第2話「人生≠レール」

 息を吸って、吐いて、全身に満たす。


 足を前に出して、走る。


 一定の速度で。

 

 嫌いだった持久走の授業が、まさかこんな所で役に立つとは思っていなかった。


 学校の勉強って、役に立つのだなと――高校生になって初めて納得した。


 偉い人から言わせれば、学校の勉強を役に立たせるためにどうするかを考えろ――らしいけれど、そうかと思えば、学校の勉強は競争だ、だの、一致団結するだの皆はチームだーだの、人によって言っていることが違うのは、はてどういうことかと、学生ながらに私は思う。


 いや、分かっている。


 人それぞれ思惑があり、思想があり、思考があるのだ。


 ただ同時に、「なら正解はどれだよ」と大人を冠する人達に問い詰めたくなることもまた、事実である。


 無限とも言える言葉を繋げて私たち子供に好き勝手言っておいて、いざ選んだらそれは自己責任だのと自分で選んだ道だのと罵って来るではないか。


 自分で選んだ、道。


 果たしてそうだろうか。


 今、私が進んでいる道は、自分で選んだ道だろうか。


 よく人生をレールにたとえる例がある。そして自分自身は、その上に走る列車であり、止まることなく走り続けている――と。


 あの比喩は、実は私はあまり適切だとは思わない。


 何故なぜなら現実では、レールの分岐点は二つや三つではないからである。


 ならば転車台かと言われると、それもまた違う。


 転車台に乗っているうちは、電車は止まっていなければならない。


 しかし実際は――止まることなど許されない。


 一刻一秒が過ぎていくたびに、時は移ろい、季節は巡る。


 それっぽい歌詞にありそうな台詞であるが、事実である。


 誰も時を止めることなどできないのだ。


 そんな中で、今、私が選んでいる道が正しいのかどうか――それを指し示してくれる人はいない。


 ――


 ――


 いや、ひょっとしたら、今まで私がいた道こそが間違いだったのかもしれない。


 親からは、駄目だ駄目だと言われて育ってきた。


 大人の人達からしたら理解できないだろうが、子供の私には、親というのは世界みたいなものである。


 その世界から毎度のことのように否定されて生きてきた私の自己肯定感は、だから地の果てにあった。


 地の底と言い換えてもいい。


 常に私は、優秀で可愛い妹と比較されて生きてきた。


 レールは一本ではあったけれど、常に先を走る車両があったのである。無論一本であり、あちらの方が早い――つまり良い評価をされるのだから、先を越すことはできない。


 そして、こういう話において大概存在する優しい祖父母というのも、私にはいなかった。


 父方も母方の祖母も、優秀で可愛い妹の方を可愛がった。


 生存本能としては、当然だろう。


 優秀で、より良い子孫を残せる側を可愛がり、そうでない方を蔑み、虐げる。弱肉強食の世界である。


 だが――人間社会には「言葉」というものがある。


 言葉がある限り、本能のままに全てを履行することはできない。


 これでも私は必死に努力した。たとえ評価されなくとも、たとえ妹にかなわなくとも、落ちぶれないように努力して、頑張った。


 私がそう思いたいだけかもしれないけれど。




(続)

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