第16話 サマーキャンプ初日
「素敵ですねえ」
「本当ね」
海に張り出すバルコニーに出れば、キラキラ光る波しぶきに、コバルトブルーの海が地平線まで見渡せた。
学園も夏休みに入り、リリベラ達は初めてのサマーキャンプに来ていた。
現地集合、現地解散のこのサマーキャンプ、学園所有の海辺の避暑地に来るだけで、馬車で三日かかる。一応自由参加ではあるが、魔法祭で最優秀賞と優秀賞をとった生徒は、泊まる場所から食事まで優遇される為、だいたいがほぼ全参加。前途有望な彼らと親しくなりたい金持ちの貴族の子弟子女達もまた、たとえ雑魚寝(五人一部屋)になろうとも、初めての自炊になろうとも参加する為、以外にも参加率は高い。
最優秀チームは一人部屋が、優秀チームは二人部屋が約束されていた。また、部屋もVIPルームで眺望も最高だ。しかし、自炊なのは最優秀チームといえど変わらず、材料のみ高級食材が用意される。
「海……ということは、もしかしてお刺し身が食べれたりするかもですね」
「お刺し身ってなんですの?」
貴族の食卓で生で出てくるのは、サラダとフルーツくらいのものだ。魚や肉を生で食べるなど、下品で野蛮な行為くらいに思われていた。
「お刺し身とは、新鮮な魚をさばいて生で食べることですよ」
「生ですって?!」
「お嬢様のお口から『生』なんて単語、ご馳走様です」
たまにビビアンは、よくわからないことを呟いて、リリベラを崇めるように手を合わせたりする。今回は「生」という単語に反応したようだ。
「『生』がご馳走なの?『生』で食べたら酷くお腹を壊すと聞いてますわよ」
「お刺し身を食べたら、『生がいいの』とおっしゃるようになりますよ」
「『生』がいい?」
そんなわけないじゃないと、疑心暗鬼な様子のリリベラに、ビビアンは妙なスイッチが入ってしまったようで、「お嬢様に『生がいい』と言わせてみせます!刺し身を捜してきます」と、部屋から飛び出して行ってしまった。
「なんか、ビビアンが飛び出して行ったけど、何かあった?」
ビビアンと入れ違いに、開いたドアをノックして入ってきたのはランドルフだった。
「ランディ、お部屋はいかがでした?」
「うん、多分この上の部屋みたいだから、造りは変わらないかな。クリフは僕の部屋の隣だし」
ついでに、スチュワートの部屋は逆隣だが、ランドルフはあえてスチュワートの名前は出さなかった。
「まぁ、二人が近くて羨ましいですわ。ビビアンは階が違うから、夜は話し相手がいなさそうなんですもの」
「部屋は真上だし、なんならロープかなんかで遊びにこようか?」
「フフフ、落ちたら大変ですから止めてくださいね」
危なくなければ、「是非に遊びにいらして!」と言っていたかもしれない。リリベラは、夜に男子が女子の部屋に忍んでやってくることの意味をわかっていない。見た目は男好きしそうな妖艶な美女なのに、中身は純真無垢な少女のままなのだ。
そのギャップが魅力的なのだが、リリベラを見た目通りだと勘違いし、変なアプローチをかけてくる男子がいるかもしれない。夕飯後は階の行き来は禁止となっているが、別に見張りがいる訳でもないので、不埒な感情を持ってリリベラの部屋に忍び込む輩がいないとも限らない。
「リリベラ、ペンダントはつけているよね?」
「もちろんですわ」
リリベラは、胸元のボタンを一つ外し、ペンダントを洋服の外に出してみせた。
リリベラがランドルフに淡い恋心を抱いてくれているのは知っている。だからこそ安心して、リリベラに群がる害虫駆除はクリフォードに託し、学年をスキップしてレーチェ公爵との約束を優先することにしたのだ。
しかし、こうも無防備な姿をさらされると、男として意識されてないんじゃないかと不安になる。リリベラのことだから、ランドルフを誘惑してやろうとかそんな計算はなく、ただちゃんとつけているところを見せて、純粋にランドルフに褒めてもらおうとしただけだとランドルフはちゃんと理解していた。
ここでリリベラの胸元を覗いたり、あまつさえそのたわわな胸に手を伸ばしたりしたらアウトだ。『インコウ』の第二シーズンでも同じようなイベントがあり、正解は「ボタンを閉めてあげる」であった。
閉める為には、上から覗き込む必要があり、気をつけないと肌に触れてしまう可能性もあるが、そこはギリギリセーフで、好感度が上がっていればお宝映像が見れてしまうという、サービスイベントだ。
ただ、偶然見えてしまうという状況も捨てがたく、ランドルフは正解を導き出すのは、もう少し後にしようと、十代男子として正常な欲求に従うことにした。
「リリベラ」
部屋に備え付けのキッチンで、お茶をいれようとしていたリリベラの後ろにランドルフは立った。覗き込まなくても、ランドルフとリリベラの身長差を考えると、リリベラの手元を見ようとするだけで、偶然胸元が見えてしまう位置だ。
「ごめんなさい。ランディにお茶をいれてもてなそうと思ったんだけれど、お茶のいれ方がわからなくて。いつもビビアンはお茶の葉をここに入れて、お湯を注いでいたように思うのだけれど、これであっているかしら?何か、色が濃すぎる気がして」
