第13話 スカウト4 西原翔馬 前編

昭和30年(1955年)春。




 あれから10年。広島は原爆の惨劇の傷跡は少なくとも表向きは癒え(基町などにバラックが建ち並び原爆スラムと呼ばれていた)、神武景気に端を発する高度成長期の始まりと共に復興も軌道に乗り始めた。前年の太田川放水路の工事本格化はその狼煙であったと言えなくもない。




 そして、この広島で、あの原爆の惨劇から奇跡的に無傷で生き延びた少女は、15歳になっていた。


 その奇跡の少女の名は、西原翔馬 (にしはら しょうま)。


 長じて腰の辺りまで伸びた黒髪はしっとりした艶を帯びており、幼少から将来美人になると言われその通りとなったやや切れ長の瞳と端正な顔をより引き立て、凛とした佇まいをも齎していた。


 きめ細かな白い肌はバイクに乗る際ほぼ全身を覆うことが多いせいか、あまり日焼けしていない。


何処から見てもお嬢様なのは明らかなのだが、一方で少し不良っぽい感じも漂うのはカミナリ族をしている影響だろうか。


 とにかく、レースでも公道でも、エンジン音とスピードに魅せられ風を切ることが大好きな少女であった。




 家の近くにも学校があったのだが、当人は現在でこそ新興住宅街であるが当時はまだ農村に近かった長束のミッションスクールに通うことにした。校名は長束修道女学校と呼ぶ。創立は大正2年(1913年)と現代風に言えば由緒ある伝統校である。


 因みにその近くにはどの国でも宗派別に一つしかないとされる修道院ならぬ修練院があった。尚、修練院とは主にカトリック系宗派の修道士やシスターを養成するための機関であり、当時日本ではイエズス会系長束修練院が比較的有名であったと思われる。


 修練院が長束の地に来たのは昭和13年(1938年)のこと。あの日、爆心地から4.5㎞離れた場所にあったこの修練院も爆風によりガラスが割れ正面玄関などが損壊する被害を蒙っており、広島に於けるキリスト教関連で唯一の被爆建物として知られる。被害そのものは軽微であったことや、一部修道士が医学知識を持っていたことなどからここも臨時救護所となった。


 因みに長束修練院は平成17年(2005年)を以てその役目を終え、修練院は東京練馬区の上石神井に機能移転し、修道院として引き続き現地で活動している。


 


 実は、翔馬がこの学校を選んだ理由は二つ。一つ目は当時カミナリ族紛いのこともしていた彼女は当然他の勢力と抗争になることも多く、近くの学校に通えば無関係の生徒を巻き添えにする恐れがあったこと。


 尤も、当時の抗争はまだ後程深刻なものではなかったし、ワルはワルでそれなりに自覚し一線は引いていたし、世間も所詮は若気の至りと自分たちにとばっちりが行かない限り大目に見ていた。


 二つ目の理由は、ミッションスクールは意外にも二輪レースに寛容な学校が多く、教師である修道士にもバイク愛好家且つレース好きが多かったことであった。その上部活で当時の日本では雲の上の世界のような外車に乗れることも珍しくないなど、決して殊勝な理由からではなかった。


 


 そのため、家から歩いて15分で行ける近くの学校ではなく、敢えて電車を乗り換えせねばならない長束のミッションスクールを選んだ。


 尤も、乗り換えそのものは山陽本線己斐駅から乗って横川駅で可部線に乗り換えて当時はまだ川の東にあった三滝駅(昭和37年10月1日から川の西に移転)を経て安芸長束駅で降り、そこから歩いて15分程。丘を少し登った場所にあり、交通の便自体は良好で農村というほど不便な場所でもない。加えてここは抗争圏外でもあるので静かに過ごせるメリットもあった。当人も勉学くらい静かにさせて欲しいのが本音である。


 しかし、二輪部に入るに至り、部員として籍を維持するため、品行方正であること、学業成績を総合でB以内に保つこと、且つ一科目以上Aがあることが学校から条件として課せられていたので、翔馬は勉強にも力を入れざるを得なかった。


 


 余談だが、後に日本一混雑するローカル線と言われることになる可部線だが、一時廃線の危機にあった。


 利用客の激減が主な理由で、太田川放水路が建設されると安芸長束駅を出たらすぐさま対岸に渡る線路が邪魔になることから大赤字だしこれを機に廃線として可部駅から下深川経由で芸備線へと接続する案があった。こうした方が付け替えよりも工事費が安かったため(当時の費用で3憶円に対し2憶円)。 


