襲わない理由
──傷心中の人間に、付け込むような真似をするのは、果たして悪なのだろうか?
もしも、そんな問いかけを百人にしたら、多分半分程度は「悪だ」と答えるのだろうし、もう半分程度は「悪ではない」と答えるのだろう。
それくらい、答えを出そうとしても意味のない問いかけで、世の中には数えられないほど存在する、下らない問題の一つだ。
結局はその人次第と言えるだろうし、状況次第とも言える。
答えは出ない──明確な答えが、この世のどこにも用意されていない。
そういった類の問いかけであり、思考遊びのようなものではあるが、それでも今、わたしは──斑雪れんかは、「悪ではない」と、胸を張って、声を大にして言える。
それはもちろん、自身の気持ちを肯定する為ではあるが、しかし、それだけではない。
流石のわたしも、そこまで利己的な動機だけで、そんなことは言い切れない。
だから、なぜ今わたしがそう言えるのかと言えば、それは言うまでもなく、隣でハンドルを握っている彼──
つい先日、しばらく付き合っていた彼女に裏切られた彼の心には、新鮮かつ大きな傷がつけられていた。
果たしてそれを、黙って見過ごすことができるだろうか?
しかも相手は、本ッ当に不本意ながら、わたしの意中の相手なのである。
今思えば、一目惚れに近い形でもあったので、ざっと二年ほど恋心を抱き続けてきた人でもある。
それくらい好きな人が、軽く自分を見失いかねないレベルの傷を負っていると来た。しかも、彼女に裏切られたという形で。
それを今、誰よりも近い場所で、しかもわたしだけが知っている。
そんな状況を前にして、果たして我慢などできるだろうか?
いや……無理でしょ。
こんな絶好のチャンス(なんて言い方は良くないとわたしも思うけれど、実際そうなのだから仕方がないと思う)を逃す手はない。
恐らくというか確実に初めて見た、自暴自棄かつ泥酔状態の蒼くんを、わたしは超迅速に家に連れ込んだ。
あの日の高揚は今でもわたしの中にあるくらいで、収まる気がしない──そうしてわたしは、蒼くんを押し倒した。
そこから先は、まあ、知っての通りだと思う。
彼はかなりしっかり眠りに落ちて、翌朝を迎えた。
けれども、あの日何故その先まで進まなかったのかと言えば、それは蒼くんが寝ていたからだなんていう、ちゃちな理由ではない。
蒼くんはこう見えて、責任感が誰よりも強い人だ。ついでに言えば、わたしのことだって、嫌いではない──むしろ好きなくらいだろう。
ビジネスだとしても、二年間も四六時中、一緒の時を過ごしてきたのだ。
そのくらいは分かる。ただでさえ、わたしは他人の『好き』を集めるような仕事をしているのだから、人一倍その感情には敏感な自負がある。
もし仮に、わたしが勝手に襲っていたら、蒼くんはかなりの渋面を浮かべつつ、それでもわたしを受け容れてくれただろう。
だから、そうしなかったのは、偏に彼が泣いていたからだった。
性別関係なく、人は大人になると、泣くのが難しくなる。
それも蒼くんは意外と、公私をしっかり分けられるタイプの人で、これまで私情を仕事に持ち込むことなんて、一度もなかった。
そんな蒼くんが泣いている──お酒に溺れて、眠りに落ちて、やっと涙を流した。
それを目の当たりにして、慰めたいと思うのは、人として自然なことではないのだろうか。
傷ついた人に寄り添いたいと、支えてあげたいと、癒してあげたいと。
そう思うのは、きっとおかしなことではない。
ただでさえ、強引に手を引っ張らないと、休みさえしない人なのだから。
……もちろん、無理矢理同棲なんてしているのだから、その先を考えてないとは、口が裂けても言えないけれど。
まだ、不意に涙を流してしまうくらいには、傷ついている彼を、すぐさまを襲おうとは思えない。
「ま、それはそれとして、今すぐ求めてくれるなら、わたしはいつだって応えられるんだけどね?」
「妙に静かだなと思ってたところで、いきなり怖いこと呟くのやめない? ビビるから、どうするんだ事故ったら」
未だに目を赤くしたままの蒼くんが、けれどもいつも通りのテンションで返してくれたことに、ちょっとだけホッとする。
相変わらずの切り替えの早さ──いや、これは取り繕ってるだけかな?
何にせよ、大人をやるのが上手だなあと思う。
同時に、そういうところが愛おしいとも。
「……ふふ。好きだよ、蒼くん」
「そうか、サンキュー。いつか引退した頃に、もっかい言ってくれや」
「返答が完全に、親戚の子供に告白された時のそれなんだけど!?」
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