第5話 マン島制覇宣言!!

 復興を誓ってから5年が経過した、昭和25年(1950年)。


 


 この間、様々な出来事があった。


 GHQによる財閥解体、公職追放など、国体解体に等しい程の手入れを受け、一時は皇室廃止も検討されたが、共産主義の台頭により、日本がそれによってバラバラになればそれこそ共産主義陣営の思う壺だとして日本が共産側に取り込まれるのは問題が大きすぎることから最終的にそれは免れた。


 ギリギリの所で真の意味での国体解体は免れたと言える。しかし、現天皇に直接連なる系譜を除き、それ以外の皇族は皇籍離脱を受け容れざるをえなかった。


 だが、裕仁親王は、この先旧宮家となった者はいずれ皇族に復籍することを仄めかすような預言を遺されたという。


更に昭和25年には自衛隊の前身となる警察予備隊が発足し、日本は再軍備することになる。


 この時代、復興が本格化すると同時に世相は革命前夜ではないかと政界は危機感を募らせるなど、非常に不安定な時代でもあり、それが再軍備の背景であった。




 仁八の周囲でも、一時勤労学徒などを抱えていたこともあり最大で15000人に膨らんでいた宍戸重工に対してGHQによる調査が行われたが、ギリギリの所で財閥指定を免れた。創業以来官と適度な距離感を保っていたことで政商とは見做せないと判断されたのが幸いした。


 しかし、一部の工場及び機械類などは賠償指定となる。が、宍戸重工へのダメージは然程でもなかった。取り敢えず、最悪の事態は何とか免れたのである。




 色々と波乱はあったが、この5年間、決して悪いことばかりではなかった。


 終戦の翌月には長男徳一 (とくいち)が誕生し、昭和22年には次男博直 (ひろなお)、更に昭和24年には長女芳恵 (よしえ)が相次いで誕生した。子供がどれだけ生きる励みになったことか。


 寧ろ子供の存在があったからこそここまで何とか踏ん張れたとも言える。


 惜しむらくは、両親に孫の顔を見せてやれなかったことか。しかし、両親は天から孫の顔を見ているだろう。仁八はそう言い聞かせていた。


 


 一度は灰となった広島市も、まだ戦前の街並みには劣るものの次々と建物が建ち、復興は着実に進んでいた。そして、貧しいながらも誰もが明るい表情を見せている。


 娯楽を提供する店も増え、野球はカープの話題で持ち切りであり、賑わいの声だけはすっかり戦前並に戻った感があった。


 驚くべきことだが、投下から僅か2か月後には広島市にバラックながらもビヤホールが開店しているのだ。


 余談ながら、昭和25年の11月には広島で日本初の女子ボクシングも行われている。




 仁八も時折そのビヤホールに通いながら復興の足音を音楽代わりに聴いていた程で、この時の彼にとっては世界最高の楽団によるクラシックコンサートにも勝るコンサートだったに違いない。


 (さて、広島の復興に自分はどういう形で貢献すべきか……)


 ビヤホールから忙しない人々を見つめながら、仁八は思いを巡らせていた。これまでの5年間の日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。


 投下後、比較的軽微な損害で済んだ宍戸重工にも大勢被爆者が運び込まれ臨時救護所となり、更に一部行政機関が間借りし、東洋工業からオート三輪などの生産を分けてもらうなどして何とか食いつなぎ、更に財閥指定の可能性や自身を含む役員が公職追放となる可能性が取沙汰されGHQとの間を奔走したこともあった。


 その間に次々と子供も誕生し、東奔西走して気が付けばあっという間の5年でもあった。




 仁八は、再び遠い目をしながら考える。


 (取り敢えず、何とか焼野原も片付いたし、ここまで来たらあとはもう上るだけだ。広島は徐々に復活していくだろう。ならば我が社もそろそろ復興の段階を脱して次の目標を見つけねば。それも、全ての部門が一致団結して関われるようなものが望ましい。果たして何が最適だろうか)


 そう思いつつ、仁八も今一歩次のビジョンを描きあぐねていた。この5年間、とにかく宍戸重工の生き残りだけを考えて必死だったのだから仕方のないところもあるだろう。いや、日本全体がとにかく今日を食べていくため誰もが必死の5年間であった。


