第6話 希望の旅路

マン島制覇宣言公布から、一年が過ぎた昭和26年(1951年)。




 朝鮮特需の影で密かに進行していたのだが、当然すぐさまマン島なんて訳にいく程現実は甘くはない。


 


 しかしSSDは戦前に設立されたのもあり、大正時代の終わり頃から数少ない国産車としてレースに出場していたのでその頃のノウハウを受け継ぐ古参技術者がいたのも幸いしてレースではどんな仕様にしていくべきかといった大よそのアウトラインは固まりつつあった。


 特筆すべきこととして、SSDでは戦前にBMWが世界で初めて採用し、後に一般的となるテレスコピックフォークを国産車でいち早く採用していた。当時レースでは当たり前になりつつあったが市販車ではまだ世界的にも採用例が少なく、最先端と言っていい。


 


 一方で参考に海外からレース仕様車を数台輸入した。その内の一台が、1948年にGPレースとしての体裁が固まって最初の年にマン島グループDを制した名車、イギリスのベロセット。主に350㏄クラスで活躍していた。


 既にこの頃にはアルミ製の特製のカウルが装着されており、これだけを見ても技術力の差を感じずにはいられない。


 因みに二輪レースで激戦区なのが50、125、250、そして350㏄クラスであり、クルマで言えば大衆車クラスにあたるため日本を含む多くのメーカーが力を入れていた。また、軽量級が多い日本人にとっても馴染みやすいのか、戦前からこのクラスにエントリーが集中している。




 350㏄クラスでさえコレかよと彼我の技術力の差を思い知らされずにはいられない中、SSDがエントリーしようとしている重量級の750㏄クラスと1000㏄クラスのレーシングマシンを備に観察する技術陣。


 一台はグループSこと750㏄クラスを制したフランスのビュガティ。もう一台はグループXこと1000㏄クラスを制したイタリアのロメックスである。


 


 ビュガティは20世紀初頭にイタリア系フランス人が創設した老舗で、ほぼ同時期に設立された同じくイタリア系フランス人の創設による、後に自動車の芸術品とまで賞賛されることになるブガッティと懇意にしていたことから同じ馬蹄マークをエンブレムに採用している。また、ブガッティが自社と似たようなエンブレムを使用することを許諾した唯一の例だという。


 フレンチブルーのカウルの下には軽合金製6気筒エンジンを採用しており、フロントのダブルディスクブレーキやテレスコ式フロントフォーク、スイングアーム式のツインショックリアサスは当時時代の先を行っていた。


 フレームには角形のアルミ製ツインチューブ方式が採用されており、後に多くのメーカーがこれを模倣している。


 1949年マン島グループSを制したのも頷ける。また、1950年のマン島も制した。




 そしてもう一台、イタリアのロメックスのマシンは更なる驚きに満ちていた。


 前身は19世紀後半に創設されたスイスに本社のある高級時計メーカー『ロメックス』であり、20世紀初頭に精密加工技術を生かして二輪へと進出。二輪部門はイタリアに本社が置かれた。


 ロメックスは英文字にするとROMEX=ローマX、即ち未知へと向かって進む、つまり我がイタリアはレースで常に先頭を走るという意味合いが込められてもいる。 


 後には高級時計メーカーを母体にしていること、その名声と生産数の少なさ、そして高価なことから二輪のフェラーリと呼ばれることに。




 最大の特徴は、カウルの下に隠れているトラス構造状のトレリスフレームで、製作にコストと手間が嵩む欠点がある反面軽量で剛性が高く、更にエンジン自体も構造材として利用できるためコンパクトに纏められるメリットがあり、実際ロメックスのマシンは6気筒1000㏄のエンジンを搭載している割にコンパクトである。


 しかし、コンピューターがまだ設計に導入されてなかった当時、トレリスフレームで剛性とコンパクトさ、そして軽量を兼ねるには高度な技術とノウハウが要求され、そう簡単にマネできるものではなかった。


 


 エンジンも凄く、イタリア特有の磨き抜かれ銀色に輝く軽合金ブロックと、ロメックス最大の特徴であるデスモドロミック、即ち強制開閉バルブは時計メーカーを前身とするだけあって精緻の極みであり、技術陣は圧倒される他なかった。


 因みに強制開閉バルブとは、通常バルブの開閉にはスプリングを用いるのだが、それを用いずカムシャフトとロッカーアームのみで開閉を行う仕組みで、バルブスプリングが高回転化についていけなくなることで発生する一連の問題を回避できるメリットがあった。


 実はSSDでも戦前に試したことがあり有効性を確認するも、製造コストは無論、整備コストも高く、更に当時修理できる技術を持った工場や整備士が全国に殆どなかったことから試作のみに終わっている。


 余談ながら、複雑な構造にも関わらず当時の日本の水準を考えると作動そのものは確実で、信頼性も高かったという。SSDの技術力の高さが窺い知れるエピソードと言えよう。




 サスペンションも特徴的で、リアにはスイングアームとモノショックを組み合わせコンパクトに纏められていた。当時モノショックを採用していたのはロメックスのみだったという。


