第4話「言い訳」

 目が覚めたら――私は人を殺していた。

 

 ――とか、そんな風な文言を私は嫌悪している。

 

 何が「目が覚めたら」、だ。

 

 責任放棄をするな、という話である。

 

 殺したなら殺したって認めろよ。

 

 私みたいに。

 

 実際私も『気付いたら』という表現を便宜上させてもらったけれど、確実に、彼らの心臓と思しき部位に手近な刃物(多分包丁だったと思う)を突き刺す感覚は残っているし、彼らの死に際の表情もはっきりと覚えている。

 

 ただ、断末魔は無かった。

 

 ざくざくと、余計に刺すことはしなかった。

 

 大体この辺りで良いだろうなとあたりをつけて、両親と妹の背後から、あるいは前方から突き刺すだけの簡単な仕事である。

 

 多分心臓の付近を。

 

 内臓逆位などではなかったはずだから、左胸に二、三度突き刺して終わった。

 

 それだけだった。

 

 意外とあっさりしていた。

 

 なんなら、毎日親からの暴言を浴びせられる方がつらかったくらいである。

 

 こうして私は、家族を殺害した。

 

 だから夜遅く、一人で逃亡しているという訳である。

 

 返り血らしき返り血は浴びなかったけれど、服を調べれば、きっとルミノール反応(最近小説で読んで覚えた)が検出されるのだろう。

  

 感想としては、人は簡単に死んでしまうのだなあ、という感じである。

 

 「プー太郎」がそうであったように、多数決で死が決まるような世の中である。

 

 人間三人の死なんて、そんなものだろう。

 

 しかし、殺しても案外何も思わないものであった。

 

 もっとこう、何というか――感傷にひたるものかと思っていた。

 

 例えばほら、虐待児が親を殺してせいせいしたとか、すっきりしただとか、連続通り魔が誰でも良かったと供述するだとか、何らかのカタルシス(というと遺族の方に申し訳ないが、もう私が殺した側なのでいいよね)があるものだろう。


 と思ったけれど、意外と何もなかった。


 前述の通り、ああ、死んだなあ、というくらいである。


 これは道徳の授業ではなく推理小説で習ったことだが、人は死んだら、人ではなく物扱いになるのだという。


 遺体を傷つけたら、器物損壊になるのだそうだ。


 私は器物損壊罪を被らないように、血を避け遺体を避け(遺体と死体の違いって何だろうと今更ながら思ったが、手元に電子辞書がないので断念した。誰か調べてくれ)、そして玄関で運動靴を履いて、ここまで走って来た――という具合である。


 ここまで。


 結構な距離を走ってきた。


 大体三十分くらい走ったように思う。ポケットに入れっぱなしのスマホも、今は確認しようとは思わなかった。両親から友達とは連絡を取るなと言われて、全員の友達登録を削除されてしまっているのだから。


 走ってきた道を振り返ると、点々と街燈が灯っていた。


 白い点であった。

 

 この道が果たして正しい道なのかは、誰も教えてはくれない。


 今のところ私の可聴域で聴きとれる限り、警察のサイレンの音は聞こえてこない。


 つまり、まだ露呈バレていないということだ。


 警察とか、そういうあれこれに。


 推理小説にも書いてあった。警察の検挙率は大したものだけれど、その裏には事件化されていない殺人もある。それらを全て防げている訳ではない――と。


 このまま私が逃げ切り、誰も殺人に気が付かなければ、あの殺しは事件にはならず、私は逮捕されない。


 なんて。


 まあ、そんなはずがない。


 母は専業主婦だけれど、父は仕事があるし、妹だって学校がある。仕事に来ていなければ職場から連絡が来るだろうし、登校していなければ担任から電話が掛かって来るだろう。


 ただ――今この瞬間は、


 


 その事実が、私を少しだけ、前に進めてくれる。


 少々小走りで走りながら、私はこれからのことを考えた。


 考えようとして、止めた。


 


