第7話 スカウト1 五島紗代

 長崎県長崎市。鎖国してからは世界との唯一の窓口であり、明治に入ってからもその重要性は変わらず貿易拠点の一つとして発展を続けた。


 


 また、近代化の過程で佐世保に鎮守府が置かれると同時に海軍工廠と三菱長崎造船所などの機械産業が進出したことで長崎は日本にとって軍事及び産業の重要拠点の一つともなる。戦艦大和の姉妹艦である武蔵が建造されたのもここであった。


 


 尚、大和が呉海軍工廠のドックで建造されたのに対し、武蔵は三菱重工にて船台での建造であったため、構造上の問題もあって建造にあたっては大変な難工事を数多くこなさなければならなかった。恐らくこの辺りが船台で建造できる限界であろう。何しろ船台でさえ熟練工でも建造は困難を極めた。


 因みに船台で建造された最大級の船は豪華客船クイーンメリーで進水重量約38000t、武蔵は約35000tで第二位。


 余談ながらクイーンメリーと同クラスで今尚最も美しい客船の一つとして神格化されているノルマンディーでは進水重量約28000tであった。


 


 進水式は船台から対岸までの距離が狭いことなどもあって多くの懸念が予想されたために慎重に慎重を期して何重もの対策が施され無事に進水した時には関係者は感無量だったのだが、一方で予想外の高波が発生し、対岸の周辺民家で一部床上浸水が発生した他、ドブの水位が30㎝以上も上昇したなど巨大戦艦の進水式ならではのエピソードは枚挙に暇がない。


 因みに進水式の映像は終戦時に処分され現存していないという。




 長崎は鎖国時代から西洋文化に触れてきた影響か、異国情緒が漂い、坂の街であることも相俟って何処か日本離れした雰囲気が漂う。


 


 そんな長崎は坂の街だけあり自転車は少なく、オート三輪や二輪車が実用のアシとして早くから普及し、戦後SSDが補助エンジン付自転車、所謂モペットの製造を始めた時、長崎が九州地区で最も販売台数が多かったのも故の無いことではなかった。


 また、自転車屋を名乗る店の大半が自転車を販売していないことが多いのも坂の街であるが所以である。ある意味長崎は自転車にとって受難の地と言えなくもない。


 


 ホンダなどモペットの生産は当時浜松に集中していたのだが、長崎からだと如何せん距離が遠く、その点広島で手に入ることは販売及び整備に伴う部品調達などの観点からも九州の自転車屋にとっては距離が近い分輸送費が安くなるのでその分割安で手に入るなどSSDは好都合な存在だった。


 SSDのモペットは自転車のフォークに強化ブレースが取り付けられ、出力もホンダより若干大きいことや故障の少なさなどから評判は上々であった模様。




 本来なら坂の街であることを考えると二輪やオート三輪が主力になって然るべきだが、戦後の窮乏期、資材の制約もあってまだ生産台数が少なく高価だったために購入できる者は限られ、さりとて自転車はやはりキツい。止むを得ない妥協であった。


 しかし、そんな中で復興が進むのに伴いモペットが逸早く減少を始めたのも長崎である。また、原爆の遺産や遺構などの継承を優先した広島とは対照的に、復興を最優先とした長崎の方針も淘汰を後押ししたと言える。


 あの戦争から五年が経過する頃になると、モペットに替わり二輪やオート三輪の姿が徐々に散見され始めた。その光景に復興が着実に進みつつあることを感じ取った住民も少なくない。


 


 余談だが、広島に本社を置く企業の進出先として九州は成功しやすく、また九州に本社を置く企業も広島は他の都道府県の企業にとって鬼門と言われることもある中、比較的進出成功例は多いようで、広島と九州の相性は意外と良好な模様。


 実はSSDも戦前から九州に直営店を進出させていた。




 長崎は日本で最も多くの島嶼を抱え、リアス式海岸や対馬暖流及び九州沿岸流が交錯するなど水産資源にとって好条件を備えていることから実は水揚げ量で北海道に次ぐ第二位であり、日本有数の漁業県でもあった。


