大人の信頼


 と、まあ、そんな感じにワチャワチャとじゃれていたのだが、流石に体力の限界が来たのか、うつらうつらとし始めたエヴァを仮眠室へとぶん投げる。

 うちの事務所は社畜用にシャワー室も仮眠室も完備の、何ならここで生活できるんじゃないのって感じの事務所しか提供してくれないからな。


 至れり尽くせりと言えばそうかもしれないのだが、何とも言えないところである。

 馬車馬の如く働きなさいと言われているようにしか思えない。


 実際、かなりの頻度でお世話になったものである。

 今のコンディションで、当時に戻れと言われたら120%無理だと断言できるくらいだ──そのくらい、冷静に思い返すとヤバめな労働環境だった。


 良く過労死しなかったなと自画自賛したいレベル。


 ここまで来ると、ある意味、冷静になってはいけなかったのかもしれないなと思いつつも、一度冷静になってしまったのであれば、今更どうこうしようがないというものである。

 今の俺はもう、当時のような盲目的社畜には戻れない。


 そのことに一抹の寂しさを──


「いや、覚えないな。全然寂しくない。むしろ解放された感が強すぎて、戻れないまであるな」

「あは~、相変わらず深夜になると、独り言が多いですね~、マネージャーさんは~」

「そういう香耶さんこそ、かなりお疲れなんじゃないですか? 事務作業中は、基本的に口開かないでしょ」

「流石にこの時間になったらノーカンですよ~」


 あ、お茶とか飲みます~? とか聞いてくる香耶さんは、実に通常運転のように思えるが、その実だいぶお疲れ気味の様子であった。

 何かもう、椅子から立ち上がっただけでフラついてるもんな。


 見ていて心配になるレベルである。

 思わずそっと肩に手を置いて、座っててくださいと促してしまった。


「香耶さんの分も持って来ますよ、コーヒーで良いですよね?」

「はい~、ありがとうございます~。あ、それと~」

「砂糖は三つ、ガムシロは一つ、でしょ。言われなくても分かってますって」

「あは~、さっすが~」


 分かってますねぇ~と嬉しそうに香耶さんが言う。まあ、流石にもう二年近く一緒に仕事をしていれば、そのくらいは覚えるというものだ。

 新卒の俺に、お茶の淹れ方から教えてくれたのは他でもない香耶さんだしな。


 今時、お茶出しは女性がするもの、なんて考え方は古いですからね~とニコニコしながら毎日練習させられていたことを思い出す。

 今思えばアレは、普通に俺が香耶さんに奉仕させられてただけであるのだが、まあ、そう悪くない経験ではあっただろう。


 そんなことを考えながら、コーヒーサーバーから出力された真っ黒な液体に、砂糖をばら撒きガムシロを投入してやった。

 それをクルクルとかき混ぜてから、自身のマグカップも一緒に持って席へと戻る。


 香耶さんへと手渡しながら、自分も座って一口すする。

 う~ん、苦い!


「マネージャーさんは、珍しく何も入れなかったんですね~?」

「まあ、俺はもうちょっと起きてたいんで。苦みで眠気を追い出してやろうかと」

「夜更かしは美容の天敵ですよ~?」

「そう思うなら、香耶さんもさっさと寝た方が良いんじゃないですか? 折角の美貌が危ぶまれますよ」

「あらあら、そんな心配をするだなんて、マネージャーさんも少しは大人になったみたいですね~。……情緒はいつまで経ってもお子様ですけど~」


 余計な一言過ぎだった。何だよ、情緒がお子様って。

 まるで人の情緒がスーパーボールみたいに喧しいと言わんばかりの言い分なのだが、まあ実際ここ最近の俺の情緒は、ちょっとコントロールできないくらいには乱高下しているので、否定しづらいのが難点である。


 でもこのスーパーボール、ぶん投げてるのは俺じゃなくって、付き合っていた彼女とか、俺を押し倒した担当アイドルとかなんですよ……。

 これはもう、逆説的に彼女たちこそが真の子供と言えるのではないだろうか? そんな訳ないですね、はい。


 子供にしては邪気がありすぎである。

 もっと浄化されて欲しいものだ。


「でも、いつまでもお子様ではいられないですからね~。マネージャーさんも、ようやくその時が来たんじゃないですか~?」

「さて、どうなんでしょうね……」


 フッと意味深に笑って返してみせたのだが、本気でどうなんでしょうね? って感じだった。

 何なら子供は既に卒業したつもりでいたし、一端のとは言わないが、最低限大人の人間をやっているつもりでもあったので、然もありなんといったところである。


 香耶さんからしてみたら、俺はまだまだ子供らしい。

 大して歳は違わないはずなんだけどなあ……。


 まあ、信頼がどうのと右往左往しているのは、あまり大人らしくないと言えば、そうかもしれないのだが。


「まあ私としては~、正直面白いことになってきたな~って思ってるところがないと言えば、嘘になりますけど~」

「おぉ……普通に性格が悪い人だ……」

「うふふ~、エヴァちゃんも言ってましたが、他人の恋バナは見て良し、聞いて良しですからね~」

「完全栄養食かなんかかよ……」


 こころなしか、お肌もつやつやっとしている香耶さんを見ていると、本当に何かしらの栄養がありそうだなと思った。


「だけど、そうですね~。こんなに楽しませてもらってるのに、見物料も払わないのはどうかとも思うので、ちょっとした思考のとっかかりくらいは差し上げますよ~」

「ははぁ、動機が最悪ですけど、貰えるものは貰っておきますか」

「はい、頂いてください──マネージャーさんは、少し被虐的過ぎるところがありますよね~?」


 何事も、結局は自分が悪いだとか。

 あるいは相手がなにかをしでかしたとしても、そうさせてしまった自分が悪いだとか。


 そういう思考が散見されます~、と香耶さんは言う。


「それは必ずしも悪いことではないと思いますし、マネージャーさんの魅力でもありますけど、やはり欠点ですよね~。この場合は特に、です~」

「この場合?」

「ええ、はい……だって信頼って、そもそも二人の間で成り立つものですから~。究極的なことを言えば、どちらかだけが悪いってことはないと思いますよ~」


 信頼というのは、無条件に互いを預け合うことに等しい。

 けれども、それは互いに同じだけ預けているからこそ、成り立つものでもある。


 俺たちの場合は、どうだったのだろうか。

 果たして、信頼の天秤は、吊りあっていたのだろうか──。


「そういうことも考えてこそ、大人ですよ。マネージャーさん~。さて、それではもう一仕事頑張りましょうか~!」


 再び思考の渦に飛び込みそうになった俺の手を引っ張りながら、香耶さんがにこやかに笑う。

 どうにも先読みされていたらしい──なるほど、これは確かに俺よりは大人だなと、そう思った。


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