4. 臭い森
「城塞都市じゃないんだ」
異世界の街と言えば分厚い壁に囲まれた都市を想像するけれど、郊外に向かうにつれて家がまばらになるだけで街と外の明確な区切りが無かった。魔物が生息する世界なのに、襲ってきたらどうするのだろうか。
王都は北部に城があり高い山を背にしている。
南部から東部にかけては草原が広がっていて整備された街道が通っている。畑や牧場などの生産系の施設もその街道沿いにあるそうだ。
そして俺が今進んでいる西部には荒野の先に深い森が広がっている。
通称『臭い森』
森と言えば普通は様々な自然の恵みの宝庫なのだが、あまりの激臭がゆえ誰も近づけず王都の近くにあるにも関わらず未開の地になっているらしい。
そんな森の近くに王都を作るなよと思いたくもなるが、その森が臭くなったのは十年ほど前からだと言うのでは仕方ない。
「待て」
森へ向かう街道の途中に交番のような小さな建物があり、その中に居る人に止められた。
「この先は臭い森だぞ」
「はい、依頼で採集しにいくつもりですが、ダメでしたか?」
「探索者か……」
胸当てや手甲などの軽い鎧を身に着けた、濃い髭ダンディなオッサンだ。
「あの森に行ったことがあるのか?」
「いえ、今回が初めてです」
「なら止めた方が良い」
「あはは、皆からそう言われます」
「だろうな」
探索者ギルドの受付のお姉さんも、探索者向けショップの店員さんも、宿の人も、誰もが止めようとする。宿の場合は他の人の迷惑になるかもしれないからだろうけれどな。
「それで俺は通っちゃダメなのでしょうか」
「いや、知ってて向かうなら構わんぞ。俺はあそこに間違って人が入らないようにここで注意してるんだ」
「お疲れ様です」
そんな仕事もあるんだな。
でもそれって誰も来なかったらやることないのでは。めっちゃ暇そうな仕事だ。
「暇じゃないぞ。あの森から出て来た魔物を処理する役目もあるからな。何も起きていないときは訓練だ」
「あぁ、騎士団の方でしたか」
心を読まれたのかと思ったが、こっちの表情を確認もせずに言ったので最初からそこまで言うつもりだったのだろう。もしかしたら他の人からも暇な仕事だと何度も言われていて、だったら最初から説明してしまえってことなのかも。
それにしても騎士団か。
初めて会ったけれど、確かにこの髭ダンディさんは素人目に見ても強そうな風格がある。
「魔物が出てくるのですか?」
「時々な。お前さんは戦いの心得が無さそうだから、魔物を見つけたらすぐに逃げるんだぞ」
「もちろんです!」
「探索者をやっているのに全力で逃げの姿勢はどうなんだ……」
だって俺まだ戦いに関しては初心者だし。
そっちはもっと生活が安定してから考えます。
「まぁ戦わないならそれで良い。だが気をつけろよ、あそこはあまりの臭いで動けなくなるから、その隙を狙われる可能性もある」
「そんなにですか」
「ここから進むと徐々に臭いが漂ってくるから行けそうか判断しながら慎重に進め。決して無理はするなよ」
「はい、ご忠告ありがとうございます」
スキンヘッド筋肉といい、髭ダンディといい、良いおっさんが多いな。俺はうだつのあがらないダメおっさんだったのにこの差は何だ。いや、この世界ではまだ俺は若造だからこれからか。
街道は騎士団のおっさんが居た建物を過ぎるとすぐに途切れていた。正確には整備されている街道が無くなり、獣道風の作りに変わっていた。
「うっ」
きたきたきたきた。
そよ風に乗って気持ち悪い香りが漂って来たぞ。
今のところは生ごみを煮詰めたような感じで少し吐き気がする程度だ。
生ごみ煮詰めたことないからしらんけど。
しかしまだ森はかなり遠いぞ。
目測だけれど四百メートルくらいはありそうだ。
「うっぷ」
更に近づいたら臭いが濃くなった。
ここまで酷いと何かの臭いに形容するのが難しい。敢えてイメージするなら未処理の下水を数か月間発酵させるとこんな感じになるのだろうか。
しかしこれでもまだ森までは二百メートルは離れている。
これ以上臭くなるなんて耐えられそうに無いぞ。
自然と歩みも遅くなり、それすなわち臭い空間に滞在する時間も長くなるということ。時間が経てば少しは慣れるかなと思ったのに全く慣れる気配が無い。
耐えに耐えたけれど、残り百メートルくらいまで近づいたら一気に臭気が強くなった。
「くっせええええええええええ」
まだ嘔吐してないのが奇跡的。
刺激臭ではなくて単に臭いだけなので目が染みるとかそういうことは無いのだが、その単なる臭さが酷すぎて全身が痙攣しかけている。臭いというのは人間にとって危険である証と聞いたことがあるが、ギルドのお姉さんの話によると害はないそうだ。
これが有害でないなんて信じられん。
口呼吸なのに臭みを感じて吐き気がするとか、本当に勘弁してくれよ。
あまりの臭さに不平不満を覚えながら少しずつ歩いていたら、突然の森の方から強風が吹いて来た。
「オエエエエエエエ!」
ついにやってしまった。
胃の中の物を吐き出す……ってそういえばこの世界に来てからまだ何も食べてないから胃液しか出てこない。
そして吐いている途中にも息を吸って臭い空気が肺に送り込まれて更に吐き気が増す最悪の無限ループ。
「オエエエエエエエ!」
ぎゃああああ、間違えて鼻呼吸しちまった。
死ぬ、死ぬうううう!