 


 そんな長崎市の乾物商の店で働く少女。




「お~い、紗代。この海苔をいつもの所へ納めに行っておくれ」


「は~い」


 店を切り盛りする祖母の呼びかけに愛想の良い返事と共に荷台に海苔を詰めた木箱を括り付けた店のバイクに飛び乗り、颯爽とお得意先に向かう紗代と呼ばれた少女の名は、五島紗代 (ごとう さよ)。


 肩まで伸びたセミロングの黒髪にキリリとした顔立ち。店の看板娘で当時14歳。




 快活で笑顔を絶やさない、そこにいるだけで太陽のような存在の紗代であるが、実は壮絶な過去の持主でもある。


 紗代はこの時既に両親を亡くしており、戦後、乾物商を営む祖父母に育てられた。


 


 あの日、昭和20年8月9日午前11時2分———―




 長崎浦上地区に住んでいた紗代は、度重なる空襲警報に母から決して防空壕から出るなと言われ待機していた。父は紗代が産まれて程なく出征し、その時母が身籠っていた二人目は死産。結果紗代が唯一の子供となる。父は中国戦線から後南方戦線に転戦後、戦死した。


 防空壕から出るなと言われた後、一人外に出ていく母。それが今生の別れとなってしまった。この時まだ8歳。


 


 防空壕は爆心地から約1㎞しか離れてなかったものの、自宅庭に掘られた防空壕は比較的深く、最奥はやや右に奥まっていて直線状ではなかったこと、防空壕入り口には隣家があったこと、入り口は閉じていたことなどが幸いして初期放射能や爆風及び熱風の直撃を免れる格好となり、紗代自身は無傷で済んだ。


 しかし、ドーンという衝撃音は凄まじく、子供心には当然恐怖だし、地震が来たかのように揺れ防空壕内の天井部分の砂や土、木片などがパラパラと落ち、そして破片などが多数飛び散るような、何かが次々と破壊されていくような音を紗代は今も覚えており、もう母とは会えないかもしれないとあの時思ったという。それは不幸にも現実となってしまった。




 その後、一体どうなってしまったのか分からぬまま紗代は寝てしまったのか、救護に来た兵士によって発見され救援列車に乗せられて沿線の病院に収容されそこで頂いた白米のむすびが美味しかったことを覚えている。


 発見されて起こされた時、朝のような感じだったのでそんなに時間は経っていないと当人は思っていたものの、収容先で8月11日であることを知り、実は丸二日防空壕で過ごしていたことになる。また、この間街並みがすっかり消えていたことや黒焦げの死体が散乱する光景に言葉も出なかったという。


 言葉も出なかったのは、悲惨な光景にある種の正常性バイアスが働き感情がマヒしていたのだろう。




 尚、二発目の原爆を搭載したB-29一行は当初第一目標を福岡県小倉市(現北九州市)に定めていた。しかし、日本側はこの時広島に投下された原爆の情報を知ったことや、更に飛行中のB-29の通信記録は埼玉県の大和田通信所で傍受され、すぐさま西部軍管区に転送されたこと、更に敵機襲来に空襲警報が鳴り響いたことで前日に八幡市が空襲されていたこともあり八幡製鉄所の従業員がすぐさま警戒態勢に入って空襲を妨害するため(これまで八幡製鉄所は執拗に空襲を受けている。尚、被害自体は奇跡的に皆無に近くそのまま終戦を迎える)、上司の命令により煙幕装置に点火しコールタールを燃やして煙幕を張った他、八幡空襲の残煙や靄の影響で小倉上空の視界は悪く、原爆投下にあたってはレーダー爆撃ではなく有視界による目標視認が厳守されていたこと、三度爆撃を試みるも上空は晴れず、その上高射砲の激しい迎撃で機体が揺さぶられ、通信傍受を受け各飛行場から迎撃機が緊急発進してきたことを掴んで帰還燃料などの問題もあり小倉爆撃は断念され、最終的に長崎市浦上地区へ雲の切れ間から目標が辛うじて見えたので大急ぎで投下した結果の大惨事であった。