 しかし、その矢先に高度成長期に入ると利用客は再び増加。


 その後農村だった長束とその周辺は、急速に宅地造成が進行し、その後も利用客増加は確実な見通しだったことから結果可部線廃止の話はいつの間にかなかったことになる。


 もしかしたら国鉄廃線第一号となっていたかもしれなかった可部線が、後に日本一混雑するローカル線となるのだから運命とは分からない。


 しかし、これによって太田川放水路を横断せざるを得ない可部線は、安芸長束-横川間が大幅な付け替えとなり、三滝駅が川の西岸に移ったことで市内に近いにも関わらず取り残されたような状態だった三滝周辺は、今では広島有数の高級住宅地へと変貌している。


 その後、沿線の宅地造成が進行した影響で農村の面影を残す沿線の細い裏道は朝の通勤ラッシュには大混雑して閑静な住宅地が台無しになっているが。


 


 ミッションスクールが戦前この田舎に建てられたのも、ここなら静かな環境で学ばせられると当時の創立者が判断したからで、イエズス会日本管区本部が東京から広島に移され、その後修練院建設に際してもここが選ばれたのは、ミッションスクールが既にあった縁や修道士の縁故関係などが背景にある。


 元々住民も受け入れには寛容だったし、長束はこうした縁で小さな教会があちこちにあるなどキリスト教の活動が盛んな場所でもあった。


 現在そのミッションスクールは大学まで設立され、広島有数の名門校の一つとなっているが、当時はお嬢様の他庶民層出身も普通にいた。長束から市内に通うのは不便だと面倒くさがる女子が近場ということでここに通っていたケースが多かった。


 尚、学校生活に関して翔馬は主に対して祈ることは意外と悪くなかったと語っている。家は神道だが、時に主に縋りたくなることもあって何が悪いのよと。それで心癒されたことも多かったという。


 また、賛美歌を歌ったり異文化体験は新鮮だったし、教師に外国出身の修道士やシスターも多かったので、ヨーロッパの文化的背景や考え方などを教科書ではなく肌で学ぶことが出来たのは後にコンチネンタルサーカスに於いて欧米人と対面する際大いに役立ったと語っている。


 その意味で、翔馬にとってここを選んだのは大当たりだった。というより、ここに通うことを運命づけられていたのかもしれない。




 そして、今日も授業終了を告げる鐘が鳴り響き、待ちに待った放課後と相成った。実は翔馬はこの学校の部活で二輪レースをしていたのだが、今日は生憎部活が休みなので横川商店街に繰り出すことにした。実は商店街にお気に入りの焼肉店があるのだ。




 横川商店街は、良くも悪くも個性の強い商店街であり、また自治意識も非常に高い場所であった。


 このため広島の超一等地にありながら大店はなかなか進出できない場所でもあり、皮肉にもその個性ゆえに昔ながらの商店街の風景が守り抜かれてきたと言えなくもない。多くの商店街が現在寂れてシャッター街と化している中、ある意味では奇跡の商店街でもある。


 当時、横川商店街も太田川放水路工事本格化に伴い一部は立ち退きを余儀なくされているが、大雨の度に市内が広範囲に渡って何度も浸水に悩まされてきたので、この頃には誰も文句を言う人はいなかった。


 これでやっと浸水の悪夢から解放されると。それまで広島は大雨の度に市内が水浸しになる、所謂洪水の名所という不名誉な称号もあったのだ。その称号も太田川放水路が完成すれば返上となるのである。


 多くの犠牲と代償を伴い、工事費も非常に高いものについた太田川放水路であったが、それだけの価値はあった。尚、工事費は現在の物価換算で何と1兆円に上る。


 翔馬も工事の本格化に伴い周辺の風景が一変していくことに一抹の寂しさを感じつつ、同時に悩みの種から解放されることは有難いと思う一人であった。実家は丘の中腹にあるので浸水に悩まされることはないが、それでも近くの道路を大量の濁水が流れ、周囲の家や道路などが水没する光景は見るに堪えない。




 で、商店街でちょっとした食べ歩きをして、やや奥まった暗い場所にあるトタンと木板の外壁に草臥れた感じの赤い暖簾をくぐった。そこが翔馬お気に入りの焼肉店であり、取り巻き数人と一緒に入店する。 


