彼女のお名前
「わたしは……私は! 貴方が選んでくれたら、それだけで、他のことは全部切れるのに……!」
やたらと情感の込められた、切なげな声を響かせたのは、やはり斑雪れんかであった。
白雪のような色をした長い髪を揺らしながら、膝を折り、スマホを握りしめている。
普段の和らげな彼女からは想像もつかないほどの激情で、その慟哭には、ただ見ているだけの俺ですら圧倒される──というと、如何にも他人事のようであるのだが、実際他人事なのだから仕方がない。
正直、今の斑雪の俺に対するスタンス的に、言われてもおかしくはなさそうな台詞であるのだが、有難いことにそんなことはなかった。
であれば、一体誰に向かって言っているのかと言えば、それはまあ……俺以外の人間になるだろう。いや、あるいは視聴者だろうか。
と、まあ、ここまで言えば自然と分かるだろうが、これは映画の撮影である。
斑雪はアイドルではあるが、最近はこういう役者としての仕事も増えてきた──年齢的にも、事務所の方針的にも、そちらに少しずつシフトしてきている。とも言えるが。
斑雪は今年で22だ。アイドルに年齢制限があるとは言わないけれど、それでもこの世界では、25を超えればおばさん扱いである。
言ってしまえばこの業界は、世代交代のサイクルが異常に早いのだ。
だから、歌って踊れるアイドル以外にも、強みを作っておくに越したことはないという訳である。
まあ、もちろん世の中に例外は腐るほどあるのだが……。
それに必ずしも該当するような人間は、やはり少ないから──そういう、シビアな世界なのである。
そんな訳で、カメラに囲まれた中、斑雪が演じているのは『これは禁断の恋なりや?』という恋愛もののヒロインであった。
とある主人公がある日を境に、関係を結んではいけない相手──例えば実妹、友達の彼女、学校の先生に迫られる……というのが大筋だ。
原作は恋愛ゲームであり、それなりにヒットした作品を今回、実写化している訳だな。
最近は実写化も増えて来たよなあ、などと暢気に見ているのも束の間、「カットー!」という監督の声が響いて、現場の雰囲気が少しだけ緩む。
疲れた様子でこちらに戻って来た斑雪を椅子に促し、水を手渡した。
「お疲れさん、結構良い調子なんじゃないか?」
「ありがと……ねぇ、今気付いたんだけど、蒼くんが撮影で褒めてくれる時の語彙って、基本的にそれしかなくない?」
「まあ、冗談抜きで演技の善し悪しとか分かってないからな。お前のマネージャーは、担当の調子の善し悪ししか見抜けないことに定評があるぞ」
「それで本当に見抜くんだから、その内演技も分かりそうなものなんだけどなあ……」
ていうか、実は演技も分かってるんじゃない? と斑雪は続けたが、残念ながら本当に分かっていなかった。
大体、調子の善し悪しが分かるのだって、別に観察眼に優れているとかじゃなくって、どれだけ長いことその人を見ているかってだけだしな。
……まあ、それでも元カノの浮気は見抜けなかったんですけどね? ミスター節穴とは俺のことである。
「うわっ、静かに自分で自分の地雷を踏んだ時の顔してる……」
「だからお前は俺の顔から心情を読み取りすぎだ……」
「えへへ、わたしの観察眼も中々なものでしょ? 蒼くん限定だけどね」
「才能の無駄遣いが過ぎるだろ……」
とはいえ、才能だなんて括りを使ってしまえば、斑雪はそれこそ、未だに沢山の才能を眠らせている人間ではあるのだが。
まあ、芸能界で活躍している人間なんて、大なり小なりそういう性質があると言われれば、その通りではある。
「……ね、わたしの寿命って、後どれくらいかな」
「…………お前な、主語をぶっ飛ばして、いきなり劇薬みたいな質問投げてくるのはやめろ。短く見積もったらあと二年。長く見積もったら一生だ」
ちゃんと頭に「アイドルとしての」ってつけろよな……とジト目を向ける。
「あはは、ごめんごめん。でも、そっか。短かったら後二年かあ……」
「怖い目をして言うのはやめろ。本当に二年で辞めたら、俺の首がまあまあ怪しいの分かってる?」
「大丈夫だよー、その時はきっと、エヴァちゃんが活躍してるから」
「その時まで、俺がエヴァのマネージャーやってる可能性の方が低いんですけどそれは……」
別に家族でも無ければ恋人でもない十代女子の、仕事による多大なストレスが圧し掛かった上の機微や情緒に、ベストな対応が出来る人というのは多くない。
それも、異性であれば猶更である──今でこそ、俺が担当しているのは人手不足というのもあるし、俺がスカウトした人材だからというのが大きい。
エヴァが日の目を見る見ないに関わらず、あと一年もすれば、俺の担当ではなくなるだろう。
ていうかプロデューサーならまだしも、マネージャーって基本的に同性の方が都合が良いものだしな……。
斑雪がそうじゃないのは、それこそ斑雪の要望だからであり、それ以上の理由はない──意外でもないと思うが、俺の立場はそのくらいの雑魚だった。
割とスパッと切られる側の役職である。世知辛いもんだな。
「ふふ、でも二人揃って無職になるのも良いかも……とか思わない?」
「思う訳あるか、不安とストレスで胃に穴開いちゃうから。俺の耐久力を高く見積もりすぎだ」
「君こそ、自分を低く見積もりすぎだと思うけどなあ──」
例えばさ。と、斑雪が言葉を続けようとしたところで、俺のスマホがブルルと震える。
俺の臆病さがうつった……という訳ではなく、普通に着信だ。
悪い、ちょっとタンマ。というジェスチャーをしてから、ピッと電話を繋いだ。
相手は香耶さんだった。
「はーい、お疲れ様です、羽染です」
「お疲れ様です、マネージャーさ~ん。ごめんなさい、撮影中に~」
「今は休憩なんで大丈夫ですけど……」
何かありました? と聞けば、「んん~っ」と困ったように香耶さんが唸る。
それから囁くように言った。
「マネージャーさんにお客さんが来てまして~、今すぐ会いたいって仰られてるんですけど~……」
「えぇ、こわ……。俺、何かしましたっけ……どこの人ですか?」
「それがぁ~、企業の方ではなくて、個人でいらっしゃってて~……」
「個人?」
激烈に嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
言わなくて良いです、あと帰って良いですか? と反射的に言う前に、香耶さんが静かに言った。
「
ああ、嫌な予感が当たったなと思う──何せ、ご存知も何もない。
神渡うららは、俺の元カノである。
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