 発生したキノコ雲は爆心地から100キロ離れた熊本県熊本市で目撃証言があり、200キロ離れた大分県中津市でも長崎方面からキノコ雲が立ち上るのが見えたという証言がある。


 


 長崎市は全国的にも珍しいすり鉢状の地形であったため周囲の山などが爆風を遮った上、中心部は浦上地区から3キロ近く離れていたのもあり遮蔽物のない湾岸地域を除いて被害自体は軽微で行政機能も全滅を免れた。




 尚、もしも予定通り小倉に投下されていた場合、小倉から先は僅か1㎞足らずの関門海峡を挟んで遮蔽物がないため爆風及び熱風が下関にまで及んでいたのは確実で、ファットマンの威力は先に投下されたリトルボーイの1.5倍にも達していたことを考えると、最悪の場合40万人が犠牲になっていただろうと言われている。




 あの日、自宅も跡形もなく吹き飛び何もかも失って戦災孤児となってしまった紗代は当初実家が爆心地から近かったことなどもあり死んだと思われていたのだが、奇跡的にたった一人生き残っていることが判明し、父方の祖父母が引き取ったのである。


 祖父母の実家である乾物商はこの一帯では江戸時代から続く老舗、所謂大店で、更に干物や鮮魚など手広く扱い、夜は売れ残った鮮魚で安価な小料理や定食を提供する店を一家で切り盛りしていて大繁盛していたことなどから紗代は自分の家族を失ったこと以外何不自由なく育てられ、また叔父と叔母も我が子同然に可愛がったし、従兄妹との仲も良好だった。


 三人いた従兄妹の内、紗代より三つ上だった次男は地元の工業高校卒業後、宍戸重工へ入社。精密部門に配属されタービン製造などでマン島制覇へ間接的に貢献することになる。




 立て込む坂道を砂埃を上げながら縫うように走る紗代。配達とはいえ、紗代にとって風を切るこの時間が何よりも至福の時であった。そのライディングは見事なものである。


 得意先の一つである料亭に海苔を納品して戻って来た紗代は、これが今日の最後の仕事なのもありヘルメットを脱いで髪を靡かせながら店の隣にある離れ兼ガレージに向かう。その途中で祖父と視線が合った。


「紗代、もしかしてまたレースかいな?」


「ええ、来週に近くでレースがあるからね。マシンの調整ももう少しで終わりそうだし、店の手伝いには間に合うから安心して」


「そうゆう問題じゃのうて、紗代もそろそろ考えるべきなんじゃないかのう」


 つまり、まだ14歳なのにそろそろ結婚を意識しろと言っているのである。


「まだ早いとね。それに、今は単車コロがすのが一番の楽しみだし」


 紗代は14歳にして九州ライダーズクラブに所属しており、主に一級車(750㏄)で活躍していた。男子顔負けのライディングで勝利したこともザラにある。因みに戦前一級車扱いだった1000㏄クラスは特級車となっていた。


 


 そんな紗代に半ば呆れつつも、祖父母は趣味について黙認していた。因みにマシンは祖父から受け継いだもので、誰も興味を示さない中にあって紗代が唯一興味を示したので譲渡したのがレースキャリアの始まりである。


「残るはキャブの微調整と、プラグを高熱価仕様に交換すれば終わりね」


 最終セッティングを終え、エンジンを始動してその音に御満悦の紗代。しかし、周辺の者にとっては当然単なる爆音でしかない。


 その後は夜に開店する食堂でお手伝い。こちらでも看板娘で仕事帰りの労働者を相手に大忙しであった。




 翌週、九州ライダーズクラブ主催のレースが始まる。今回は長崎の開催であり、特に紗代を含む長崎組は前回福岡での開催で負けていたことから地元なのもあり気合が入っていた。