 実はホルモン焼がこの店の名物なのであった。ホルモンは別名もつとも呼ぶ。


 安価で栄養価も高く美味しいとなれば、食べない手はない。何だかんだで女の子と言えども食べ盛りのお腹を安価に満たせる有難い存在だった。


 無論肉も美味しく隠れた名店でもある。


 ていうか名門のお嬢様学校の生徒らしからぬ行動かもしれないが、美味しいもの、心込めて作ってくれたものに貴賤なしと親から薫陶を受けた影響かもしれない。


 しかし、この商店街でミッションスクール特有の呉須色と呼ぶ深く渋い色合いの紺のシンプルなワンピースの制服は、目立たないかと思いきやシスターの修道服をモチーフにしたと言われる大きめの白襟のダイナミックコントラストも相俟って目立つことこの上なかった。


 しかし、可部線に乗って直接来れるのもあってか、修道女の生徒が横川商店街まで繰り出すことはそんなに珍しくないため、彼女らを咎める者は誰もいない。




 開店が戦後間もなく、原爆によ資材不足の影響もあって外観と同じく何処か草臥れた感じの板張りの店内で、味噌ダレに漬け込んだホルモンを七輪で焼きながら話しているのは勿論レースのことである。


 当時は換気システムも不十分だったので、ホルモンを焼く際に滲み出る脂が七輪の真っ赤に焼けた炭に落ちて濛々たる白煙となりホルモンと味噌の焼ける匂いと共に充満して店内は靄が掛かったようになっている。


 しかし、そのお陰で名門校の女子生徒がいることなど客の誰も知らず、反って好都合であった。まあ、ここの客がお嬢様がもつ焼を頂いていたところで誰も咎めはしないだろうけど。だが、匂いが制服に染みつくため教師陣から色々咎められることが多く、翔馬たちもここに来るのは部活休みや週末に限っていた。また、週明けの登校にはクリーニングに出すかそれが無理なら香水で誤魔化していた。


「ねえねえ、さっちゃんは今回二級車で出場するんでしょ?」


「うん、しかも今回MVアグスタだから、メンツを考えるともらったも同然だけどね」


 と、さっちゃんニンマリ。余程自信があるのだろう。


 翔馬がさっちゃんと呼んだのは広瀬紗智子 (ひろせ さちこ)という地元出身の農家の女の子。当時典型的なお下げ髪で庶民層の出身だが、校内に於いてはレーサー仲間という同志である。そして部内に於いて腕の良いレーサーの一人でもあった。主にミドルクラスを担当している模様。


 部内には翔馬と同じく殊勝でない理由で当校に通っている生徒は少なくない。


 尚、MVアグスタも当時レースを何度も席巻していたイタリアの名門メーカーの一つで、50年及び51年にはグループS及びXでダブルタイトル&マン島ダブル制覇も達成しており、今尚侮れない。


 しかし、活躍の中心はグループE(500㏄)及びD(350㏄)といったミドルクラスであった。それにしても、多くの人はクルマどころかバイクさえも持っていない中、高度成長期前夜でまだまだ生活も苦しかった時代にMVアグスタの名が出てくるとか、その会話は尋常ではなかった。


「それよりそろそろもつ焼けるわよ。もたもたしてると脂落ちすぎて美味しくなくなっちゃう」


「こっちもレース同様モタモタできないってね、ハハハ」


 一同もつの焼けるタイミングとレースに掛け合わせてつい笑いがこぼれる。


 プリプリに焼けたもつをご飯と一緒に口に運んで舌鼓。サイダーを一口ぐいっとやると会話は更に弾む。


「翔ちゃんは特級車で出場するんでしょ?」


「ええ。乗れるのが私しかいないし。今回ビュガティもセッティング決まってるから、勿論獲りにいくわ」


 何と、翔馬は1000㏄クラスの特級車で出場するのだ。先程の会話にもあったように乗るのはフランスが誇る名門、ビュガティ。ビュガティは750㏄のグループSが主戦場なのだが、グループXにもエントリーしており、52年にはSとXのダブルタイトル&マン島制覇を達成している。


 翔馬が乗るのはその52年型ビュガティなのであった。栄光のマシンで草レースに出場するのである。


 


 それにしても、何でミッションスクールにこんなにもスゴイマシンが揃っているのか。その理由は、母体がイエズス会だからであり、キリスト教徒は世界の人口の約1/3を占めていることからも分かるように世界有数の資金力を誇る組織でもある。


