第14話 スカウト4 西原翔馬 後編

午前9時、グリーンフラッグが振られ、一斉にスタートした60余台のスクーター。


 スクーターと言えども結構な加速力があり、意外と侮れない。


 


 周囲にはスクーターとは思えない爆音が響き渡り、トップグループは中団とやや離れていることから改造していることが窺えた。実際、オイルクーラーやヒートシンク、放熱板などを追加して冷却能力を向上させたケースが多かった模様。


 


 己斐駅近くをスタートして先頭集団は早くも三滝に入り、山本川を右に見つつ砂埃を上げながら疾走していく。因みに公道を閉鎖しているのと、事前走行を行っているにも関わらず見通しが悪くコースが分かりにくい箇所にはそれでも車両や臨時のガードレールでこれみよがしに封鎖し、その上でかなり手前から案内標識を出して知らせていた。


 


 特に山本に向かう橋は分かりにくいので、これはありがたい。


 


 山本方面へ左折してからスクーターは山間部へと入っていく。今回のレースはここからが本番だ。


 ウネウネした農道は狭く、抜きつ抜かれつは幅の小さい二輪でも強度の緊張を強いられる。加えてスクーターにとってはハードな上り坂も多数。案の定というか、山本の山間部に入ったところでエンジンブローなどリタイヤを余儀なくされる参加車が出始めた。


 傍らに停め、オーバーヒートで焼け焦げた臭いと濛々たる白煙で悲鳴を上げるエンジンに、きっと高価だったのだろう愛車の無惨な姿にすすり泣く者も。


 特に100mの急坂は鬼門で、上り切れなかったり何とか上り切るも直後にエンジンがダメになってリタイヤした車両が5台程。


 リタイヤしたのは全て国産車だった。想定外の使い方に耐えられなかったのである。後に子細に検分すると、フレームが曲がっていたケースも。これには想定外の使い方をしたのも問題があったとはいえ、観客を装って密かに見ていた技術者も凹むしかなかった。


 


 レースを2割も消化していない時点でエントリーした内のおよそ1割が消えてしまった。リタイヤとなった車両は所々に待機している回収班がトラックに載せてスタート地点まで向かうのだが、無論この様子は無線で実況席に知らされアナウンスで他の観客も知る所となる。


 


早くも1割がリタイヤしたとのアナウンスに、他のクラスの参加者からどよめきと不安の声が上がる。それも無理のない話で、スクーターとはいえレース開始早々これだけのリタイヤが出るというのは他人事ではないのだ。


「これは……今回のレースは波乱の展開になりそうね。この不安が思わぬ事態を招かなければいいけど」


 独白する翔馬も声こそ冷静を装っているが、内心は不安であった。実は、こういうのにびびって委縮することにより、もっと危険が増すことに対してである。適度な緊張は必要だが、それが限界を超えれば普段何気なく出来ることさえ思うように出来なくなり、最終的には多くのレーサーを巻き添えにする大惨事をも招きかねない。


 翔馬はそれが不安だったのである。どちらにせよこれだけ動揺が拡がっている以上、レースでは猶更スタートからトップに飛び出し逃げ切って他の巻添えにならないようにしよう。そう誓うのだった。


 しかし、序盤から大きく引き離すとなると想定外のペースでこちらにもトラブルのリスクが生じる。かといってデッドヒートになって他車のトラブルに巻き込まれるのも御免蒙る。翔馬はこの時逃げ切りを基本としつつもどの辺で折り合いをつけようかと悩んでいた。


 


 やがて、30分余り後にトップグループが一周してスタート地点に来た。案の定というか、ここまでタフに生き残っている個体は砂埃まみれのせいもあるだろうが、例外なくどれもヨレヨレになっているように見える。


 スクーターをこんな想定外の使い方をしたせいもあるとはいえ、今回のコースってハード過ぎやしないか!?という声が参加者の間からチラホラ。 


 尚、この時点でおよそ1/3がリタイヤを余儀なくされていた。


 そしてスタートからおよそ1時間余、トップで走って来たスクーターがチェッカーを受け、レースは終了。最終的に完走できたのは僅か12台というハードな展開となった。


 尚、チェッカーを受けたスクーターのメーカーはMVアグスタであった。そう、MVアグスタと言えばレース用バイクやスポーツバイクが有名だが、これらから得られる収益は意外にも少なく、寧ろ経営基盤を支えていたのはスクーターやモペットなどの実用車の方で、この時代MVアグスタでは三輪トラックも生産していた。他に発展型の四輪仕様も生産されており、生産期間も15年近くに及んでいることから、MVアグスタを陰で支えた成功作と見做して間違いない。


