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小狸

第1話「プー太郎」



 人は、人を殺してはいけない。


 小学校の道徳の授業ですら扱うことのない、当然の規範である。


 規範というより最早摂理の方が近いのかも知れない。


 ともかく私は、足早に家から距離を取りながら、中学校の道徳の授業のことを思い返していた。


 命の大切さ、という主題テーマであったと思う。


 皆簡単に「死ね」だの「殺す」だのと日常的に言っている癖に、そういう頭でっかちな餓鬼ガキに限って、道徳の授業では、自分がどう発言すれば良いかを心得ている。



 中学二年生――内申点を意識し始める家の子は特にそうだろう。


 その主題では、食育の例が取り上げられていた――とは言い条、うちの中学校にはそこまでの金銭的余裕も敷地的余裕もないので、他の中学校が行った食育を例として、テレビ鑑賞することとなった。


 豚の「プー太郎」。


 名前を聞いたことのある人もいるのではないだろうか。


 ドキュメンタリー形式で放送され、「プー太郎」は愛されて育てられた。


 しかし、食べられるために育てられているのである。


 その愛情は限定付きのものだ。


 そして、「プー太郎」が養豚場へと戻される最後の日、学級会が開かれた。


 議題は、「プー太郎」を養豚場へと連れていくか、連れて行かずにここで育てるか、というものであった。


 簡単に言えば、殺すか殺さないか、を決めたのである。


 議論は白熱していた。


 女子の中には涙を流して「プー太郎」がいかに可愛い存在か、いかに自分たちが「プー太郎」を丹精込めて育ててきたかを主張アピールしていた子もいた。男子の中には食べられるべきだという意見もあり、学級会は阿鼻叫喚の様相を呈していた。


 テレビ局や当時の教師がそれをどんな意図をもって撮影したかは、定かではない。


 そして最終的に多数決が取られた。


 結果、僅差きんさではあったものの、「プー太郎」は養豚場に連れていかれることになった。


 それを初めて見た時、私は絶句したものだった。


 私の祖父母はまだ存命であったし、近しい人が亡くなったことがなかったから尚更、驚嘆せざるを得なかった。


 恐らく当時の学校の人達はこれで食の大切さを実感してもらおうという意図でこれを教材として選択したのだろうが、私にとって最も衝撃だったことは、別の所にあった。


 


 それまで、私にとって死とは、もっと絶対的で、それでいて強い力を持ち、私たちとは全く別の所で人々を葬り去っているものだった。


 少なくとも、簡単に目を伏せて挙手をして、決められるようなものではない。


 最高裁判所とか、戦争とか、、私たちとは縁のないものだと、思っていた。


 当時の私は、確かに浅慮だった。


 誰でも考えれば分かることだ。


 今日という日がいつまでも続くとは限らない。


 あの時教室の隣の席で、いつも鼻を隠れて穿ほじっていた何某なにがしかという男の子だって、次の日にはひょっとしたら車に轢かれて死んでいるかも知れない。そういう意味では、私はまだ幼かったと言える。


 幼いながらに――それでも私が初めて、死を身近に感じたのは、その授業が契機きっかけであった。


 あの時の――絶望感。


 常に浮遊していることをついうっかり忘れていて、いつの間にか落下していることに気付いたような――不意の、ぽっかりとした感覚。


 今の私は、そんなものに満たされていた。



(続)

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