 それ故日本では当時手に入れるのも困難な最新マシンを入手することも容易かった訳で、翔馬にしても当時の世界の最先端に触れることができた経験は、後にプロのレーサーになる上でも大いに役立った。


「それにしても翔ちゃん度胸あるよね。一人特級車で出場だもん」


 翔ちゃんと親しみを込めて呼ぶ女の子はメカニックの山本晴夏 (やまもと はるか)。同じく地元農家出身で、機械に対する天性の才能と同時に家の理解もあって当時まだ貴重だった農業機械の整備や修理を手伝うこともあった。そして修道女にて機械好きが高じて二輪部に入りメカニックとなる。


 後にSSDワークスにてメカニックの一人となり世界中を転戦することに。


 


 と、ここでふと思い出したように翔馬は遠い目をしながら、


「そういえば私以外に特級車で出場する女子はいないのよねえ。面白いのに」


「そもそも広島どころか全国で特級車に乗る女子自体数えるほどもいるかどうかなんだってば」


 そう、現代でこそリッターなどの大型車に乗る女性は珍しくないが、それでも相対的には少なく、ましてやこの時代である。翔馬は数少ない女性の特級車ライダーであった。これは戦前旧制度の一級車に乗っていた母、静馬譲りだろう。無論そのことは校内はおろかレーサー仲間でも知らない者はいない。翔馬が所謂サラブレッドであることを。


 世界には無論、一級車及び特級車に該当するグループS及びXで活躍している女子選手が大勢いるのも事実なのだが、やはり相対的にはエントリーしている者は他のクラスと比べると少ない。平均して40台前後はエントリーしている中、この二つのクラスは大体25台前後である。


 しかし、翔馬が面白いというように、大排気量のバイクを巧みに操りながらのレースはボクシングのヘビー級のような面白さがあり見所も多い。




 一人当たり二人前のもつ焼きを平らげ、やがてお開きとなり全て翔馬の驕りである。元より資産家育ちもあるだろうが、気前の良い少女だった。次回に登場するメンバーの一人、嵯峨野雪代 (さがの ゆきよ)もこう証言している。


『あたしの家も京都では割と知られた家柄だけど、アイツの場合は住む世界が違うというか、カネに関してはホントに鷹揚だったなあ。お陰で助かったことも多かったけど、それを決してハナに掛けたりある種の弱みに付け込んだカードには絶対しなかったな。だから翔馬を嫌ってるヤツは後に世界を転戦するようになってからもまずいなかったと思う。何しろその振舞いが自然体だしな、ホントにあそこまで嫌味がないヤツなんて初めて見たよ』




 それから二週間後、中国ライダーズクラブ主催のレースが広島で開催となった。


 コースは行政関係者の協力を得る形で己斐峠を閉鎖して人工的に作られた一周約13キロの公道である。


 己斐駅の近くをスタートラインとし、山手川(後の太田川放水路)を東に見ながら三滝、そして山本川沿いに北上、左折して当時農村だった山本を走り途中から己斐峠に合流、峠を下りながら己斐駅近くに戻るという大半が山間部のハードコースで、一級車及び特級車は8周、合計104キロを走破しなければならない。


 まるでミニマン島といった趣である。とはいっても舗装されているのは己斐駅から三滝に入るまでの僅かな区間に過ぎず、あとは全てダートであった。


 因みに当時可部線は付け替え前で三滝駅が山手川西岸ではなく、安芸長束駅を出発するとすぐに左に曲がり川を渡って右に曲がる、緩いS字状の線路を通って東岸に出た直後にあった。




 レースは三日に渡って行われることになり、その前の予選は臨時のショートコースで実施された。既にSSDのマン島制覇宣言が世間に知られているせいか、何処からともなく屋台が出ており、コースとなる道路周辺は押すな押すなの大盛況。お好み焼きや焼きそばのソースが焦げる際に発生する独特の香りや、蒸饅頭特有の香り、その他焼鳥、りんご飴などの醤油味、甘味の香りが混じり合ってお祭り状態。


 更に土産物屋も当然の如く出店しており、後に漫才コンビB&Bが漫才ブームの際に関連番組などで盛んにネタにしたことで知名度が全国区となるもみじ饅頭も売られていた。


 それに釣られ何だなんだと更に人が押し寄せ大観衆となっていく。




 そして、今回のコースがマン島を意識していることは誰の目にも明らかであった。背後に宍戸重工の鶴の一声があったという説もあるのだが、宍戸重工はこれを否定しているものの、上述の宣言もあり影響が無関係だったとは思えない。


