第2話 8.6

後に世界的なバイクメーカーとして知られるようになるSSDこと宍戸重工の前身は、江戸末期に設立された宍戸製鉄であり、藩の要請を受けて反射炉を建設したことに始まる。元より宍戸家は江戸期は豪商であり、その富は贅沢三昧よりも様々な産業育成に注がれていた。その意味で宍戸重工に連なる基盤は既にこの頃には出来ていたと言えなくもない。


 


 藩に反射炉の製作を依頼されたのも、傘下に抱えていた鋳物や刃物、金彫など金物工房の評判があってこそであった。


 


 その後、明治に入ると宍戸商會が設立され、その間には新政府が明治に入って間もなく各藩が独自に発行していた藩札を買い上げることを知り、そして商いで築いたコネを用いて8万両余りの資金を調達し、各地から藩札を大量購入。新政府に買い取らせて巨額の利益を得ており、それを元手に宍戸製鉄は一気に大きくなり、明治10年(1877年)には宍戸重工へと改称。また、多くの人材を私費で海外に送った上、早くから教育基金を設立、貧しくとも優秀な者には奨学金を与え、その中には後に中核的な技術者へと育った者も少なくない。


 


 宍戸重工への改称当時、広島はまだ大規模産業も少なく、貴重な雇用先の一つでもあった。


 


 広島は元々独立独歩の気風が非常に強い土地柄であり、私財を投げ打って産業育成のみならず教育に尽力した方も少なくないなど、早くから私立の教育機関も目立った場所でもある。


 


 実際、広島も帝国大学の有力地の一つとされながら結局帝国大学が置かれなかったのは、早くから私立大学が多く、そのレベルも帝国大学と遜色ない、更に官僚的な帝国大学が自由闊達な土地柄に馴染まなかったという説もある。


 


 尚、その一方で広島は私立の高等教育機関が早くから設立されたように日本有数の教育県の一つでもあり、帝大への進学者も少なくなかった他、後には帝大へ入るよりも難しいと言われた超難関校である海軍兵学校が江田島に置かれている。


 


 また、独立独歩の気風は、しばしば無自覚に新たな時代を切り拓いていたり、新しモノ好きの傾向が強かったり、大都市や全国区に憧憬の念を持ちつつそれに匹敵するものを自分で生み出すことに強い拘りを持っていたりと、良くも悪くも日本離れした土地でもある。




 話を戻そう。


 


 そうした時代背景に便乗するように宍戸重工は政府からの仕事も請け負うようになって更に経営規模を拡大し、当時の工業に於ける重要分野に次々と手を広げ事業の多角化に乗り出す。


 


 また、そうして得た巨額の富は技術投資にも回され、同時に早くから海外にも積極的に進出、その過程で設立されたのが総合商社へと改組した宍戸商會及び宍戸銀行である。その過程で資金調達を安定させるため、株式上場も行われた。


 


 同時期に設立された三菱財閥と比較されるが、三菱は政商としての性格を帯びていたのに対し、あくまでも自由を尊ぶ宍戸重工は政府からの仕事は勿論請けるが、政界とのコネはあくまで最小限度であった。


 


 あまり政界との結びつきが強まると、経営が官僚的になったり政治的な干渉が強まって思うような経営が出来なくなる可能性を嫌ったのである。その意味で、宍戸重工の歴史は同時に如何にして官と適度な距離を保つかという歴史でもあったと言えた。


 皮肉な話だが、この姿勢が後に宍戸重工を救うことになる。




 明治を経て大正、昭和とその間様々な荒波に遭遇しながらも順調に歩んできた宍戸重工であったが、昭和16年(1941年)の大東亜戦争は日本全土に暗い影を落とし、宍戸重工もその例外ではなかった。国の要請を受けて航空機用部品や輸送船の製造などを引き受けることになるが、悪化する戦局は経営陣も掴みつつあった。


 


 昭和18年(1943年)の学徒動員を切っ掛けに、宍戸重工はその翌年社長交代、前社長の宍戸直七 (なおしち) は会長に退き、同時に重要資料などの疎開を命じた。実はこの頃から会長は、


『日本はいずれ戦争に敗れるだろう。だが、我が社はその後も広島に、そして日本のために尽くしていかねばならない』と繰り返していたと、当時の重役陣は証言している。




 昭和19年(1944年)、会長の息子である仁八 (じんぱち) が社長に就任した。当時まだ26歳の若さであった。東京帝国大学工学部航空科を卒業後、中島飛行機へ就職したのだが、大学卒業生は26歳まで猶予される徴兵検査を受け学徒動員に合流するつもりでいた。しかし、当人は理工系出身であったため学徒動員の対象外となってしまう。また、水面下で何らかの動きがあったのではと推測されるが、父が会長へと退いたことと無関係とは思えない。