 だが、そろそろそうした段階を脱して次の段階に移行すべきだと仁八は感じていた。


 ビヤホールで勘定を済ませた後、何処へ寄るともなく自宅へ直帰する仁八。その傍を補助動力付自転車、所謂モペットやチンドン屋の賑やかな行列が通り過ぎていく。




 時は5月。産業界で大きな出来事と言えばトヨタでは大規模リストラに対する労働争議が発生し、その責任を取って豊田喜一郎が社長の座を降りた。この間、トヨタはやかんなどを作って糊口を凌いだとも伝えられ、そして倒産寸前であるという。後の世界のトヨタからは信じ難い話であったが、トヨタにもそういう時代があった。


 このニュースは世間では誰もが知るところとなり、産業界では世間一般以上に深刻に受け止められ、仁八にとっても他人事ではなかった。だからこそ次のビジョンを描こうと必死だったのである。


 尤も、それから僅か一か月後に朝鮮戦争が勃発し、朝鮮特需によってトヨタはその危機を免れることになるのだが。




 (戦前の水準にはまだ届かないが、食うことに事欠くのは減っていくだろう。食が満たされれば次に人が求めるのは娯楽であり、そして夢だ。今からもう布石を打っていかねばならない)


 だが、自宅への帰路でも考えてはみるがなかなか妙案は思い浮かばない。まあ言い換えればそれだけこの5年間必死だったことの裏返しでもあるのだが。




 そして、帰宅した仁八はふと地下室に下りた。少なくとも5年くらい入っていない。そこには父の遺品が未だ手付かずのままになっていた。父の遺産に他ならないのだが、あの日以降遺品整理の間もなかった程必死だったせいもあるだろう。だが、整理してしまうのは父の存在を否定するような気がして出来なかったというのが正解に近い。


 しかし、そんな封印が突然解けたかのように仁八は地下室へと歩を進めたのであった。寧ろ父によって誘導されたというべきだろうか。


 案の定というか、5年の封印を解いて扉を開けると黴臭く部屋は埃にまみれ、まともに息ができるようになるのに若干の時間を要した。そこには嘗て父が輸入購読していた洋書が重厚なクルミ材の本棚にぎっしりと並んでいる。


 


 その中で特に多かったのが二輪関連の書で、というのも父の趣味は何とツーリングであった。


 戦前、二輪車はまだ高嶺の花であったが、それでも華族や財閥、新興富裕層などを中心に各地でツーリングクラブが結成されて遠出や時にレースが開催され、日本に於ける二輪文化浸透及び二輪産業発展の礎となったのも事実である。


 中でも父が熱心に集めていたのはレース関連の書籍であった。一つを手に取って開いてみると、嘗ての懐かしい思い出が甦る。幼少期、父とこの地下室で朝から一緒に夢中になり、食事の時間に呼ばれるまで時間を忘れ、そして一日中読み耽っていたなんてことも珍しくなかった。それも今となっては懐かしい思い出だ。


「そう言えば、地下室の隣にはアレもあったんだよな」


 


 地下室の隣にはガレージがあり、そして同じく少なくとも5年振りに連なる扉を開けると、そこには父が愛したバイクの数々。ハーレー、インディアンの他、国産の陸王と大型車ばかり。更に見慣れぬバイクが。


 赤に塗られていたこともあって一際鮮やかに映える一台。それは、宍戸重工が生産しているブランド、SSDのサイドカーであった。実は、父の趣味が高じて宍戸重工に二輪部門が設けられたのは昭和初期。


 


 その前身は同郷のバイクメーカーとして名を馳せた宍戸オートバイ製作所であり、宍戸重工が自ら起ち上げたものではない。早くから世界的に遜色ないバイクを世に送り出していたことで世界に比肩する数少ない国産車として勇名を馳せていたものの、当時外国大手との資本力の差は如何ともし難く市場拡大は叶わず経営が悪化し、そこへ宍戸重工の社長だった当時の父がブランド買い取りと、引き続き二輪部門の責任者として創業者である宍戸兄弟に就任して欲しいという破格の条件を申し入れたのがSSD誕生の切っ掛けである。


 意外にも宍戸兄弟とは親戚ではなく同姓なのは全くの偶然であった。


 創業時から製品の名称はSSD号と呼ばれ、その名をブランド名へと昇格して軍部や官公庁などからの注文も取り付け現在に至っており、戦中、そして戦後も細々と生産は続けられていた。