 イタリアも長靴と称される細長い国土に山がちな地形も相俟って細い道も多く、このテのトラックは使い勝手に優れており、ユーザーからも歓迎されていたのは15年も生産されていることからも明らかと言えよう。




 スクーターレースが終わって間もなく、スタートラインには早くも10時30分に開始予定の六級車が並び始める。


スクーターと異なり、こちらは外観は本格仕様で、中にはカウルを装着した個体もいた。


 時計の針が10時30分を指したのと同時にグリーンフラッグが振られ、50㏄特有の甲高い排気音を周囲に轟かせながらスクーターとほぼ同じ総勢60余台がチェッカー目指して走り出す。


 奇しくもグランプリでも50㏄クラスが始まった年であるが、小さいからと侮ってはいけない。進化の過程で4バルブやツインカム、マルチシリンダー採用などにより2万回転以上の超高回転型エンジンとなり極限までパワーアップした結果、後にはパワーバンドが300rpmくらいしかないと言われる超ピーキーな特性となり、それを活かすためミッションには14段変速も登場することに。


 その上、コーナリング中の抵抗を減らすためハングオフではなくリーンウィズが基本であり、非常に制約が多く多段変速も相俟って乗りこなすには超人的な操縦技術が要求される。


 このため、50㏄クラスは別名グレート・ベビーと呼ばれることに。


 これから数年後、日本メーカーがやがて向かうところ敵なしとなっていくと、50㏄は女子に於いて特に日本人の活躍が目立った。小柄で体重も軽い日本人には打ってつけだったと言える。


 50㏄ならではの面白さにハマり、引退までずっと50㏄で活躍を続けた名物ライダーも少なくない。


 因みに最高速度は最終的に190㎞/h前後に到達している。




 レースの模様はスクーターと異なり曲がりなりにも本格仕様なのが幸いしてメカニカルトラブルでのリタイヤは少なかったものの、レーシング仕様故にアツくなりデッドヒートの末絡み合っての転倒リタイヤが目立った。


 レース開始からおよそ30分後、2周してトップがチェッカーを受けた。優勝したのはイタリアのアプリリア。やはり外国製だった。国産車は最上位が5位という有様。


 尚、本来アプリリアによるバイクの登場は1968年まで待たねばならないのだが、ここでは史実より早く生産を開始したと思っていただきたい。


 ここまで外国製バイクの活躍が目立つことに、日本メーカーは面目丸潰れの思いだった。性能差以前の問題として、レーシングスピードや想像を超える過酷な条件にバイクそのものが音を上げてしまう。


「それにしても、あるところにはあるよねえ」


 今大会に於いて、一体何処から手に入れたのかと思いたくなる程に外国製バイクが多く馳せ参じていることに、誰もがそう思うのだった。


 


 午前の部がこうして終わり、昼は食事や地元のマイナー歌手による歌謡ショーなどで盛り上がった後、午後の部として125㏄、250㏄のレースが控えていた。


 どちらも国産、海外問わず力を入れているだけあり激戦区であり、125㏄には最多の70台、250㏄には55台がエントリーしていた。


 案の定というか、コースを3周するどちらのレースも激しいバトルが展開。実況も熱く盛り上がる。125㏄はドゥカティが勝利し、そして250㏄で幸運に助けられたのもあってか、ヤマハが勝利して取り敢えず国産メーカーの面目を保った。実はその正体は有力プライベーターをメーカーが密かに支援した、所謂隠れワークスだったのはここだけの話。


 翔馬の所属する修道女チームはそれぞれ3位と6位に食い込んだ。


 翌日、午前には350㏄、午後には500㏄が開催され、350㏄は5周、500㏄は6周する。これくらいのクラスになると、周回数の多さもさることながらパワーも違うため路面の荒れ具合もハンパなく、一部損傷の激しい箇所には土や砂利などを入れて補修する手間があり、2クラスずつの開催とならざるをえない。


 350㏄には32台がエントリーし、当時人気のクラスだったこともあり激戦となったが、MVアグスタが勝利。2位にはベロセットが入り、3位には何とホンダが入った。だが、観客を装って見に来ていたホンダの技術陣は不満げの様子。


