非日常から日常へ
さて、関係性の清算というのは、その言葉通り、いっそ気持ちが良くて清々するようなものだと思っていたのだが、実のところ、現実ではそんなことはなかったらしい──という知見を、二十代も半ばになろうという歳になって、ようやく得られた俺こと、
誰か一人との恋愛関係が終わったからと言っても、それは世界が滅びるような事態には結びつかないし、何なら俺の仕事事情にすら、特に関与はしてこない。
精々が、俺の気の持ちようが、ほんのちょっとだけ変わったくらいなものである──本当に、たったそれだけのことだ。
だから、今日もいつも通りの日常が流れていた。
例えば、そう。
朝起きれば、隣で斑雪がすやすやと寝てたりな。
……。
…………。
………………。
「いや、うん、一瞬『全ッ然普通じゃねぇよ……!』とか絶叫しそうになったけれど、これが普通なんだよな……普通で良いんだよな? 何かちょっと不安になってきた」
あまりにも非現実的な現実は、時として人の脳みそをバグらせる。皆さんには今日、これだけは覚えて帰って欲しいですね。
あまりにも大変不可解な事象と直面しながらも、深い深呼吸を繰り返すことで、何とか落ち着こうとする俺だった。
心臓に悪いことはやめて欲しいとは、流石に言いづらい。
大体ここ、斑雪の家だし……。
斑雪との同棲生活は、未だに続いていた──と言っても、同棲生活が始まってから、何一つ進展していないのかと言われれば、もちろんそんなことはないのだが。
一晩の過ちじゃないよな? 酒に飲まれた訳じゃないよな? と、昨晩の記憶を遡りながら、特に問題なくこの状況を迎えたことを確認する。
わしゃわしゃと無造作に寝ている斑雪の頭を撫でてやれば、不満そうな吐息を漏らしながらも、ぼんやりと斑雪が目を覚ます。
ついで、じっ……と俺を見つめた後に、そっと口元を布団で隠した。
「……蒼くんのケダモノ」
「おい! 開口一番から誤解を招くようなことを言うのはよせ! どん底にあると言っても良い俺の株が、これ以上下がったらどうするんだ!?」
「別に、蒼くんの株はわたしの中でだけ、高ければいいからなあ……他の女の子とか、寄って欲しくないし。ついでに男の子も、仲良くしてたらちょっと嫉妬しちゃうもん」
「何お前急にめんど……可愛いこと言い出してるんだ?」
「いや隠しきれてない、隠しきれてないからね!? めんど……まで言っちゃってるよ!」
「おっと、失礼。つい本音が」
口元を手で押さえれば、枕でボフン! と殴ってくる斑雪だった。
可愛い抵抗である。
「ばかっ! 無神経っ! 脊髄反射発言男っ!」
「ねぇ、今反射で出てきたにしては、あまりにも的確過ぎる罵倒が混ざってなかった?」
普通にクリティカルだったんだけど。傷ついて倒れちゃったらどうするつもりなんだ。
一応、結構思慮してるつもりなんだけどなあ……。
どうやらそうは見えていなかったらしい。振り返ってもみれば、中々否定できない感じで困る。
いやでも、こいつらが勝手に人の顔から内心を読み取るのが悪いと思うんだよな……。
理不尽すぎる……。
伝えるつもりのないことばっかり伝わっているのは流石におかしいと思いました。
「だから、読み取ってるんじゃなくて、単純に蒼くんの顔に書いてあるんだってば。分からないかなぁ?」
「いやそういうところね、そういうところ。自覚してる? 俺の顔にはどんだけ長文が書かれてるんだよ」
何だろう、内心の台詞とか全部書き連ねられちゃってる感じなのかしら?
だとしたら、俺の顔面が文字列で埋まり尽くされてること間違いなしだった。
斑雪もうーちゃんも、普通に俺の顔とか文字で見えてないんじゃないの? ってレベル。
ちゃんと改行して文字と文字の間に間隔を作って上げた方が良いかもしれないな。
せめて目とかは見れた方が良いだろう──って、俺はどういう角度の配慮をしようとしてんだよ。
「大丈夫、蒼くんはちゃーんと、わたし好みの顔してるよ」
「まあ、お前結構面食いだもんな……」
「言い方が悪いなあ……偶々好きになった人が、偶然にもわたしの好みの顔をしてただけって言って欲しいなっ」
「噓も方便みたいなやり口だろ、それは……」
大体、メラビアンの法則を知らないのか?
人の第一印象は三秒で決まると言うし、その上、外見が55%を占めるんだぞ。
ちなみに残りの38%が声や話し方で、残りの7%が話の内容である。
中身とか吟味する以前の問題だった。
人は基本的に顔で好悪の印象を決めるものである。
「でも、それは第一印象の話でしょ? わたしと蒼くん、もう二年以上の付き合いになるんだから、中身だってちゃんと知ってるよ」
「まあ、そりゃ分かってる──痛いほど分かったけどさ」
何なら俺より俺のことに詳しい節まである斑雪だった。
羽染蒼検定とかあったら一級とか取ってると思う。
「だから、まあ、ありがとうって思ってるよ。助かったし、助かってるって」
「あはは、それもう何度も聞いたよ? そう言ってくれるのは嬉しいけど、そろそろちゃんと、もっと嬉しいことを言って欲しいな」
俺の頬に手を添えて、斑雪が小さく微笑んだ。
いつかのように誘うような笑みのそれではなく、華やぐような、期待するような──少女のような笑み。
流石にここで、ミスコミュニケーションを出すほど、俺も愚かではない。
どれだけ大きな気持ちがあったとしても、言葉にしなければ伝わらないことが、たくさんあるのだから。
「……好きだよ、斑雪のことが」
「えへへ……わたしも好き。そのちょっと照れてるところとか、可愛いなって思う」
「余計なことは言わなくて良いっての……」
ていうか別に、可愛いは誉め言葉ではないのだが……。
そういうことはエヴァあたりに言ってあげて欲しい。死ぬほど喜ぶと思うので。
「あーあ、今他の女の子のこと考えたでしょ? 分かるんだよって、何度も言ってるよ?」
「一瞬だからセーフとかにならないか?」
「なーりーまーせーんっ。他の女の子のことを考える時は、時と場合を考えなきゃダメですからね?」
「はいはい、仰せのままに」
「はいは一回で良いの──もうっ」
不意に、斑雪がどんっと飛びついてくる。
それを半身を起こしたまま受け止めれば、必然的に抱きしめるような構図になった。
「まだ付き合いたてなんだから、そういう機微も読み取ってね? あーおくんっ」
「ハードル高いな……善処するけど、顔に内心とか書いてみてくれないか?」
「あははっ、それはだーめっ。女の子は、秘密を着飾るものなんだから」
「物は良いようだな……まあでも、目移りはしないから。言葉にも、するようにするから」
「ん──なら、よろしい」
これからよろしくね、と斑雪が小さく言って。
俺はそれに、こちらこそと返す。
いつか──こういう非日常が日常になっていくのだろう、だなんてことを考えていたけれど。
案外早かったなと、独り言ちた。
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