 戦中にあって本来なら違法行為なのだが、残された部品で年数台が密かに製造されていたのである。まるで国産バイクの灯火を消すまいとするかのように。或いは企業の意地であろうか。


 


 しかし、戦争が終わって再び民需生産が解禁となるも現在のSSDの現状は優遇されているとは言い難く、宍戸重工の日陰的存在として存在感は薄かった。


 


 因みにSSDは戦前から国産では珍しく陸王と同じく大型車を主力としており、現在細々と生産しているのは戦前戦中と軍からの注文を受けて作っていた車両の部品のストックであり、今のところ新規生産はまだなく、その上戦後の窮乏で輸送力が逼迫していたせいもあって当時大いに流行った補助エンジン付き自転車、俗にいうモペットの生産に邁進せざるをえなかった。元はホンダのアイデアの派生であったが。


 


 余談ながらモペットの歴史は意外と古く、イギリスを中心にヨーロッパでも早くから見られた。元々バイクの歴史自体自転車に補助動力を設けるところから始まっているのだ。


 この時期、SSDでは東洋工業からオート三輪の生産を分けてもらっていた他、余った航空機用部品を活用して早くから小型スクーターも生産している。が、当時は非常に高価だったため購入者は限られるという経営の現実の前に暫くの間モペットで食いつなぐしかなかった。


 だが、大卒公務員の初任給が当時6500円だった時代、2万円は決して安くない。それでもスクーターが10万円もしたことを考えればまだ安価ではあったのだが。


 


 SSDのモペットはホンダと並んで早くから評判を呼び、元が軍に納めていた発電用エンジンのストック、所謂廃物利用なのもあって価格はそれでも抑えられていたこと、構造が単純なため生産自体も容易なこと、更に自転車への後付けキットも販売していたので(自分で取り付ける場合は半値で買えた)、広島中、更に九州などからも注文が殺到し、進駐軍の将兵も手軽な足として利用していたなど、SSDの生産ラインは一時休日返上でフル稼働せざるをえない程だった。それでも大型車を主力としているSSDの、古参の関係者にしてみればモペットだなんてと不本意な思いもあったろう。


 


 だが、これによって戦後間もなく一時撤退も検討された宍戸重工の二輪部門が虫の息から息を吹き返し生き延びたのも事実であった。また、宍戸重工の経営に一定の貢献を果たしたのも確かである。


 もしもこの時モペットの注文殺到がなかったら、後のSSDの栄光はなかっただろう。昭和45年に編纂した社史で仁八はそう振り返っている。勿論、モペットも後に創設されたミュージアムでコレクションの一翼を担っているのは言うまでもない。




 しかし、自転車に後付けするタイプのモペットがいつまでも売れ続けると考える程仁八は甘くなかった。


 仁八は元々技術畑の出身だし、自転車はそもそも動力を取り付けて走ることを前提として設計してはいない。つまり、早々限界が見えてくることは明らかで、いずれ世間が安定してくれば淘汰されることになるのは目に見えていたし、仁八が危惧していた通り、一部出力強化型仕様を売っているメーカーの製品を後付けした結果、性能向上にフレームが耐えられず特にフロントフォークが折れ曲がる事故が全国で多発していた。中には死亡事故に至った例もある。


 一応SSDのモペットはこのことを早くから見越してフォークに強化ブレースを取り付けてはいたが、やはり設計時からエンジンを搭載することを前提としたタイプには及ばない。


 かといって強化し過ぎると重量が嵩み補助エンジンを取り付けるメリットが失われてしまう。やはり自転車をベースとするのは先が知れていた。


 このため、安全上の見地から仁八はモペットからの撤退を視野に入れ始めていたのだが、意外にも仁八の予想に反して減少しつつ自転車への後付けモペットは昭和30年代中頃まで生き延びることに。それどころかモペット自体の需要がなかなか衰えずSSDでも暫く生産を継続せざるをえなかったどころか皮肉にもSSDのラインナップの一翼を担うことに。


 このためSSDでは当初からエンジンを搭載することを前提に設計当初から重量を抑えつつ各部を強化したモペットが戦後の混乱も一段落し、自転車ベースのモペットはその使命を終えたと判断した昭和30年代後半から登場することになるのだが、後には電気モーター仕様も登場し、所謂アシスト付自転車の先駆けともなった。