 後に125㏄、250㏄を中心に世界で敵なしの活躍を見せ、更に大排気量クラスにまで進出し、SSDとも激しく争うことになるホンダであるが、当時はまだ雌伏期だった。


 


 昼食とその間の歌謡ショーや大道芸人によるマジックショーなどを挟んで午後の部を迎え、修道女が力を入れている二級車による戦いが始まる。


 エントリーするのは勿論広瀬紗智子。ミドルクラスで活躍している二輪部きっての優秀なライダーの一人だ。


「武運長久を祈るわ」


「ええ、任せてちょうだい。このメンツで負ける気はしないわ」


 そう言ってAGVヘルメットのフルフェイス越しに笑顔を見せた後、シールドを閉じる紗智子。きっと、当時最強クラスだったMVアグスタに乗っている自信がそうさせているに違いなかった。


 


 午後2時30分、グリーンフラッグが降ろされると同時にレースがスタート。500㏄クラス27台が唸りを上げる。


 先頭は本命視されていた通り紗智子の乗るMVアグスタ。赤/銀のマシンに赤/黒のレーシングスーツ、銀のAGVフルフェイスが非常に映える。


 MVアグスタの戦闘力は、型落ちとはいえ圧倒的で、他車も必死で追っているのだが、全く寄せ付けない。


 ピットの方も落ち着き払った様子で見ていた。懸念材料があるとすれば当人が操縦ミスをしてしまうことか、或いは予測不能の不運に遭遇することであった。


 しかし、それは杞憂に終わりマシンの性能にも助けられてスタートから終始リードし危なげなく五周して見事チェッカーを受ける。


 


 無事ピットに帰還した紗智子を歓喜で迎える部員の皆さん。翔馬も手放しで我が事のように喜んでいる。




 いよいよ最終日。一級車(750㏄)及び特級車(1000㏄以上)の対決となる。出走数こそ、それぞれ21台、19台と少ないが、大排気量独特の太い排気音なども相俟って迫力が違う。


 午前は一級車がレースを開始、8周するレースは何と国産にして地元のSSDが制した。因みに優勝したのは調布英梨花。2位には僅差で五島紗代が入り、今大会で初の1-2フィニッシュとなった。尚、佳奈は別のレースにエントリーしていたため出場していない(結果は優勝)。


 実はSSDも今回ワークスであることを隠すために別のプライベーターの名を借りて参戦していた。


 全国に点在するライダーズクラブの方針やレースの規模などによって様々だが、中には草レースでありながら公認レース並のハイレベルな内容でワークスが出場を認められているケースもあった。以前の立川飛行場でのレースはその一例で、SSDが堂々とワークスとして出場している。しかし、英梨花は強敵だと警戒はしつつも、まさか本当にワークスとは思ってなかったようで、そうだと知ったのはレース終了後のことなのだが。




 昼の様々なショーを経て盛り上がったところで最後のレースとなる特級車の出番が迫る。翔馬は青のツナギに袖を通し、ヘルメットも被ってフル装備でスタンバイ。乗り込むビュガティのマシンも最終チェックが行われている。


「武運長久を祈るわ」


「ええ、勝利を期待しててね」


 翔馬が紗智子にそう言ったのと同じように、紗智子が翔馬に祈りを捧げる。


 午後1時30分、グリーンフラッグが振られ、19台の特級車がスタート。出走数は少ないとはいえ、太い排気音の迫力はそれを補って余りある。1000㏄ともなるとまさにモンスターを操っているに等しい。


 そして、エントリーしているのはクラスで唯一全て外国製であった。


 


 スタートで飛び出し翔馬は危なげなく先頭に立つと、三滝から山本川へ。細い道にも関わらず沿道には多数の見物客が見える。


「昼の間に整備はしたようだけど、思った以上に荒れてるわね」


 そう、一級車が通った後であることや、それまで二日に渡りレースを開催した影響は否めず、路面はかなり荒れていた。リードしつつ慎重にアクセルをコントロールしていく。


 程なく見えてきた直角セクションを左折すると、いよいよコースは本番。山間部へと入る。山本に入る直前、長束修練院が見えた。きっとレースの無事をお祈りしていることだろう。 


 後に山本へ入る道の対岸にはスーパーのいなだが出来ており、恰好の目印なのだが、当時はまだなかった。これがあの当時あれば、左折する道が分かりにくいなんてこともないのだが。