 しかし、採用が始まったばかりなのもあり、まだツインショックかモノショックかの結論は出ていない時代で、ロメックスでも発展期特有の試行錯誤の形跡も窺えた。


 が、SSDの技術陣はモノショックを採用することにした。




 どちらも鮮やかなスポンサーカラーに彩られており、当時まだ国別のナショナルカラーが主流だった中にあってインパクトは絶大で、特にロメックスのマルティニカラーは大胆さでも目を惹いた。イタリアらしいセンスというか、トップチームなのもあって一層強そうに見えてしまう。


 


 因みにマルティニはイタリアの大手洋酒メーカーで、元々ロメックスから出場していたライダーの一人がマルティニ株を所有していて個人スポンサーとして応援したのが切っ掛けでロメックスが優秀な成績を収めていることから大々的に支援を決め、その結果1950年からロメックスはナショナルカラーが主流の中にあってダイタンにも白地へ紺地に水色と赤を配したマルティニストライプとロゴマークを配したスポンサーカラーとなる。


 


 ビュガティのメインスポンサーはル・ノルマンディーという食品及び洋酒メーカーで、その名の通りノルマンディー地方に本社のあるフランスの大手であり、レストランやホテルなど観光産業も経営していてビュガティと契約しているライダーの一人が社長の娘と友人のためだという。


 


 因みにフランスと言えばワインが非常に名高いが、ノルマンディー地方ではワインの原料となるブドウが育ちにくいため、リンゴを使ったアップルワインことシードル、そのシードルを蒸留し樽で熟成させたアップルブランデーことカルヴァドスが有名である。


 尚、規定に則ってノルマンディー地方で造られたものだけしかカルヴァドスと名乗ることは出来ない。それ以外は例え全く同じ条件下で製造してもアップルブランデーと呼ばれ区別される。


 そして、ノルマンディー地方はワインがないことを除けば何でもあると言われ、ブレス地方と並ぶ食通の地としても名高い。




 余談だが、ここまで大々的に応援してなくとも、レースの黎明期から企業或いは個人が特定のチームやレーサーを支援することに喜びを見出していたケースは少なくない。




 60年代に入る頃にはWMGPではスポンサーカラーが主流を占めるようになり、モータースポーツは走る広告塔となってしまい、ナショナルカラー特有の美しさは遠い過去のものとなってしまったと嘆く往時のファンもいたが、それに代わる美しいスポンサーカラーも少なくなかった。




 共通しているのはまだ空冷が主流だった中にあってグループS及びXを担う二台のエンジンは水冷であり、SSDでも高性能エンジン製作にあたり水冷化は避けられないとみていたのだが、それが間違ってなかったことを確認するのであった。




 それにしても、この時点で2年落ちとはいえこれ程の名車をどうやって輸入し得たのだろうか、宍戸重工恐るべし。


 また、WMGPでは既に型落ちのマシンであり当然のことながら現在のマシンには敵うべくもないのだが、その型落ちマシンとさえ現在のSSDとの技術力の差は歴然としていた。




 技術陣がマシン開発を始めたその頃、そのマシンに乗るライダー探しも始まった。


 


 だが、戦争はモータースポーツにも大きな影を落としていた。


 前の大戦と同じく今次大戦でもまた多くのレーサーやスポーツ選手が出征し、戻って来なかった。日本でも野球選手の沢村栄治やテニス選手の布井良助などの悲劇は知る人ぞ知る話である。


 その結果、レーサー不足から女子選手の募集も行われ、徐々に復興が始まったレースも男女別に行われていた。


 四輪は高価なことからまだレース自体限られているのと男女別に行うには莫大な経費が掛かることなどもあり、一方で二輪は比較的安価なことから女子選手も多く集まっており、モータースポーツの復興は二輪から始まっていた。


 余談だが、1948年に始まった二輪レースの最高峰WMGPに遅れること2年後の1950年には四輪レースの最高峰であるGPフォーミュラーを前身とするF1が始まっている。




 日本国内でも一部有志によって3年程前から草レースが各地で開催され、女子選手を中心に大盛況であった。


 2年前には公認レースが富士、浅間を中心に開催されるようになり、女子選手の大活躍によって復興に弾みをつけるかのように予想外の盛り上がりを見せた。このことが日本を含む二輪レースに於ける世界的な女子選手権の地位確立に繋がっていくことになる。


 また、メーカーとしても女性という新たなマーケットが開拓できることは悪い話ではないため、男子に劣らず女子選手権にも力を入れていった。女子が扱うということで男子では黙認されていた多くの問題点が徹底的に洗い出されることにもなり、それは結果として進化を早めたのと安全性向上にも貢献していくことになる。




 そして、SSDでも当初は男子選手のスカウトを予定していたものの、数少ない男子選手は既に他のメーカーに取られてしまっており、仕方なく女子選手を中心にスカウトすることに決めた。


 スカウトの中心となったのは仁八の妻である久恵夫人である。この年、産休から数年振りに技術者として復帰したばかりであった。


 各地に伝わる情報から、大よその目星はつけていたようで、久恵夫人は早速長崎へと向かった。当時はまだ新幹線もなく、漸く戦前並に復興した鉄道網で夜行列車を主とした全国行脚は決して楽ではなかった。




 それでも、マン島制覇に向けての長い旅路、希望に満ちた旅路の始まりに、夜行列車に乗り込む久恵夫人は一歩ずつでも進んでいるという確かな手応えを感じていた。


 

 

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