 話を戻そう。




 地下室に何度も足を運び、更に嘗ての思い出に浸りながらガレージで一人父の遺品であるバイクを再び走れるように整備しながら次のビジョンを考えていたのだが、整備に没頭している間にそのビジョンが朧げに形になりつつあった。


 5月のある日、仁八は地下室で一冊の洋書を見つけた。それは、マン島TTを特集していたのだが、マン島の名は日本でも大正時代には既に有名で、バイクに興味がなくともその名を聞いたことはある、という人は少なくなかった。


 マン島TTは1906年に第一回が開催され、第一次世界大戦で中止となるも1920年に復活。その時、多くのレーサーが出征して戻らなかったため、更に1918年から1920年に掛け世界中で猛威を奮ったスペイン風邪によって亡くなった者も少なくなく、レーサー不足を補う目的から女子レーサーの参加が認められ、翌1921年からは女子部門が創設された。1935年には笠戸静馬が日本人として初めてマン島を制するなど、こちらも男たちに劣らぬ熱い人間ドラマが繰り広げられた。


 ふと、仁八の脳裏にある遠い記憶が蘇る。


『仁八よ、いつしか国産バイクがマン島でチェッカーを受ける日が来るといいなと思わないか?いや、そう思うだけではダメだ。その日を目指して突っ走らないとな』


 父は遠い目をしながら語っていた。まるで必ずその日が来ることを確信していたかのように。日本人によるマン島制覇は女子選手によって既に達成されていた。残るは国産車によるマン島制覇である。また、合併前の宍戸製作所も当初からマン島制覇を目指していたという。


 


 その瞬間、仁八の全身に電撃が走った。


 


 そうだ、これだ!!




 そして昭和25年(1950年)6月1日、マン島TTが開催される6月の第一日曜日を控えたマン島ウィークに重役会議を開き、仁八はマン島制覇宣言を発表した。当然のことながら重役陣はざわつき、焼野原の跡片付けが終わって漸く復興が本格化し始めたばかりの時期にそんな余裕はないという声や、日本に対して責任ある企業の一つとして復興に全力を注ぐべきだという声が相次いだ。


 しかし仁八は、だからこそやらなければならないと言い放った。


「だからこそだ。既に復興が緒に就き始めている以上、民衆が次に求めるのは夢と希望だ。それに、乗り物はあらゆる産業の集合体である以上、我が社にとっても全部門が一丸となる恰好の素材だとは思わないか?」


 仁八の熱弁に、最初は無謀だと疑問を呈していた重役陣も次第に絆され誰もがその気になっていった。そうだ、我々が先駆けて希望の灯火になろうじゃないかと。




 その日の内に仁八の宣言は発表され、予想通り社内は騒然となる。だが、誰もが仁八の意図を理解していた。この時代、広島は全国に比して復興も遅れがちで全国で最も苦しい地だと言われていた。


 だからこそ日々の食事以上に夢と希望に飢えていたところへこんな宣言が出されれば狂喜しない筈がない。誰もが一丸となってその気になっていた。


 仁八の思惑通りである。


 この宣言はすぐさま新聞社に素破抜かれ復興がやっと始まったばかりの時にマン島制覇宣言などと言ってる場合か、という社説が掲載された程だったし、誰もがまだ今日を食べていくのに精一杯の中で冷ややかな声も少なくなかった。


 尤も、仁八にとっては先駆者の宿命として想定内であったが。




 その一方で圧倒的性能を誇る外国勢に対して無謀という声もあった中、そんな宍戸重工を応援しようという声も確かにあった。寧ろこういう無謀な挑戦を反って応援したくなるのが広島気質と言える。


 特に若者の間で応援する声が多かった。




 因みにこの年の6月には朝鮮戦争が勃発し、それに伴いアメリカから様々な工業製品の生産依頼が舞い込み、所謂朝鮮特需が発生した。尚、朝鮮特需のGDPへの貢献度は意外にもそんなに高くはなかったものの、日本の製造業が一息ついたのは事実である。


 宍戸重工もその例外ではなく工場は連日フル稼働となり、マン島制覇宣言は一時棚上げされることになったが、水面下で計画は続けられた。




 ともあれ、SSDの伝説がここに始まった……


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