかった故の措置である。




 英国車らしい明るめのタンレザーとウォルナットにウィルトンカーペットで固めた内装は、乗り込むと非常に落ち着く。が、運転席からセンターに掛けて並んだメーターが、セダンでありながらスポーツカーの遺伝子を継承していることを物語っていた。


 全員が乗り込んだのを確認すると、翔馬はキーを捻りエンジンを始動させる。シルキー6と呼ばれる直列6気筒のスムーズさと、SEパッケージ仕様のツインキャブ+インタークーラー付ルーツ式スーパーチャージャーのコンプレッサーの駆動音が重なって、優雅な外観からは想像もつかない獰猛なサウンドが車内に響き渡る。因みにSE仕様は外観にSEのエンブレムが装着され、マフラーが左右4本出しになるので区別は意外と容易。また、パワステを備えミッションも4速から5速となるが、オプションのプリセレクター式であった。軽量化のためドア、ボンネット、トランク、屋根がアルミになっている(実際の当時のジャガーにこのような一連の設定はない)。




 翔馬がアクセルを軽く踏み込んだだけで5人が乗っているにも関わらずジャガーは苦も無く滑らかに動き出し、街へと繰り出していった。


 市内に出ると、ほんの11年前に原爆で壊滅したとは思えない程の見事な復興ぶりであった。当時山陽本線及び可部線はまだ横川付近では地上を走っており、国道54号(当時は国道182号)は山陽本線が横切っていた関係で踏切付近を中心に渋滞が慢性化していた。当時、クルマはトラックやバス、タクシーが大半を占めていたので非常に少ない時代にコレだったので、どれ程の交通上のネックになっていたか想像に難くない。


 太田川放水路工事に関連して高架化され踏切が消滅することによってこの問題が解決するのは、これからまだ7年待たねばならなかった。


 市内は一応舗装されていたが、中心部を過ぎるとまだ未舗装区間も多く、ジャガーのような高性能車が走ると砂埃が尋常ではなかった。


 自家用車自体ロクにいなかった当時、緑色のジャガーは非常に目立ち、信号で止まる度に注目の視線が痛い。




 早朝なのもありクルマもまだ疎らな市内を走るジャガーは、中心部に来るとある場所で奥まった場所に入っていった。そこは喫茶店であった。


「おい翔馬、何で喫茶店なんだよ。まだ朝じゃねえか」


 雪代は何で朝に喫茶店!?と首を傾げる。それは他のメンバーも同じ心境だった。


「ここのコーヒー美味しいし、広島では当たり前のサービスを皆に味わってほしいし、それに私が贔屓にしてるしね」


 そう聞いた雪代は、


「へえ~、そいつは楽しみだな」


 今となっては信じられないかもしれないが、当時、喫茶店は十代にはなかなかに敷居の高い場所であったようで、今と違い制服で気軽に入れるような所ではなかった上、大人以外はお断りという空気が漂っていたという。時代が下ると共にそうした雰囲気も徐々に緩和されていくが、時代が下り7~80年代は青春ドラマや校内暴力の影響からか不良の溜まり場というイメージを持つ大人も少なからずいて、喫茶店に行ったことが知られて親にあまり良い顔されなかった経験のある人も少なくないだろう。




 しかし、翔馬は慣れているようで躊躇うことなく木製のオシャレな扉を潜り中に入っていく。雪代を除いたメンバーは少し緊張気味。


 当時、喫茶店にどれだけ入り慣れてるかで当人がどれだけ都会で遊びなれているかが分かったとも。つまり、翔馬は相当遊び慣れている方のようで。尚、当時翔馬の通っていた修道女では喫茶店の出入りは禁止されており、翔馬も先生の補導から逃れるため週末のみしか利用せず必ず私服であった。


 


 ハーフティンバー様式の外観と同じく木と漆喰の内装は大人の落ち着きに満ちており、早朝にも関わらずこれから仕事に向かうサラリーマンがかなりいたことから人気の店であることが窺える。


 内部にはコーヒー特有の香りが漂い、まさに大人の場所であった。


 翔馬は最奥の円卓の席に向かう。嘗てはここで修道女の気心の知れた仲間と何気ない語らいや、次のレースのことでの話し合いに夢中になっていたものだ。


 実は翔馬は以前登場した庶民的な焼肉店から、こうした敷居の高い場所まで広島市内での守備範囲及び顔は非常に広い。


 5人が腰を落ち着けたところで早速店員が注文を取りに来た。


『御注文は如何致しましょう?』


「そうね、いつも通りブルーマウンテンを5つお願いします」


 翔馬が何気なく言うセリフに、一瞬水を吹き出しそうになる皆さん。


「おいおいお前、ブルマンなんか飲んでるのかよ」


 当時、日本では既にブルーマウンテンは非常に高価なコーヒーとして知られており、なかなか数が出ないため扱う喫茶店は極めて少なく、翔馬がこの喫茶店を贔屓にしていたのもブルーマウンテンを扱う数少ない店だったからである。