 現在は木々が成長し、生い茂っているため同じ位置から建物は見えないが、当時は見ることができた。それ故にあの日、爆風が直撃して建物が一部損壊したのである。


 原爆による熱風によって周辺の山では山火事が発生しているのだが、幸いここでは火災はなかった。


 だが、長束や祇園では安芸長束駅に停車中の電車はほぼ無傷だったものの、駅付近を中心に南では多くの家屋で修練院同様にガラスが割れる被害が発生している他、瓦が落下したり土壁が崩壊するなど、半壊状態であった。長束神社(爆心地から約3.7㎞)も何とか耐えたが爆風で荒廃しており、昭和39年(1964年)になって漸く修復再建されている。


 昭和43年(1968年)に現在の安芸長束駅の近くに移転する前は祇園町にあった長束小学校(爆心地から3.5㎞)では、窓際にいた生徒は割れたガラスを浴びて大けがを負った。


 現在でこそ広島有数の住宅街だが、当時は山手川(現在の太田川放水路)を境に北に位置していた農村地帯で、そのため市内からここに疎開していた子供も多く、更にあの日、逃げ延びた多くの被爆者が比較的無事な建物や家に運ばれ、長閑な農村は地獄の様相を呈したという。


 


 現在こちらも住宅街だが、当時の山本川の周囲には田畑が広がっており、当然の如く川は重要な水源であったが、一方で暴れ川としても有名で、大正15年(1926年)には大水害も引き起こし、昭和3年(1928年)にも復旧したばかりの所へ水害が襲い掛かり、根本的な治水には本格的な堤防が必要だということで昭和7年(1932年)から堤防工事が進められ10年の歳月を掛けて完成。これもなかなかの大工事で、堤防の他一部川の流路や合流地点、川幅の拡幅や形状変更も行われた。


 翔馬がレースで走っている当時は既に両岸に堤防が築かれており、これは周囲の変化を除いて完成時からあまり変わっていない。


 大きく変わったのは水深の方で、過去には1.5mもあったというが、現在は大雨などの増水期でもない限り、足首程度まで浅くなった。


 水深が深く堤防がなかった頃はここを渡し船が通り、鮎も釣れたという。




 山本に入ると険しい坂路が待ち構えているのだが、大排気量だけあってその辺はあまり苦にならない。しかし、ボコボコに荒れた道のお陰で優れたサスペンションを持つビュガティでもお尻を容赦なく直撃する。


「これで8周もするっていうの?キツいわねえ」


 とか言いつつ、割と余裕な感じの翔馬。因みにこの間右に左にカーブが卯ねっている上、己斐峠に合流する最後の難関にはあの30度近い急坂もあるため気が抜けず、後ろを見ているヒマはない。だが、ビュガティの性能に助けられ二位以下はかなり後ろであった。


 翔馬は耳を澄ませ後ろの気配を探り、あまりエンジン音が聞こえてこないのできっとかなり引き離しているのだろうと推測はしていたのだが、油断はできない。こうした山間部では大パワーは反って持て余しがちになるため、思ったほど速くは走れないので逆にそれを利用して詰められる可能性もある。


 農道を疾走する様子を周辺の点在する農家を中心に見物客が集まって感心げに見守っていた。


 


 やがて己斐峠に出たところで翔馬はどのようにペースを作っていくか悩んでいた。晴天が続いたお陰で路面が乾燥しており、今回砂埃を吸い込んでエンジンブロ―を起こすリタイヤが思った以上に多く、かといって後ろも強豪揃いで、あまりペースを落とすと追い付かれてしまう。


 意外と言ってはナンだが、こういうアップダウンの激しいコースは寧ろビュガティのような6気筒マルチシリンダーより1気筒辺りのパンチ力が大きくトルクフルな2気筒などの方が反って有利だったりする。


 それでもレースをリードしていられるのは、ビュガティの総合性能の優秀さと翔馬の腕前があってこそと言えた。翔馬は大型バイクを操るコツはアクセルワークにあることを早くから心得ており、巧みなアクセルワークで大型車をヒラヒラと乗り回していた。




 因みに己斐峠は広島市内と五日市などを繋ぐ近道として利用され交通量も多く、曲がりくねった山道故に事故も多発していたことや、夜になるとひっそりと静まり返ることなどから広島を代表する心霊スポットにもなっている。


 尚、広島高速4号線が開通してから幾分交通量は減ったものの、周囲に団地もあるため主要交通路、抜け道、或いは近道としての役目は今も健在であった。


 