 何しろ普段はのんびりして世間など何処吹く風の広島県民なのだが、一旦何かの拍子に火が点くと、トコトンまでやろうとするのもまた広島気質だったりする。なので、宍戸重工がマン島制覇宣言をぶち上げてることだし、いっそのことマン島を意識したコースにしてやろうと主催者が考えたとしても不思議はない。




 アップダウンも激しく、山間部に入ると途中にはおよそ100m近く上る30度はあろうかという急坂もある。しかもその近くには墓地があるのが怖い。


 コースの近くには長束修練院もあり、今回のレースで全員の無事を修道士が主に祈るという。


 そして、安全確保のため今回は特別に早朝2時間にコース確認のための事前走行が許可されていた。これは、コース上に設けられたサインポストを確認する意味もある。何しろ公道の上にコースが長く、広範囲にクルーやコースマーシャルを配置せねばならない以上、事前確認は必須だと主催者は判断したのである。




 レース開催前日、前代未聞のレースになるだけに交通安全祈願で有名だった廿日市の速谷神社にて主催者及びレース関係者を中心に安全祈願と御祓いが行われ、そして神仏融合ということでコース近くの寺の僧侶や、更に今回長束修練院からも修道士が特別に駆け付け祈った。独自にお祈りもするものの、何しろ翔馬たちはミッションスクールの部活の名目で出場する以上、半ば当然と言える。


 余談だが、僧侶が今回の御祓いに駆け付けていたのは、普段の足としてバイクやスクーター、更に当時はまだまだ主力の座にいたモペットにお世話になっていた人が少なくなかったのも理由だという。ある意味これを機に感謝の気持ちを述べる意味もあったろう。


 


 尚、速谷神社は鎮座の年代は定かではないが、歴史自体は1700年余に及ぶ由緒ある神社で、嘗ては厳島神社よりも格式の高い神社だった。


 交通安全の神社となったのは、厳島神社、多家神社と共に山陽道を往来する旅人が長旅の平安を祈願したことに端を発しており、その由来が数多く残っている。


 祭神は飽速玉男命 (あきはやたまおのみこと)である。


 広島電鉄のバスや電車もここで御祓いを受けることで知られ、更に広島では車を買ったらここで御祓いを受けるのが半ば慣例となっており、このために遠方から来る広島県民も珍しくない。


 因みに宍戸重工も新車発表の際にはここで御祓いをしている。SSDの象徴である赤に彩られた数々の新車が御祓いを受ける光景は想像しただけでも壮観と言えよう。




 今回のために集った、全クラス総勢300台を超すバイクと、更にライダーがレース時の正装とも言えるツナギやヘルメットなどのフル装備姿で御祓いを受ける様子は圧巻で、翌日に地元新聞のトップに掲載された他、ニュース映画として全国にも報道された。




 レース初日、スタート地点近くに設けられた天幕のガレージでは各々最終調整に大忙しである。無論、修道女二輪部の名目で参戦する翔馬たちのガレージも喧噪に包まれていた。今回修道女は初日開催の五級車(125㏄)、四級車(250㏄)、二日目の二級車(500㏄)、三日目の特級車(1000㏄以上)に出場することになっていた。


 部活レベルでは大学チームや所謂隠れワークスである有力プライベーターには敵わないことが多いのだが、修道女二輪部は例外で、今回も台風の目となっており注目度は高い。


 修道女二輪部のピットを撮影する客も多く、翔馬たちは子供と一緒に記念撮影などのサービスにも勤しむ。これは二輪に対するイメージアップの一環でもあった。


 しかし、影でカミナリ族紛いのことをしていてイメージアップも何もないと思うのだが。将来彼女たちと記念撮影した子供が長じて誤った方向に奔らないことを祈らんばかりだ。


 


 今回翔馬が乗るビュガティはフレンチブルーに金と白の躍動的なラインを配したカウルを纏い、今のところピットの奥で出番を待っていた。既にセッティングも手を加える場所はないと判断しており、所謂即納状態である。尚、日本に来た時は前輪まで被うダストビンカウルだったが、悪路の多い日本では前輪に埃や泥、砂が詰まって故障の原因になりかねないことから前輪を露出させたタイプに変更、それでもビュガティならではの美しさは損なわれていなかった。