 ブルーマウンテンの栽培はジャマイカで18世紀に始まったとされ、そして日本に初めて輸入されたのは昭和11年(1936年)のこと。その際英国王室御用達と銘打った宣伝が大当たりし、現代にまで続くブルーマウンテン神話の切っ掛けとなった。


 非常に香り高く高価であったことと、当時ジャマイカはイギリスの植民地だったことから王室でも飲まれていたであろうという憶測に基いたキャッチフレーズであり、実際には王室とは関係も根拠性もない。


 しかし、これ以降ブルーマウンテンの輸入は増え続け、全生産量の約70%が日本に輸入されており、日本はブルーマウンテンの上得意様といっていいだろう。


 更に店員は事務的に続ける。


『今はモーニングサービスの時間帯でございますので、卵料理の種類をお選びください』


 店員の説明によると、トーストに卵料理はゆで卵、目玉焼き、スクランブルエッグは基本で、更にポーチド、フライド、オムレットも用意されていた。そう、翔馬がわざと朝食を抜いて早朝にここに連れて来たかったもう一つの理由が、ここのコーヒーの美味さと、このモーニングサービスなのである。


 4人はそう聞いて前代未聞のサービスに目を瞠った。


 実は、広島では当時既に喫茶店で早朝の限られた時間帯にコーヒーと同じ値段か若干プラスした程度で朝食を提供するモーニングサービスが当たり前であった。尚、その起源については諸説あり、同時期の愛知県とその隣県の岐阜県でも当時既に実施されていたし、また大正時代にカフェパウリスタがモーニングサービスを始めたとされているが、確実に確認できる最古の記録は昭和31年(1956年)に広島のルーエぶらじるのモーニングサービスの様子を週刊朝日が紹介しており、これを切っ掛けに全国の喫茶店に広まったと言われている。


 なので、まだこの時は全国に広まっていく前夜であり、4人が目を瞠ったのも無理はない。


 余談だが、モーニングサービスは和製英語である反面英単語にも存在するが、英語圏では早朝の礼拝を意味するので注意しよう。このため現在の日本ブームの影響で喫茶店を筆頭にモーニングサービスも知られつつあるが、戸惑う外国人も少なくない。




 特注の宮島焼のコーヒーカップと皿でメニューが運ばれてきた。素焼きに近い質素な佇まいが落ち着いた内装の雰囲気とよく合う。


 パンは隣のパン屋から毎日焼き立てを仕入れており、焼き立てならではの甘い香りが鼻をくすぐる。でもって英梨花が疑問に思ったのが、


「そういやこのサービスってブルマンの客だけかしら?」


「ううん。10円の追加でどのコーヒーでも10時までサービスしてくれるわよ。広島の喫茶店じゃそれがほぼ当たり前だし」


「へえ~、随分太っ腹じゃない」


 


 全て翔馬の驕りで店を後にし、市内を出て郊外へ。その間の風を切るようなドライブが実に心地好い。そして、ある場所で停まった。それは何と会員制スポーツクラブである。その名も西原スポーツクラブ(後のNPCことニシハラプレジャークラブ)であった。


 その名に、英梨花はあることを思い出す。


「そういや翔馬の家ってスポーツ長者で有名だったよね」


 英梨花にそう指摘された翔馬だが、


「ええ。まあまだ海外のスポーツクラブには及ばないけど」


 と、自慢するでもなく控えめな反応である。


「へえ~、お前の家ってスポーツクラブ経営してたのかよ」


 と、雪代は更にあることを思い出した。


「そういやあたいの仲間が事故の骨折で病院の世話になったんだけどよ、運よくその医者がスポーツドクターとやらで、そのお陰で大した後遺症もなくて済んだんだけど、そのスポーツクラブに所属してたとか聞いたことがあるぜ」