 やがて一周してスタート地点に戻ってくると、サインボードから現時点で3秒先行していることを知る。


「取り敢えずは順調といったところかしら」


 この間もコントロールに気を遣いつつ、着実にリードを拡げる翔馬。操縦性は安定しており、この点で問題はない。ビュガティは意外とタフであった。




 そして、安定した走りで危なげなくレースを終始リード。心配は杞憂に終わり、8周を走り切って見事チェッカーを受けた。


 砂埃まみれになったマシンを降り、ヘルメットを脱ぐとたくし込んでいた黒髪がふわりと舞い、上気する顔には安堵の表情が浮かんでいる。マン島ほどではないにせよ、公道レースのハードさが安堵の表情から伝わってくるようだ。


「はあ~、疲れた。何事もなくてよかったわ」


 これにより全てのレースが終了し、気が付けば7レースの内3レースを女子が制するという波乱の結果となった。で、特級車に於いて地元の翔馬が勝利したことで、唯一の地元ライダー勝利により開催地の面目も取り敢えず保たれた。




 表彰式で勝利の月桂冠を授けられた後、悠然と自分のピットに向かうと、そこには見知った顔の女性がいた。そう、久恵夫人である。


「おやおや、一級車でSSDが参加していたからもしやと思ったけど、おばさまもいたのですか」


 おばさまと言うセリフに、SSDで出場していた紗代と英梨花はコイツ一体誰?という顔をしている。久恵夫人をそのように呼べる人間など少なくともSSDにはいないので。


 英梨花が早速尋ねる。


「久恵さん、彼女と一体どういう関係なのでしょうか」


「ええ、彼女は私の姪なのよ。私の姉は嘗てマン島を制したレーサーだし」


 そう、たった今知った真実。西原翔馬の母親が、伝説の女子レーサー、笠戸静馬であること。笠戸静馬と言えば、女子ライダーの間でこの名を知らない者はいない。そしてメンバーは思った。その血を受け継ぐ翔馬は言わばサラブレッドであることを。


「そりゃ強い筈だわ」


 紗代も翔馬を見ながらつぶやく。


 状況も把握できない翔馬をよそに、久恵夫人は言い放った。


「今日のレースを見て確信したわ。ぜひともウチに来なさい。そして、世界へと羽ばたいていくのよ」


 いきなりのスカウトに、さすがの翔馬も戸惑う。しかし、あることを思い出した。


「そういえば、宍戸重工ではマン島制覇宣言を出してましたよね。あれってまさか酔狂ではなく本当に!?」


「そうよ。まだ実現には程遠いけど、亀のような歩みであっても計画は着々と進んでいるわ」


 翔馬も内心は母親と同じくマン島に出たいどころかマン島を制したいという思いはあった。だが、修道女にいたところでそこまでのコネはさすがにない。叶わぬ夢だと思っていたのが、この申し出によって突然現実味を帯びてきたのである。


 しかし、未だ迷いがあったようで、それを見て取った久恵夫人は決断を促すように家族にも黙っている事実を暴露した。


「貴女、お嬢様学校に通っている裏ではカミナリ族もしているでしょう。もうそんな遊びからいい加減足を洗いなさい。そうしないといずれ警察沙汰になるわよ。現に何度も警察に追われて逃げきってるけど、いつかお縄を頂戴することになるわ。己斐のズべ公と言われてることを私が知らないとでも思うの?警察に捕まって貴女のもう一つの顔を知った日には、どれだけ家族が悲しむか。ウチに入れば、少なくとも身の安全は保障するわ」


 二人の目前で自分のもう一つの顔を容赦なく暴露され、最早選択肢はないと思った翔馬は決断した。


「分かりました。そこまで仰るなら」


 


 こうして、久恵夫人の強引な勧誘で翔馬はSSDワークスに入ることが決まった。




 翌日、そのことをシスター姿の校長に伝えると、


「そうですか。貴女は自分の進むべき道を見つけたのです。進みなさい、自分の思う道を。そして、それを支援することこそが真の教育なのです」


 校長は、翔馬のもう一つの顔は知らないままであった。知られていたら退部どころか退学処分だが。


 一週間後、二輪部の退部も決まり、盛大な送別会が開かれた。それは勿論、あの横川の焼肉店である。


 その席には紗代、英梨花、佳奈もいた。それは、送別会であると同時にSSDワークス加入の歓迎会でもあった。因みに英梨花はこれを切っ掛けにホルモンを大いに気に入ったという。


 


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