 長崎の山間部を走り抜けるダートコースであるが、というよりこの時代、日本の道路事情は頗る悪く、国道でさえ舗装率は15%にも満たなかったという。このためレースは一部特別なケースを除きダートが必然となる。


 レースの舞台は当時主に行政から許可を得て山道を閉鎖したり、河川敷、或いは時に山林地主に許可を得て私道で行われることもあった。


 娯楽に飢えていた当時、二輪レースは手軽に行えるのもあって喜んで土地を貸していた地主も少なくなく、客集めをしてそれなりに収入を得ていたケースも多かったようである。


 内容こそ草レースであったが、時にメーカーが有力チームやプライベーターを密かに支援していて、所謂プライベーターの名を借りたワークスが出場することもあり、そのレベルは公認レースと遜色なかった。


 二輪はレースでの成績が売り上げに直結していたため、例え草レースと言えども格好の宣伝の機会をメーカーが見逃す筈もない。


 


 今だったら一般道でこんなことをしていたら当然大問題となるが、上述したように当時は娯楽に飢えていたことや、こうしたレースでの技術力の向上が復興の一助になると考え犯罪行為などの一線を越えなければ半ば黙認状態であったなど、実に大らかな時代でもあった。


 レースの開催は事前に告知されていたため、開催日は地元の菓子店や飲食店などが出張することもあり、便乗商売で儲けるなどしてそれなりに経済効果があったのも黙認されていた理由と言える。


 言わば互いの暗黙の了解によってこうしたレースが成立していたのだ。




 さて、最軽量の五級車、即ち125㏄クラスから始まったレースは二日目を迎え、二級車、一級車、特級車の出番となる。しかし、平均して30台近くが出場する三級車(500㏄)以下と異なり出走は平均15~20台程度と少ない。


 午前に三級車のレースと表彰式が終わり、昼を経て午後一番、紗代が出場する一級車のレースが始まる。ここまで長崎勢は五級(125㏄)と三級(350㏄)で勝利しており、三級では表彰台も独占。もう一つ勝てば全クラスの半分を制したことになるので地元開催の面目も保てると、紗代以下出走する地元勢3台には無言のプレッシャーが掛かる。


 


 一級車は山道を閉鎖した一周約5キロのコースを12周する、走行距離60キロと草レースとしてはハードな内容である。




 紗代はこの時出走する17台でただ一人アルミ製のカウルを装着していた。戦前から海外では一部カウルを装着するケースが既に散見されており、主に速度記録挑戦車から始まり、紗代たちがレースに出る頃になるとヨーロッパではほぼ当たり前になっていた。


 海外の写真を参考に近所の修理工場の助力を得て製作し、但しダートでは前輪部分に詰まることなどから完全に蔽うタイプではなく現代風の前輪のみを露出するタイプにしていた。更に、ドラムブレーキではなくディスクブレーキに換装していた。こちらもヨーロッパで既に採用が始まり主流になりつつあった。


 当時これらのメリットはまだ日本ではあまり認識されていなかった中にあって、紗代は早くから武器として導入していたのである。


 特にカウルは風が直接当たらないため、疲れがかなり軽減されることにも気付いていた。


 その上紗代の外見上の特徴として、当時採用が始まったばかりのフルフェイスヘルメットを被っていた。アメリカのベル社製で、ハーフ、或いはジェット型ヘルメットにゴーグルが主流だった当時にあって目立ちまくりなのは言うまでもない。


 紗代はフルフェイスヘルメットのメリットにも逸早く気付いていて、安全性は無論、風が直接顔に当たらないのでカウルの相乗効果もあり疲労が大幅に軽減されるのだ。女性である紗代にとってこのメリットは小さくない。デメリットは従来のヘルメットに比べやや重いのと視界が若干狭まることだが、デメリットを差し引いても尚メリットの方が大であった。


 因みに当時フルフェイスヘルメットはアメリカのベルに続いてイタリアのAGV、フランスのGPAが生産を始めており、極めて高価だったせいかプロレーサーの間でもまだ普及途上だが、これから従来型に代わって普及していくだろうと紗代は考えていたようである。


