第3話 8.6-2

 8月6日の早朝、一人の女の子が5歳の誕生日を迎えた。誕生日を迎えた女の子の名前は、西原翔馬。




 西原家は広島有数の資産家で、実家のガレージにはデューゼンバーグモデルSJやマイバッハDS8ツェッペリンストリームライナーといった世界の名立たる超高級車があり、ハーレーにインディアン、BSAといった世界にその名を知られたバイクもあった他、個人所有していた島の舟屋兼別荘にはヨットとモーターボートが係留されており、夏にはこれで遊ぶのが一家に於ける風物詩となっていたなど、家が非常に裕福だったのもあるとはいえ、新しモノ好きでアクティブな一家としても有名であった。




 後にマン島とWMGPグループXを三年連続で制することになる西原翔馬の原点がここにあると言えよう。




 尚、大東亜戦争に入ってすぐさま暗い時代に入ったと思われがちだが、それは昭和19年(1944年)の絶対国防圏崩壊による本土空襲激化から終戦までの一年程度のことで、配給制による生活上の制約はあったとはいえ、少なくとも昭和18年頃(1943年)までは世相もまだのんびりしていた。




 己斐 (こい) の山腹に昭和初期に1万坪の敷地へ25万円の総工費と5年の歳月を掛けて新築した480坪のアールデコ様式の白亜の豪邸は、シンプルな造形ながら防風林に蔽われていてもかなり離れた場所からでも目立った。




 当時家は借家が大半で持ち家は少なく、家賃は大体5~8円程度、家を買うとなると4人家族が過不足なく住める大きさと言われる30坪前後で新築の場合土地も含め都市部で大体1500~2500円くらいが相場だったと言われているので、どれ程の豪邸であったか想像に難くない。


 内装も当時の日本の洋風建築と異なり全体にシンプルでステンドグラスやガラスレリーフ、間接照明が多用されているなど、今でも通用する非常にモダンな造りで知られていた。が、一風変わった家、奇抜な家というのが周辺の大半の偽らざる感想であった。




 しかし、西原家自体は評判はよく、周辺住民の相談事に乗ったり祭事などでは気前よくカネを出す鷹揚な殿様として慕われてもいた。


 


 因みに己斐の駅名は当然己斐駅であったが、昭和44年(1969年)西広島駅と改称している。これは、県外の人には地名の読み方が分かりにくいとか、更に広島県民でも意外と読めない人が多く、このため分かりやすい西広島へと改称したという説がある模様。現在でも己斐の名称自体は元が由緒ある古い地名だけに今でも通用はするが、行政上では学校名とごく一部の山林部だけに住所表示として辛うじて存続しているのみである。




 戦時下、女子はモンペが日常の服装であったが、今日に限っては西陣織の反物で仕立てた着物に袖を通しておめかし。


「わ~い、とってもキレイ~」


 姿見に晴れ着姿の自分を映して燥ぐ翔馬。




「今日は誕生日だものね。戦時下だからそんなに豪勢にはできないけど、御馳走用意するから。それより、今日は親戚のところへ用事があるから、まずそちらを済ませてからね」




 母である静馬 (しずま) にそう諭されると大人しく首肯する翔馬。翔馬は聞き分けの良い子供であった。現在西原家には長男(昭和13年生・1938年)、長女である翔馬(昭和15年生・1940年)、次男(昭和19年生・1944年)と三人の兄妹がいた。また、戦後にも次女(昭和22年生・1947年)、三女(昭和24年生・1949年)、三男(昭和27年生・1952年)と誕生して最終的に6人の子供に恵まれている。その内長女の翔馬と三女がレーサーとなった他、兄妹全員が何らかの形で二輪を中心にレース産業に関わることに。


 


 そして、母静馬は並外れた経歴の持ち主だった。


 


 旧姓は笠戸静馬。大正4年(1915年)生まれで宍戸家に嫁いだ久恵の姉である。当時140~150㎝前後が標準だった日本人女性の中では稀な長身(172㎝)を活かし、戦前、女子ライダーでただ一人国内レースに於いて大排気量の一級車にエントリー、男子としばしば互角以上のレースを繰り広げ周囲を大いに沸かせたものである。




 妹の久恵も戦前は姉の影響を受けてレースに出場しており、主に500㏄の二級車と350㏄の三級車で活躍、当時姉妹はバイク愛好家の間では有名人でもあった。




 その後久恵は帝国大学工学部に進学して技術者の道を歩むのだが。




 レースは四輪二輪に関わらず排気量などによってクラス分けが行われるのが普通だが、それは戦前も同じで、当時国内では1000㏄クラスの一級車から125㏄の五級車までクラス分けされ、自転車競技や競馬、各種祭りの余興として全国各地でレースが行われていた。彼女たち以外にも当時有名な女子ライダーとして西野綾子、青山とく、成瀬二三子などが主に250㏄の四級車や125㏄の五級車にエントリーして活躍している。




