事情通な事務員さん
きっちり二時間後。
斑雪はレッスンへと向かい、小さな事務所には俺と事務員さんだけが残されていた──この事務所に常駐しているのは、基本的に俺たちだけだ。
本社はまた別にあって、それぞれ事務所を各所に借りている形となる。
都心に良くあるビルの、一室を借りている感じだな。
言うほど大きくもなく、新しくもないビルの、真ん中に位置する平凡な事務所である。
その中で、俺は事務員さん──長い金髪を後ろで一纏めにしている、
「斑雪ちゃんから、先に聞いてたんですよ~」
と、分かっていたかのように、答えを返して来た。
それなり以上に衝撃的な内容になる、俺たちの関係性についても、驚愕の一つも見せはしないで。
机を挟んで向かいに座っている香耶さんは、実に気楽な様子で、コーヒーなんかを一杯あおりながら言う。
「まあ、元々斑雪ちゃんが、マネージャーさんのことを好いてたのは見てても分かってましたし、何なら相談までされてましたから~」
「人に相談とかするタイプなんだ、あいつ……」
「いやいや、滅多にないことですよ~。斑雪ちゃんは何でも、一人でやれちゃう子なのは知ってるじゃないですか~?」
だから一層、気にかかってたんですよね~と実にフラットな様子で、
まるで俺と斑雪の妙な関係性を、問題視していなさそうなテンションだった。
いや、いいや。
実際にそれは、気にしていないのかもしれないのだが。
「それとも、『二人だけの秘密』って事実に、ひっそり興奮でもしてましたか~? でしたら、残念でしたねぇ」
「誓って言いますけど、そんなことはないですからね? あの、ちょっと? 香耶さん? 本当ですからね?」
何なら一回たりとも望んだことのない状況に陥っている訳だが、香耶さんは非常に疑わしいと思っているのが、ありありと分かる目を向けて来るのだった。
なにこれ、超居心地悪いんですけど……。
しかも、もし俺が逆の立場だったとしたら、似た態度を取っていただろうなとは思うので、文句も言いづらかった。
いっそのこと、ここで香耶さんの口から上の方に伝わって、社内的にアレコレ処理された方が、もしかしたら総合的には幸せなのかもしれないな──と、社内的な意味での死を覚悟を決めていたら、心底呆れたようなため息が室内に響いた。
もちろん、発生源は俺ではない。
となれば、後は香耶さんしかいないだろう。
「もしかして、私が色々バラしちゃうとか、そんな失礼なことは考えてませんよね~?」
「なっ、なななっ、にゃにを仰っているのか、全く分かりませんねェ!?」
「自白してるも同然の台詞ですね~……」
自分でも恐ろしいくらい分かりやすい反応だった。超噛んでるし、声が超裏返っていた。
「大丈夫ですよ~……ええ、本当に。私って、意外と義理も口も固い方なんです~」
「それはそれで、どうかとも思いますけどね。俺自身だって、現状をただ好ましいとは思ってないので」
「……あは~、もう二十代半ばなのに、童貞みたいなこと言いますね~、マネージャーさんは~」
「急に言葉の切れが鋭くなったな……」
触れるもの皆傷つけそうな切れ味だった。俺とか既に出血してるからね。
だいたい、童貞みたいって何だよ。
常識を弁えていると言って欲しかった。
いや、脅しに屈している時点で、弁えるもクソも無いのだが……。
「それとも~、本当に童貞さんでしたか~?」
「馬鹿言っちゃいけませんね、俺ももう大人ですよ? そんな訳ないじゃないですか」
「練習したのか疑いたくなるくらい、流暢な返しだ~……」
「……クソッ!」
何言っても百倍返しみたいな返答をされるんですけど!
この人には一生勝てないなと思わされた瞬間だった。
「まあ、私は童貞さんでも構いませんけどね~? 処女や童貞を卒業したからと言って、何かが変わるほど人って簡単じゃありませんし~」
「いや、あの、うん……言いたいことは概ね同意できるんですけど、香耶さんも女の子なんですから、もうちょっとくらい語彙を選びませんか?」
斑雪と言い、香耶さんと言い、直截的な言葉遣いしか出来ない女しか俺の周りにはいないのかよ。
あるいはそれを、遠慮しなくても良い仲と思われている可能性も、なくはないのかもしれないが……。
喜んで良いのかは微妙なところだった。
異性として見られていなさぎる……。
別に恋愛対象として見られたい訳ではないが、そういう線引きくらいはして欲しかった。
「私としては、マネージャーさんが遠回りすぎるだけなように見えますけど~?」
「まあ、社会人なんて慎重過ぎるくらいでちょうど良いですからね」
慌てて何でも自己判断で済ませてたら、いざって時に上司に責任ぶん投げられないし。
何でも保険をかけて損はない。
「だから~、その煮え切らなさが良くないって言ってるんですよ~」
「さっきから罵倒が多くない? そろそろ傷ついちゃうんですけど……」
「罵倒じゃなくって、事実ですから~。だから、敢えて言うんですけど~」
不意に、胸倉を掴まれた。反応できないくらい咄嗟かつ、軽やかな動きで俺は、華々香耶に馬乗りされていた。
ソファが二人分の体重を受けて、ギシ……と小さく悲鳴を上げる。
香耶さんの、うちのアイドル達と並んでみても見劣りのしない、端正な顔が間近に迫って鼻先が触れ合った。
「斑雪ちゃんを泣かせたら~、その時は私が斑雪ちゃん、貰っちゃいますからね~?」
「──なるほど。そういう感じですか」
「はい、そういう感じです~。あっ、でもですね──」
変わらずニコニコとしたまま、香耶さんは俺の頬に手を添える。
「もし斑雪ちゃんが嫌になったら~、マネージャーさんが私のところに来るっていうのも、アリですからね~?」
「は?」
「実は私~、どっちでもいけるんですよ~」
特に、マネージャーさんなら大歓迎です──と、耳元で囁かれるのと、
「だ、だめー!」
という声が響いたのは、ほとんど同時のことだった。
頭が急に後ろに引き寄せられて、やたらとふくよかな感触が後頭部を走る。
ついでに視界の端を、綺麗な白髪が揺れて行った。
「蒼くんはわたしのものですからっ、香耶さんにだって渡せません!」
「あらら~、そうらしいですよ? マネージャーさ~ん。精々、頑張ってくださいね~?」
息を切らした斑雪に抱き寄せられる俺と、それをニコニコと眺める香耶さん。
どうやら香耶さんは、この状況を作りたかったらしいということに、ようやく気付いてため息を出るのだった。
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