臭すぎて死ぬうううう!
でも死因が臭死とか嫌だ!
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、くっせええええ、体中に臭いがこびりついてやがる」
森を目の前にして、もう無理だと離脱してしまった。
臭いが届かない範囲まで脱出したはずなのに、俺自身から臭いが漂っていて気分が全く良くならない。
「はっはっはっ、やっぱりダメだったか」
「あんなの無理に決まってるだろ!?」
「おい馬鹿、こっちくんな。斬るぞ」
「酷い!」
親切なオッサンも臭いを前にしたら敵になってしまうというわけか。
まぁ俺だってこんな臭いやつが近づいて来たら速攻で逃げるし、墓下みたいな奴だったらぶん殴ってるだろうから当然の反応か。
「それにしても、初めてであそこまで近づくなんてやるな。大抵の奴らはもっと手前でギブアップするもんだが」
「森まで辿り着けた人っているんですか?」
「いるらしいが、俺は見たこと無い」
「そうですか……」
だとするとあの森で取れる素材は貴重なのでは。俺が狙っている花も一株五百セニーどころかもっと高くても良いと思うが……
これ以上高くすると無茶する人間が増えて臭死という情けない死者が大量発生するかもしれないから敢えて低く設定している可能性もあるな。
「うし」
「お、まだ挑戦するのか。奇特な奴だ」
「取って来ないと稼ぎゼロですから」
諦めて他の依頼を奪い合うか、それとも地獄のような臭さに耐えて頑張るか。
正直なところ諦めたい気持ちがかなりあるが、かなり近づいたのに引き返してしまった悔しさもある。
このまま稼ぎがゼロで良いのかとか、一度成功すれば二度目は楽に行けるのではとか、そろそろ慣れてくれないかなとか色々と考えた結果、もう一度だけ挑戦することにした。
「そんなお前さんに朗報だ。あの臭いって少なくとも一日中嗅いだ程度じゃ慣れないらしいぞ」
「どこが朗報ですか!」
「諦めて苦しまないようにしてやろうってんだ。朗報だろ」
「絶対取って来る」
「はっはっはっ。なら行く前に深呼吸でもして綺麗な空気を吸っておいたらどうだ」
「確かにそれは名案ですね」
深呼吸は気分をリフレッシュさせるのにも効果があるからな。
再突入する前に気合を入れるためにもやっておくか。
「すぅ~オエエエエエエエエ!」
自分の体が臭い事を忘れてた……
「あひゃひゃひゃ、ば~か」
この野郎、分かってて深呼吸を勧めやがったな。なんて性格が悪い奴だ。そっちがその気ならこっちにだって考えがある。
「おい馬鹿こっちくんな!オエエエエエエエ!」
ムカついたから近づいてやったわ。
せっかく異世界に来たんだ、険悪なケンカは嫌だが少しばかり感情を解放してちょっとやり返す程度なら別に良いよな。
――――――――
「オエエエエエエエ!」
何故だ、まだ二百メートル以上もあるというのに、もう嘔吐してしまった。
さっきよりも遥かに臭いが強くなっているように感じられる。
チクショウ、だがこの程度で負けてなるものか。
墓下の顔を思い出せ。怒りを呼び起こし気合を入れろ。
墓下の言葉を思い出せ。悔しさを呼び起こし根性を出せ。
墓下の香りを思い出せ。あいつワキガでめっちゃ臭かったよな。
おっと風が吹いて来た。
もう油断はしないぞ。
臭いが強くなると分かっていれば気を強く持って耐えることが
「オエエエエエエエ!」
出来ませんでした。
チクショウ。
まだだ、まだ倒れん。
一度嘔吐すると無限ループ嘔吐で体力が大きく削られるから、もうこれ以上は吐いてはダメだ。今回復帰出来たのも偶然にすぎない。次嘔吐したら、嘔吐しながら這いつくばって撤退する最悪の敗北が待っている。
「グフッ……グウッ……」
気を強く持て、絶対に吐くなと食いしばれ、これが俺の異世界での最初の戦いだ。絶対に勝利して稼いでやるんだ。
着いた。
ここが森の入り口。
目的の臭い薬草は奥に入らなくても見つかるらしいが、どこだ、どこにある。
視界が歪む、吐きたい吐きたい吐きたい吐きたい。
「ううっぷ」
あぶねぇ!