 当時レースの舞台となったのは時に飛行場の滑走路を利用した舗装コースもあったものの、大半は上述の競馬場やグラウンドなどダートが主流であり、雨などでぬかるんでいる場合は転倒者が出ることも珍しくなかった。




 大正期に入った辺りから二輪レースが盛んになり、ライダーは各地のレースや余興で引っ張りだことなる。二輪を猛スピードで颯爽と乗りこなす姿に憧れた子供も男女問わず少なくなかった。




 二輪業界はレースとの結びつきが非常に強く、レースの成績が販売成績に直結していたことから優秀なライダーは大卒初任給が30~35円、一般労働者が10~15円前後の時代に100円の高給でメーカーや輸入販売元などに迎えられることもあったという。これは現在の額に換算すると100万円といったところだろう。




 また、上述のクローズドコースの他に、通常の一般道路を利用したTTレースも数は少ないが各地で開催されている。




 国内でただ一人の一級車女子ライダーとしてトップクラスの実力を誇り全国のバイク好きにその名を知られていた静馬であったが、何より彼女の勇名を決定的にしたのはマン島での勝利であろう。




 昭和4年(1929年)、多田健蔵が日本人として初めてマン島TTに参戦し、翌年にも参戦して結果は350㏄クラスに於いてそれぞれ15位、11位と完走し、日本人として初の参戦だったことや、元より初参戦の時点で40歳を超えていたこと、更に完走さえ難しいマン島で二度も完走を果たしたことなどを評価され主催者により特別賞を贈られている。




 尚、多田氏はその後も長きに渡って日本の二輪レース界の発展に貢献しており、戦後にSSDを筆頭に日本メーカーが挙ってマン島及びGPに参戦するようになると選手団長や後援会長などを務め、二輪レース界に於ける大御所となる。




 彼女もその影響を受け、既にその名も全国区となっていた当人が国内に物足りなさを感じてマン島に出場したいと考えるのは半ば必然であったと言えよう。




 多田の二度目の出場から四年後の昭和9年(1934年)、僅か19歳でマン島女子500㏄クラスにエントリー。その際、大きく改造しており早くも遠心式スーパーチャージャーとカウルが取り付けられていた。初出場の結果は見事4位入賞。当時イギリスでは日本からやって来た少女の活躍を東洋のミラクルと称える程であった。




 翌年にもエントリーし、何と女子500㏄クラスで優勝したのだった。当然のことながら日本でも大きなニュースとなり、ニュース映画にもなっている。




 結局、マン島で優勝したのだからもういいだろうと両親に止められ、レーサーを引退させられ昭和11年(1936年)に結婚することに。また、翌年の日華事変以降相次ぐ戦争突入により祭りの余興としての草レースを含む各種レースが縮小中止となったことで彼女のレースキャリアは事実上幕を閉じた。




 話を戻そう。




 出かける前、翔馬は静馬と共にモンペを上から履いて家を後にした。夏風邪の長男とまだ赤ん坊の次男はお手伝いさんに世話を託す。向かう先は親戚の家がある猿楽町。己斐から広電に乗って大体30分程の距離である。この時午前6時頃。




 猿楽町の由来は能役者(猿楽)が多数居住していたからだと言われているが確かなことは分かっていない。尚、猿楽町出身の著名人には児童文芸誌『赤い鳥』を筆頭に日本児童文学の祖として知られる鈴木三重吉がいる。




 当時猿楽町は隣接する中島町と並んで広島本通りの一画を形成する商業街であり、八丁堀などの台頭もあって往時の勢いはなかったものの依然として多くの人で賑わう広島市の中心地であった。




 親戚の家は産業奨励館(現在の原爆ドーム)と隣接しており、木造三階建てなのもあって周囲でも目立つ。親戚は静馬の従姉妹にあたり、翔馬にとっては従姉妹叔母である。




 活発な女性が多いと言われる笠戸家にあって自宅の一画で着付け教室や裁縫教室を開いていた他、茶道や華道など古来から伝わる日本の伝統を嗜む風流人でもあった。現在将校の夫は南方に出征中であり、自宅には当人の他は翔馬と同い年の長女と三歳の長男がいるのみである。




 でもって、翔馬は家に上がるとすぐさまモンペを脱いで晴れ着を披露した。


「わあ~、翔馬ちゃんキレイ~」


「えへへ~。今日は私の誕生日なんだよ~」


 男の子の方も翔馬の姿に見入っている。キレイな物は子供心にも惹かれるものがあるのだろう。そして、子供らしく庭で三人して燥ぎまわるのだが、その直後であった。この時、家の掛け時計の針は7時9分を指していた。その時、