 余談だが、学徒動員の対象となったのは殆どが文系であり、理学部は農学部に限られていた。理工系の学生の多くは徴兵猶予を継続され、その大半は軍関連の研究機関などに勤労動員された。




 また、大東亜戦争で日本軍は600万人を動員しているが、これは同盟関係にあったドイツと比べると少ない。1945年当時、ドイツは人口約6600万人に対して1250万人を動員しており、これは当時動員可能年齢とされていた18~45歳の成年男子がほぼ全員動員されていたことを意味している。


 尚、日本の同時期の人口が約7200万人なので、理論上は約1400万人を動員可能だったことになり、実際の動員数はその半分以下ということになる。


 日本では前線に行くのは原則として徴兵検査で甲種合格となった者のみであり、その甲種合格となること自体が容易ではなかった。戦争が激化し戦局が悪化してくると乙種合格者、更に末期には丙種合格者も徴兵対象となるが、本土に残った若者はドイツと比べると多い。




 仁八は社長就任後程なく結婚。相手は笠戸久恵 (ひさえ) 。後の久恵夫人であり、彼女は開明的な両親の影響で帝国大学に進学、名古屋帝国大学工学部自動車科を21歳で早期卒業。尚、当時は女子大生自体が非常に珍しい存在であり、その女子大生の大半は日本女子大、御茶ノ水、津田塾に行くと相場が決まっていた時代である。そんな中にあって工学部へと進んだ彼女はまさに稀少な存在であり、その才媛振りが窺われる。




 その後宍戸重工の一部門である宍戸製鋼所へと就職し、互いの両親の相談の下、二人は結婚することに。因みに仁八26歳、久恵22歳であった。


 そして、宍戸重工及び仁八たちは、運命の日を迎える……




 1945年8月6日現地時間午前1時45分、極秘任務を帯びたB-29 エノラ・ゲイがテニアン島を飛び立った。目的地は広島……




 昭和20年8月6日月曜日。その日の広島は快晴で気温は約26.7℃、湿度80%、気圧1018ヘクトパスカル。非常に蒸し暑い日であった。




 その日の早朝、佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市町)にある宍戸家の豪邸のダイニングルームにて朝食を摂っていた仁八、出産を翌月に控えた久恵、直七、松子 (しょうこ) は仕事上の打ち合わせをしていた。




 因みに戦時下なので庶民層の窮乏を慮って内容は質素なものである。




 豪邸は大正期に建てられ、イギリスのチューダー様式とハーフティンバー様式を組み合わせた外装とジャコビアン様式を中心とした内装の、当時の日本の新興富裕層に見られた典型的なデザインで、当時この界隈では非常に目立つ建物であったのは言うまでもない。また、宍戸邸は洋館とその奥の和館で構成されていたのも当時の豪邸の典型であった。




 「それじゃあ、私たちはこのまま産業奨励館に向かうから」


「分かった。自分は残した仕事があるけど、朝の内には片付くと思うから、昼にそっちに行くよ」


 会長である直七と現在の社長である仁八との普段の日常会話である。今日二人は産業奨励館に於いて内務省の土木出張所及び各統制会社との打ち合わせを行うことになっていた。




 午前6時、ウォルナットによる重厚なデザインの玄関を出る会長夫妻を見送る。それがまさか、両親との今生の別れになろうとは、誰が想像できただろうか。




 両親を玄関まで見送った後、仁八も程なく自宅から約1㎞離れた所にある宍戸重工本社まで徒歩で向かい、8時30分の朝礼までに残っていた書類を片付けることにしていた。その後10時には産業奨励館のある猿楽町(現大手町)に向かう予定であった。仕事に取り掛かり始めた頃、重厚なデザインのホールクロックと呼ばれる大型の置時計の鐘が7回社長室に鳴り響く。つまり、午前7時。


「そろそろ着いた頃かな?」




 そう言って仁八は社長室の窓から山陽本線及び並行して走っている広島電鉄宮島線を見つめる。仁八が見つめる視界に、広島方面へと向かう列車が黒煙を上げながら力行する姿が映った。




 戦時下では鉄道輸送も逼迫しがちで不要不急の利用は当然憚られたし、乗客も優先順位があったため、予定通りの列車に乗れるとは限らなかったし、切符の販売数も限られていた。それを見越して会長夫妻は広島市中心部などで打ち合わせを行う場合は早めに出るのが常であった。




 午前8時12分、高度31600フィートにて広島市上空に到達したエノラ・ゲイの爆撃手がノルデン照準器に投下目標基準であるT字形の相生橋を映し出し照準に定めた。


 爆弾倉扉が開き、そして午前8時15分。爆弾が投下され投下直後、エノラ・ゲイは訓練通り進路を南へ155度急旋回して飛び去って行った。そして投下から43秒後――――




 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。広島市は一瞬にして地獄と化した。投下されたのは、世界初の原子爆弾だったのである。