 


 余談だが、当時主流だった前輪までスッポリ蔽うカウルはダストビンカウルと言い、空力向上には有効だったものの横風に弱く事故が相次いだため1957年には早くも禁止となり、前輪を露出させたタイプしか認められなくなった。


 自転車競技でも空力向上のため車輪にホイールカバーを装着することはよくあるが、後輪のみにしか認められていないのは、前輪に装着すると横風によってハンドルを取られるためで、前輪にトラブルが生じるのは二輪では致命的であり、後輪も影響はあるが制御可能なのであまり問題にならないのである。


 バイクにしても自転車にしても、横風が車輪を通り抜けるようにして安全性を確保しているのだ。




 そしてレースが始まった。予選の結果により二列目からスタートした紗代はスタートダッシュを決め1コーナーへトップで進入、一級車唯一の女性ライダーがトップを奪ったことに見物客は当然大騒ぎ。


(よっしゃ、トップに出ればこっちのもの。このレースもらったあっ!!)


 フルフェイスの内側でにんまり笑っているであろうことを想像する紗代。 実は今回自信があった。トップに出てしまえば勝てると。従って、今回のレースで最大の問題は、スタートから1コーナーへトップで進入できるかどうかに掛かっていた。何しろ地元なのでコースのことは知り尽くしている。


 


 カウルによる空力効果でトップスピードが増しているのと、コントローラブルなディスクブレーキの相乗効果で、パワースライドを掛けつつカウンターを当て足を投げ出すダートスタイルながらコーナー毎に後続を引き離していく。


 紗代に追いつこうと焦ったライダーの中にはペースを上げ過ぎてトラブルで脱落したり、コントロールを失って転倒する者もいた。


 


 紗代はスタートからトップに立つと終始安定した走りで一度もトップを譲ることなく12周を走り切ってチェッカーを受けた。見事としか言いようのない勝利であった。


 後に世界を席巻することになる彼女たちのライディングは、このダートレースで鍛え上げられた賜物であり、電子デバイスが殆ど介入していなかった当時の大排気量クラスの荒々しいパワーを制御するのに必要な技術が集約されていたと言える。




 この後表彰されて賞金2万円と副賞として地元菓子店の饅頭を受け取る。草レースであることと大卒初任給が約1万円の当時、結構な額だ。尚、副賞はこの後勝利者によって敵味方関係なく参加者全員で分け合い次の健闘を讃え合うのが慣例となっていた。




 その様子を傍らで見ていた女性がいた。そう、久恵夫人である。元より企業間などのコネを利用して全国に張り巡らせた情報網から紗代についての噂は聞いており、SSDに乗るライダー候補にリストアップしていたのだが、彼女の腕前を改めて確かめたのであった。


「私の見立てに狂いはなかったわ」




 翌日、早速久恵は紗代の実家を訪ね、訝る面々を前にSSDの名刺とスカウト話を持ち出した。紗代も女性ライダーとして戦前姉と共に活躍していた久恵のことは当然知らない筈もなく、SSDのワークスレーサーとして活躍出来ることを勿論断る理由もない。


 祖父母も叔父叔母もプロのレーサーとなることに賛成してくれた。




 三日後、長崎駅にはSSDのワークスレーサーとなるため広島へと向かう車上の人となった紗代の姿があった。一家総出で紗代を見送る。


 やがて、蒸気機関車の汽笛が別れと新たな門出を告げるかの如く駅に鳴り響き、同時に動輪の重々しい金属音が線路に軋んで列車がゆっくり動き始めると、笑顔だった紗代の瞳に薄らと涙が浮かぶ。


「暫くの間お別れね、我が故郷長崎よ」


 珍しくセンチメンタルに浸る紗代だが、それは、期待と不安が綯交ぜになった感情に他ならない。


 


 昭和26年。五島紗代、旅立ちの刻 (とき) である……



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