 周囲にスマホの地震警報並の恐怖感を煽る空襲警報が鳴り響き、そして庭で燥ぐ翔馬たちを縁側で眺めながら世間話をしていた二人が呼び止める。


「早く早く、地下へ逃げるんよ!!」




 促されるまま、大急ぎで家の地下室へ。この家は珍しく地下は二階となっており、二階を防空壕代わりとしていた。それまでは蔵として季節が過ぎると仕舞っておく機材や保存食などの収納スペースであった。また、様々なお宝も収蔵されていたが、夫が出征前に全て疎開させていた。




「お母さん、こわいよ~」


 翔馬たちも突然の警報に恐くて今にも泣きだしそうになる。その後、7時31分に警報解除となるが、この時静馬も叔母も何故か胸騒ぎがしていた。


「何だか、嫌な予感がするわ」


「やはりそう思う?昨日の深夜も空襲警報が二度も鳴って、おかしいと思っとるんよ。それに、主な大都市は皆空襲で焼かれとるのに、何で広島だけ無事なんじゃろうかってねえ」




 じっと息を潜める5人。そして、叔母がたまたまロレックスの腕時計を見て、時計の針が8時15分を指した、その時……




 上の方でまるで巨大な落雷が直撃したかと思うような凄まじい音が響いた。刹那、地下室は大きく揺れ、砂埃が大量に落ちてきた。暫くして、静かになったような気がしたので恐る恐る地下一階に上がってみると、地上へ出る階段のある場所には大量の板切れや土砂などがごちゃごちゃになっていた。何かとんでもないことが起きたのは、誰の目にも明らかであった。




 直後にはゴオオ~と水が流れ込んでくるような音が聞こえてきた。隣接する産業奨励館の目前は元安川が流れており、近くを水道管も走っている。もしかしたらそれが破裂したんじゃないのか!?そうなるとこの地下室にも流れ込んでくるのは時間の問題かもしれない。大急ぎで脱出せねば。だが、地上の様子がどうなっているかも分からず、一瞬判断に迷った。




 しかし、このままだともしも水道管が破裂しているならいずれ地下室は水没することになる。それなら一刻も早く脱出すべきだ。二人はそう判断した。


「とにかく、急いでここから出るよ」




 泣きじゃくる子供たちを急かしながら倒壊した家から5人は脱出した。幸いにして無傷であった。


 この時、周囲はまるで黒煙か何かで蔽われていたかのように真っ暗な闇の世界であった。その中をぼんやり見える橋のシルエットなどを頼りにしながら無我夢中で己斐方面へと逃げた。どうにか家にたどり着くと、実家は窓ガラスが割れていたものの被害そのものは軽微であった。




 実は、皆その間の記憶が飛んでいた。それだけ逃げるのに精一杯だったということなのだろう。また、その間悲惨な様子の被爆者や遺体などを見ている筈だが、よく覚えていないという。或いは、被爆者の証言で無数の遺体や白骨を見ていると感情がマヒして恐怖感が無くなるらしいことから、もしかしたら逃げている際に被爆者や遺体がそこらへんの石ころのような感覚で視界には入っていたとしても無視されていた可能性もある。


 しかし、夢中で逃げ惑う中、気が付けば翔馬の西陣織の晴れ着は煤けてボロボロになった。




 どうにか実家にたどり着いて冷静さを取り戻し改めて周囲を見てみると、被害は己斐地区にも及んでおり、駅を始め多くの建物が破壊されていた。


「こ、これは、普通の空襲なんかじゃない!!」


 爆心地からおよそ3㎞離れている己斐地区は後の区分で半壊半焼地域とされており、人的被害は比較的少なかった。




 翌日、早くも新聞及び大本営発表で広島に投下されたのは新型爆弾であることを知る。通常の空襲と異なり、たった一発の爆弾で広島市は消滅したのだ。




 暫くすると、先程までいた市内中心部が炎に包まれているのが見えた。更に、黒い雨までもが降って来た。これはただ事じゃない。とにかく家の中でじっとしていた。それが後に幸いすることになる。この時、父の西原銃郎 (じゅうろう) は松江に出張中で、帰って来たのは様々な理由が重なって10月のことであった。




 雨は夕刻までには止んで、その間昼間には己斐の方は止んでいて空には晴天が戻った。一方、火勢はかなり衰えてきたとはいえ、市内は未だ火と煙に蔽われており、よくあの地獄絵図から逃げて来れたものだと安堵する。薄情、無神経に聞こえるかもしれないが、それが5人の偽らざる本音であったのだから。実際、地下などにいて偶然助かった人の中には助かったことに安堵の心の方が大きかったと証言する方も少なくないし、カメラマンに向かって無傷で助かったことに笑顔を浮かべている写真も存在する。