 五級、四級にはヤマハを中心にした国産車が出場するのだが、二級にはMVアグスタの他ドゥカティも出場するなど、部活とは思えないレベルである。


 ピットの奥では今回に合わせコーディネートしたカジタニの青のライディングギアと、レモンイエローという黄色地に黒で躍動的なラインと、側面にチェッカーフラッグをモチーフにした市松模様のバンドを配したAGVヘルメットもスタンバイしていた。ヘルメットのデザインはかのウェイン・レイニーをイメージしていただきたい。


 因みにレモンイエローなのは、広島が実はレモンの日本一の産地で全国シェアの実に半分近くを占めていることを意識しているという。あと、広島に於いてレモンの栽培は明治後半頃から始まっており、栽培の歴史は意外と古い。




 翔馬は今のところやることがないので案の定というか屋台をハシゴしていた。無論、ピットクルーなどに振舞う焼き鳥や饅頭なども懐に大量に購入している。


 当時、たこ焼きと並ぶ屋台の定番と言えるイカ焼きはまだデビュー間もない食べ物だったのだが、翔馬は案の定口に咥え込んでいた。尚、当人は胴よりゲソが好きだという。


「そろそろ戻るかな」


 ロメックスの時計を見遣ると、間もなく9時。最初のレースであるスクータークラスが始まる。スクーターは修道女からは出場していないが、所謂一般参加枠で自身の所有するスクーターで参戦する人が多く、勝ち負けよりレースそのものを楽しみにしている人が多かった。


 無論各メーカーの関係者が観衆を装って多数来ており、今回自社の製品が何処まで耐えられるのか実戦の場で見られるだけあり、よく見ると一際真剣な目で見ていることから一般の観衆とはそれとなしに区別がついたりする。


 因みに翔馬の時計はロメックスだが、無論ロレックスも存在している。




 翔馬が土産をどっさり買い込んでピットに戻ってくると、最初のレースであるスクータークラスがスタートを間もなくに控えていて、周囲に爆音を撒き散らしていた。


 今回出場するスクータークラスは何と60台余り。国産からベスパ、更にMVアグスタのスクーターまでいる。それにしても、いるところにはいるものだと思わざるをえない。


 当時はスクーターもサラリーマンに決して手の届かない額ではなかったものの、やはり高価には違いなく、万一故障や事故などで廃車になるリスクがあることを考えると一般枠とはいえ多少なりとも家計に余裕のある参加者ばかりなのは明らかと言える。




 スクーターとはいえ、スタートが刻一刻と近付くにつれ参加者の顔から笑顔は消え去り真剣味を帯び、更に周囲の空気も徐々に緊張感が高まる。そう、スクーターと言えどもこれはレースなのだ。


 同時に侮ってはいけない。戦後間もない頃、スクーターレースも欧州で盛んに開催されている上、後に世界的なレーサーとなる者の参戦も珍しくなかった。




 一日目はスクーターの後、新設の六級車(50㏄)、五級車、四級車のレースが控えており、いずれも国内外問わず力を入れているクラスであり、それだけに激戦区でもあった。


 それもその筈で、二輪ではクルマで言えば大衆車クラスにあたっており、主力の売れ筋だけに当然メーカーにとっても関心は否応なしに高まる。


 尚、今回のレースでスクーター、六級車は二周、五級車、四級車は三周することになっていた。


「さあ、どんな戦いになるのかしらね」


 スクーターというとコミカルなイメージが浮かんでしまうが、翔馬たちレース関係者は当然無関心ではなく、先のレースを占う上で重要視していた。何より、レースの様子を見ることで自身のモチベーションを高める意味合いもある。


 レースを見て血が騒ぐのはやはりレーサーの性 (サガ)というべきか。


 臨時で設置された大時計の針は、スタート1分前を意味する8時59分を指していた。同時にスタート1分前を知らせる放送と共に関係者はコースから退去。


 それにしても、1分前に退去というあたりが時代というかのんびりしているというか。


 徐々にスタート時刻が近づくにつれ私語も殆ど聞こえなくなり、針一本落ちてもその音が聞こえそうな程に空気が張り詰め緊張感が高まる。


 


 そして 、大時計の針が9時を指した瞬間、競技委員長によりグリーンフラッグが振られ、爆音を上げながら60台余のスクーターが一斉に飛び出していく……


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