人生初の給仕作業をしたリリベラは、茶葉の適量がわからず、山盛りの茶葉に熱湯を注いで、飲み頃まで冷めるのを待っていたようだ。
ガラスの茶器から見えるお茶は、確かに凄く色が濃く苦そうだった。
「これでは飲めないわ。もう一度いれ直しますわ」
「待って」
ランドルフは、お茶を流しに捨てようとしたリリベラの手を、後ろから手を出して止めた。
「リリベラがせっかく作ってくれたんだから、捨てるなんてもったいない」
「でも」
振り返ったリリベラは、思っていたよりもランドルフの距離が近くて驚く。しかも、下から見上げると、いつもは髪に隠れて見えにくいランドルフの赤みの強い煉瓦色の瞳としっかりと視線が絡まり、リリベラの頬が紅色に染まる。
「砂糖を入れて、同量くらいの温めたミルクで割れば、ミルクティーになるよ」
「まぁ、ランディもミルクティーをご存知なの?ビビアンのお家でだけ飲まれている特殊な飲み方だと思っていました」
「あ……うん。前にね、ビビアンから聞いたんだ。お茶にミルクなんて邪道だけど、お嬢様はこれがお好きなんですよって」
ランドルフはミルクをミルクパンに入れて温めると、リリベラが作った紅茶と混ぜてミルクティーを作った。リリベラのには砂糖多め、自分のにはほとんど入れないで作ると、お盆にのせてバルコニーにあるテーブルに運んだ。
「見晴らしがいいからね、ここで飲もうか」
「それならば、並んで海を眺めながらお茶しましょう」
リリベラは椅子の並びを変えて、二人で海が眺められるようにした。さりげなく距離を近く椅子を置いたのは、リリベラがランドルフの近くにいたいという深層心理の表れだろう。
ランドルフの隣に座ってご機嫌なリリベラを見ると、その純真な可愛らしさと、胸元の魅惑的な谷間のギャップにランドルフは理性を保つのが難しくなる。なるべくリリベラから意識を反らすように、ランドルフはリリベラ以外のことを考えることにした。
「ウウン……。それで、ビビアンはどこに行ったんだ?」
「ビビアンならば、食べられる生のお魚を捜しに行きましたわ」
「食べられる生の魚……刺し身か」
リリベラはミルクティーを一口飲み、その美味しさに口元を緩めながら、「刺し身」という言葉を知っていたランドルフに首を傾げる。
「お刺し身という食べ方は有名なんですか?」
「一部にな」
「ランディはお刺し身は好きなのですか?」
「ああ、好きだな。刺し身もいいが、寿司には目がない」
「寿司?」
「酢飯……ご飯にビネガーをきかせて、その上に刺し身をのせて食べる食べ方だ」
リリベラの頭の中では、お皿の上にご飯を盛り、その上に魚がのっている映像が浮かび上がる。魚はピチピチ跳ねており、なんとも斬新な光景だ。
ここでは自炊をしなければならないようだから、ぜひともランドルフの好物を作ってあげたいが、料理初心者のリリベラにできるだろうか?
なによりも、生きた魚に触ることができるかどうか。
「ビビアンが刺し身とやらを仕入れてきましたら、私がランディにお寿司を振る舞いますわ」
「リリベラは魚がさばけるのか?」
刺し身の形状がわからないリリベラには、魚をさばくの「さばく」という行為もわからなかった。ビビアンも「生の魚をさばく」と言っていたが、ただ切るだけならば、リリベラにも出来そうな気がした。もちろん、今までの人生で包丁など持ったこともなかったが。
「頑張りますわ!」
リリベラが拳を握り、肘を曲げてガッツポーズをとった時、胸元を張るようにしたのがいけなかったのか、リリベラの成長期にボタンをとめていた糸が耐えきれなかったのか、プツンと音をたてて胸元のボタンが二つ程弾け飛んだ。
「あ……」
リリベラのランドルフへの好感度がマックスだったようで、リリベラの薄いピンク色のブラジャーまで丸見えになるという、サービスイベントに突入したようだった。
リリベラは慌てて腕で胸を隠そうとしたが、より一層胸の谷間を強調することになっているとは、リリベラは気がついていないようだ。
ランドルフは、自分のブレザーを脱いでリリベラの肩にかけた。
「とりあえず、これを着て」
「……はい」
リリベラがランドルフの制服に腕を通すと、ランドルフがブレザーのボタンを閉じていく。ランドルフのブレザーはリリベラにはかなり大きめで、ボタンを閉める時にリリベラの素肌に触れることもなかった。
こんなことなら、早い段階でシャツのボタンを閉めてあげていれば、偶然……なことも。眼福ではあったが、どうせなら指先だけでも……とくだらない後悔をランドルフがしていることなど、リリベラは知る術もなく、ランドルフの体温の残った、ランドルフの匂いのするブレザーに包まれ、リリベラは「ランドルフに抱きしめられているようですわ!」と、内心悶えに悶えて気絶寸前だった。
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