 はっ。


 私にそんなものがあるはずがない。


 少なくとも私は、罪を犯したのだ。


 人を殺したのだ。


 刑法何条の何とかという事項で、裁かれるのだ。


 しかも家族となると、罪が重くなるんじゃなかったか。尊属殺人とか言って。


 ああ、いや、それは過去の話か。今の法律だと、確か関係ないのだった。


 そりゃそうだ。命に上も下もない。


 死ねば皆同じだ。


 「プー太郎」だって、皆の胃の中で消化されながらそう思っていたに違いない。

彼らの遺体には、何を思い浮かぶこともなかった。動かなくなった物であった。


 妹の遺体を改めてみた時には、少し感動もしたものだった。


 あの完璧だった妹でも死ぬんだ、妹はちゃんと人間だったんだ――みたいな感動はあったけれど、それくらいであった。


 人は死ぬと、汚いものになるんだと思う。


 実際、生きている時は耐えられたものが、死ぬと耐えられなくなった。父と母の体臭である。こんな臭い中で私は生きてきたのかと思って、遺体にその気持ちをぶつけようとして、何とか踏みとどまった。


 偉いだろう。


 器物損壊罪で訴えられてはたまらないからだ。


 人は死ぬと喋らなくなる。まさに死人に口無しである。このことわざは、どちらかというとマイナスの意味で用いられることが多いけれど、実際どうなのだろう。


 しゃべらないだけマシだ――と、私なんかは思ってしまう。


 大概、父と母は口を開けば私に対する罵詈雑言しか言えない。そんなものを聞くくらいなら、死んでいてくれた方がマシである。


 確かに、父がお金を稼いでくれて、母が食事を作ってくれて、私達は生活できている。その基盤を失うのは大打撃ではあるけれど、でもそんな父と母と、ついでに妹が死んだとしても、自動的に私が死ぬ訳ではない。そりゃ将来的には苦労することだろうし、警察に捕まれば一発でアウトではあるけれど、今の所は、その心配はない。


 実際こうして、今、生きているのだし。


 いや。


 ひょっとすると、生きることと死ぬこととは、そこまで離れた現象という訳ではないのかもしれない。「プー太郎」の例だってそうだ。多数決で死が決定する世界倫理。あのビデオを見て、クラスメイトのぶりっ子の女子の何人かは涙を流していたけれど――いやいや、そこは違うだろうという話である。


 そして人を殺してはいけないという法律があり、倫理があり、規範があるのに、それを当たり前みたいに破る人達は、いる。日夜殺人事件が報道されているのだから、それは間違いない。


 だったら――私のしたことは、大したことではないのかもしれない。


 法律を破った、ただそれだけなのだから。


 皆していることではないか。道端に煙草を捨てる若者が、店での迷惑行為を動画投稿サイトに掲載する生徒が、信号無視をする老人が、一体世の中に何人いるというのだ。その人たちと、究極的にはやっていることは変わらない。

 

 重要なのは、それが露呈バレていないということだ。


 露呈バレなければ、何をしても良い。


 


 いつも厳しい辛い苦しいと、現実ばかり押し付けて来る、そんな社会も、たまには良いことをするものだ。


 そう思いながら、私は走る。


 一体どれくらい走っただろうか――などという曖昧然とした言い方はできない。ポケットのスマートフォンで、時間経過はある程度把握できるからだ。


 ただし私は、それをしなかった。いつの間にか町外れまで来ていたらしい。徐々に街燈の感覚が開いて来ていた。夜だからか道が暗く、この辺りの土地勘は、正直うろ覚えである。それでもとにかく走った。距離を取った。


 きっと警察が遺体あららを見つけたら、すぐに一人分の遺体が足りないことに気付くだろう。そして私を捜索する。いや、そうでなくとも、私の場合は学校から連絡が入るか。


 走っても無意味だと知りながら、それでも走る以外の選択肢は、私にはなかった。


 この辺りは、小学校の頃に校外学習で歩いた道である。道――と言って良いのか、半分獣道で、近くの山へと通じている入口であった。


 ベンチがあったので、そこで一息ついた。




(続)

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