 その頃、五日市にある宍戸重工本社では、仁八が書類仕事を間もなく終えようとしていた、その時である。




「うあっ!!」


 突如何かが光ったと思った刹那、目が眩むと腕で遮ろうとした時、次いで轟音が響き渡り、そして社長室のガラスが粉々に割れた。当時、宍戸重工では工場に強化ガラスを戦前から採用しており、そのお陰で仁八には幸いケガはなかった。




 しかし、仁八が見たものは、悪魔の光景であった。




 火球が轟音を響かせながら時折赤く点滅しつつ一瞬にして膨張していく。仁八が嘗て少年期に読んだファンタジー小説の地獄の光景すら生ぬるく思えてくる。核爆発による異常な空気の乱れによって生じた原子雲が上昇気流に吹き上げられ、およそ5分後、所謂キノコ雲となった。




 そのキノコ雲はまるで地獄へと誘う階段のように思えた。


「あ、あ、あれは一体何なんだ!?それより、あの雲の下は中心部じゃないか。ま、まさか、父さんたちは……」




 その正体が原子爆弾であることが明らかとなるのは早くも翌日のことだった。尚、キノコ雲は当初高度にしておよそ9000mに達したという説が長い間定説となっていたが、近年になり再検証したところ、16000mに達していたことが明らかとなった。高さ3776mの富士山が条件が良ければ150㎞も離れた東京からも見えることを考えると、キノコ雲は爆心地から200㎞近く離れている島根や岡山、山口からも理論上は見えていた筈だ。今のところ目撃証言の最遠の距離は爆心地から60㎞離れた三次市である。




 後の調査では爆心地から2㎞以内は全壊全焼区域としてほぼ壊滅状態であり、火傷など熱線被害は3.5㎞の範囲にまで及び、爆心地から20㎞以上離れた可部地区などでも外にいた者は炸裂した瞬間、火傷は負わずとも『熱い』と感じていることが証言から判明している。




 また、衝撃波による被害は爆心地から9㎞も離れていたここ宍戸重工にも及び、ガラスが割れる被害に見舞われ、最遠では27㎞離れた似島でもガラスが割れる被害が発生していた。尤も、宍戸重工の被害そのものは軽微であり、工場機能に影響はなかった。




 想像を絶する光景に、仁八は慄然とし茫然と立ち尽くしていたが、やがて冷静さを取り戻し、


「と、父さんたちは大丈夫なのか!?すぐに市内へ行かないと」


 そう言って社長室を後にし両親の安否を確かめに向かおうとした仁八を、重役たちが止めに入る。


「社長、今行くのは危険です」


「やめろ、行かせてくれ!!」


 涙交じりの声で叫ぶ仁八。この時、異常な光景からこれまでの空襲とは異なることを直感した重役陣は、今ここで社長まで失えば宍戸重工は瓦解しかねないと必死であった。


「と、とにかく落ち着いて!!」




 投下からおよそ1時間後には火災が発生、市内一円を大火災が嘗め尽くし、夕方まで続いた他、一部の地域は投下から更に二、三日経っても尚燃え続けていたという。




 また、投下からおよそ30分後には黒い雨が降った。これは原子爆弾の雲に含まれた多量の放射能を含んだ細かいチリが上昇気流で吹き上げられたための降雨である。




 それは、投下による衝撃から生き残った人や安否を気遣い外に出た人を襲った。この正体が放射性降下物であることなど知る由もなかっただけに、被爆による喉の渇きに耐えかねて飲んでしまった人も少なくない。




 また、分かっている限りでは東西約15㎞、爆心地から北西方向へおよそ30㎞の範囲で降ったことが判明しており、実際の降雨範囲はもっと広いとみられている。実際、これまで範囲外としてきた場所でも証言が複数あり、再調査が待たれる。




 所謂二次被爆であり、直接的な被爆は免れてもこの雨に打たれたために急性放射線障害、所謂原爆症を発症した者も少なくなく、『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子もその一人である。




 更に降雨は降雨下の井戸や河川をも汚染し、魚は悉く死んで浮き上がった。




 黒い雨は北西に移動しながら遅くとも午後4時頃には止んだ。その間、重役陣はこれを危険だと判断し、建物内にいた社員には雨が止むまで決して外に出ないよう社内放送で警告していた。




 これが幸いしたのか、宍戸重工の社長以下社員はほぼ全員重大な被爆を免れることになる。この日は誰も勤労奉仕の対象でなかったことも幸いした。だが、この原爆で自身は助かっても家族や親戚、知人友人を失った者は少なくなかった。


 


 この日、美しき水の都、広島は消えた……


 

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