 後になって判明したことであるが、生き残ったのは奇跡だったのである。5人がいた場所は爆心地から僅か150m程度に過ぎず、あの日猿楽町にいた者は全員犠牲になったと誰もが思っていた。長い間燃料会館(現在の広島市平和祈念公園レストハウス)に於いてその時書類を取りに行くため地下室にいた野村英三 (当時47歳) ただ一人が爆心地に最も近い生き残りだったとされていたのだ。




 しかし、このことは長い間5人の記憶に封印されたままとなる。誰も信じてくれそうにないというのがその理由であった。まさか、あの爆心地にいて生き残ったなんて信じられないとしても無理はあるまい。


 


 後に原爆投下から40年が経過した昭和60年(1985年)に改めて被爆者に対する聞き取り調査が行われ、長い間謎とされていた爆心地付近と定義される爆心地から500m以下の範囲についての子細な状況が数少ない生き残りの証言からようやく明らかとなる。




 広島に投下された原子爆弾は強烈な閃光と衝撃音から別名ピカドンと呼ばれるのだが、爆心地付近にいた者にはほぼ同時に襲来したように感じられたらしく、ピカドンという実感はあまりないという。また、一面闇の世界であったことは生き残りにほぼ共通した認識であった。そして、爆心地付近外の生き残りの被爆者との間で認識にかなりのズレがあることも判明している。爆心地付近は、それほどまでに凄まじい世界であったことを物語っていると言えよう。




 この時の調査では爆心地付近にいて生き残ったのは57人まで判明しているのだが、他にもまだ記憶を封印したまま存命、或いはあの世へ逝った方もおられる筈で、恐らく推測であるが100人前後はいるであろうと考えられる。




 あの日、爆心地付近にいたのは2万人前後と推測され、その内生き残ったのは僅か0.5%以下ということになり、爆心地付近にいた者の99%以上が犠牲となったという見解とも一致している。また、爆心地から1キロ以内にいた者の90%がその年の12月までに亡くなった。昭和20年8月6日から12月31日までに亡くなった被爆者が死因を急性放射線障害と見做され、以降に亡くなった被爆者が後障害と定義されている。




 被爆者の運命とは分からないもので、投下から数日が経過して救護活動に来た所謂入市被爆者の中に症状が出てから次の日に亡くなったり、或いは爆心地から4㎞以上離れていたにも関わらず急性放射線障害で世を去った方などがいるかと思えば、初期放射線を浴びなかったのが幸いしているとはいえ爆心地付近にいて無傷で生き残りその後特に大きな病気をすることもなく50年以上も生き延びた被爆者もいるのである。それでも説明のつかない部分は多い。




 一体この差は何なのか。




 因みにはだしのゲンで知られる中沢啓二も爆心地から僅か1.2㎞での被爆であり、幸運な条件がいくつも重なっているにせよ平成24年(2012年)12月まで存命であった。かと思えば詩人の峠三吉は爆心地から3㎞離れた場所での被爆でそれから8年後の3月に世を去っている。尤も、彼の場合は幼少期から呼吸器系の持病があり、その持病が悪化して亡くなっているのだが、被爆の影響も否定できない。




 また、被爆者には糖尿病も多いらしく、上述の中沢氏も糖尿病が発覚したのは27歳の時で、この時結婚したばかりで生命保険に入るため必要な健康診断を受けて判明しており、それまで当人も甘い物がやたらと欲しいことに違和感を覚えながらもまさか自身がこの若さで糖尿を患っているとは思ってもなかったという。


 そして、被爆者には糖尿病が多いこともこの時知ったのだとか。




 余談だが、糖尿病による視力悪化が原因ではだしのゲンは主人公が東京に出るまでの第一部で事実上終了、未完となっており、もしも第二部が描かれていたら昭和36年(1961年)、ゲンは知人の後援を得てフランスに絵画修行に向かうため貨物船に乗船するところで完結する構想だったという。因みにその年に中沢氏は東京へ出ている。




 他に第二部が未完に終わった原因の一つとして、中沢氏はアシスタントと執筆するマスプロダクション方式を嫌い、全て一人で描くことに拘ったのも理由ではある。もしもマスプロダクション方式を当人が採用していれば、第二部まで完結していたかもしれない。




 はだしのゲンについては天皇批判など問題描写も多いのだが、一方で原爆の実相を知ることのできる数少ない本でもあることは確かである。




 その後、翔馬は特に大きな症状もなく、叔母の子供は共に9月に入って急性放射線障害を発症するも10月が終わる頃には奇跡的に回復し、その後は大した病も得ておらず存命である。




 しかし、その日市内にいた人の大半はそこまで幸運ではなかった。その上生き延びても様々な苦しみが待ち構えていた。無傷であってもそれから10年以上も経過して突然後遺症に悩まされ長い苦しみの果てに世を去った方も少なくない。


 


 だが、そんな中にあっても確かに奇跡はあった。生き残りの中に後のチャンピオンがいたのだから。


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