 西原家と言えば広島屈指の富豪一族として知られているが、起源は豪農で、明治に入り機を見るに敏で山陽鉄道(後の山陽本線)の投資で大成功を収め、その資金を基に日本ではまだマイナーだった西洋式スポーツを広める目的で海外のスポーツ事情を参考に会員制の西原スポーツクラブを設立。五輪を筆頭に第一線で活躍した選手を指導者として迎えながら事業を拡大し、父が若くして事業を継いだばかりの時に用具の国産化振興を願いスポーツ用品にも進出、更に医療の視点からもスポーツを支えるべく一族の中からスポーツドクターが誕生し主にスポーツ選手のための病院を経営し、後継者育成にも力を入れるなど、まだ世界的にもそうした概念がなかった当時にスポーツ医学を開拓してきた。


 西原家はまさにスポーツ一族なのである。同時に、西原家はスポーツ医学の観点から後にライディングギアの開発及びマシンの開発にも多大な貢献を果たすことに。


 同時にスポンサーとして日本のアスリート育成にも貢献しており、世界的なアスリートも生まれたことで一定の使命は果たした。


 余談だが、日本初のスポーツクラブは明治元年(1868年)に誕生した横浜カントリー&アスレチッククラブ(現YC&AC)で、外国人専用であった。現在は数は少ないながらも日本人会員もいる。


 母親が戦前マン島を制したことに加え、こうした環境に育った翔馬がモータースポーツに興味を示したのも必然と言えよう。




 西原家はスポーツの大衆化を目指してこのスポーツクラブを設立したのだが、当時会員制スポーツクラブは富裕層が利用するイメージが強く、それ故敷居の高さを感じてなかなか大衆に広まらないことに忸怩たる思いであった。日本に於いてスポーツクラブの大衆化が本格化するのは80年代に入ってからと考えられる。


「西原家って、思った以上にスゴイ一族だったのね。まさか、私も乗馬で世話になってるスポーツクラブが同じ名前なんだけど知らなかったわ」


 英梨花も乗馬を嗜んでいるが、実は調布家も戦前からお世話になっていた。




 まさかの正体に圧倒されている4人を後目に、翔馬は我が庭とばかりに建物へ。


「さあ、早く早く」




 内部では様々な屋内スポーツが行えた。その内一行が向かったのはプールである。当時、前年の昭和30年(1955年)に発生した宇高連絡船紫雲丸の沈没事故で大勢の修学旅行生が犠牲となったことや、橋北中学水難事故などで大勢の犠牲者が発生したことを教訓として小中学校で水泳授業の全面的な導入となったことに加え、それ以前から水泳を実施していた学校でも海や河川を使っていたものの、もっと安全に泳法を習得するためのプール建設が進められるようになったばかりで、本格的なプールはまだ少なかった。


 なので、このプールを見ただけでも圧倒されてしまう。


「早く着替えましょ、泳ぐのは気持ちいいし、心のイライラやモヤモヤもキレイに洗い流してくれるし」


 しかし、その水着を見た皆さんの反応は……


「な、な、なんなのよコレ。こんなの着て泳げっていうの!?」


「何だよこのハデな水着は!?」


 更衣室には一応様々な水着が用意されていたのだが、当時の感覚からして抵抗感のあるデザインばかりであった。ていうか、何で昭和30年代に!?というシロモノばかりである。


「大丈夫よ、恥ずかしいのは一瞬だけですぐに慣れるって」


 そう言う翔馬は既に着替えていて、大事な部分以外は全て不要と言わんばかりにカットした、殆ど裸同然の恰好で、見ているこっちが恥ずかしくなる。水泳帽を被っていて、髪はたくし込んでいた。


 でもって、プールへドボ~ンと豪快に飛び込む翔馬。


「さあ、こっちこっち。今日は貸し切りにしてあるから、広々したプールで燥ぐのは楽しいわよお」


 翔馬に誘われるまま、意を決して皆も飛び込んだ。更に雪代の意外な面も明らかに。


「雪代って意外とスタイル良いのね。こんなに大きいとは知らなかったわ」


「う、うるせえよ」


 照れる雪代。


 


 やがて夢中で泳ぎ燥いでいる内に、翔馬の言うようにいつの間にか恥ずかしさも忘れて楽しんでいた。一部足のつかない深い場所もあったが、皆さんある程度は水泳に対する心得もあるようで、特に怖がることもなく立ち泳ぎも難なくこなしている。


 また、翔馬にとって水泳で水を切る行為はバイクで風を切るのに似ているという。このためバイクを操る身体を作り上げる意味からも水泳を好んでいた。




 こうして、戦士たちの平穏は過ぎていく。次の日からまたスピードと競争の日々が待っているのだ。


 


 

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