諸悪の根源がすぐ近くにあってトドメを刺されるところだった。こんなところで気を失ったら間違いなく死ぬぞ。
臭い森の臭いの原因。
それは森に生えているキノコのせいだ。
くすんだ赤色をベースにし、白い水玉模様が特徴的なシイタケのような形のキノコ。それが森の中に大量に生えていて、臭気ガスを吐き出している。
これを街に持って帰ったらテロ扱いで死刑もありえるらしい。
あった。
間違いなく臭い薬草だ。
「うっ」
薬草を摘むには腰をかがめて地面に近づかなければならない。
臭悪キノコの多くは地面に生えているため、臭気は地面に近い方が濃い。
「ぬむううううううう!」
臭気を我慢しようと思ったら変なうめき声が出てしまった。
だがそのおかげか、どうにか一株採集することが出来た。
だがこれではまだたったの五百セニー。
これだけ頑張ってここまで来たのにそれだけの稼ぎというのは納得できない。
うう……うう……
どうして俺はこんな目に遭ってまでお金を稼いでいるのだろうか。
情緒不安定になりそうな心を必死に抑えて薬草を探す。
その結果、どうにか十三株採集することが出来た。
「もう無理!」
十三株あれば六千五百セニー。
素泊まり五千セニーなので、宿代くらいは稼げた計算だ。
これ以上この臭いに晒されていたら本気で死んでしまいかねない。
俺は逃げるように森から脱出した。
ちなみに騎士団のオッサンは消えていたからオッサンの椅子に服をこすりつけて臭いをマーキングしてから街へ戻った。
「いやああああああ!」
「オエエエエエエエ!」
「こっち来るな馬鹿野郎!」
「誰か騎士団を呼んで!」
「わああああんお母さああああん!」
「近づいちゃダメ!」
「わぁお」
阿鼻叫喚とはこの様子の事だろうか。
誰もが俺から離れて行く。
そりゃあそうだ。
だって俺の体からは、俺自身ですら鼻呼吸したらぶっ倒れそうな程の臭気を放っているのだから。
こうなることは想定内。
公衆浴場の場所は聞いてあるので、騎士団に捕まる前に一直線に向かった。
というか捕まるどころか処刑されそうだから急がんと。
「あれ?」
公衆浴場の入り口についたが、扉が開いてくれない。
『ブー! 異常な臭気を感知いたしました。向かって右側の入り口にお回りください』
おおすげぇ、今のって自動音声か。
この世界ってそんなものまであるんだ。
音声に指示された通りに右側に向かったら確かに別の入り口があり『貸し切り風呂』と書かれていた。
まぁこんな臭い奴を一般客が入っている浴室になんか入れたら大事故だわな。
中に入ると日本式の銭湯のように脱衣所と風呂場に別れていた。
臭い森帰還者向けの注意事項が目立つように書かれているので、その指示に従ってまずは来ている衣服を靴も含めて全部洗濯機に入れる。洗濯機は大きな電子レンジみたいな容れ物だけれど、これで乾燥までやってくれるらしい。
どんな動きをするのか見たいところだけれど、それよりも体を洗う方が先決だ。
浴室は日本の個人の家庭のものくらいに小さいところで、円形状の湯舟と脇に流し場らしきものが目に入った。水道の使い方を悩みながら、指示された石鹸を使って体を洗う。
「おおエエエエエエエ」
説明しよう。
体を洗ったことで体臭から臭気が消えて『おお!』って驚きたかったのだが、その声と一緒に出た息が猛烈に臭くて嘔吐してしまったのだ。チクショウ。
体を隅々まで洗い終えたら洗い場の傍にあるボタンを押せって書いてある。
「!?」
ボタンを押したら霧が発生して俺の体が包まれた。
息を吸うとその霧も吸い込んでしまい体への影響を心配したのだが、良い香りがするので大丈夫かなと……良い香りだって!?
息が臭くない!
もしかしてこの霧って肺も浄化してくれるのか。
ここまで準備されているってことは、この街はこれまで臭い森に相当悩まされて来たんだろうな。そして俺みたいなチャレンジャーが戻って来ると悲劇にしかならないから、こうして臭い取りの施設が出来ているのだろう。
「よ~し、風呂だ!」
小さいけれど、風呂は風呂。
この世界にもサウナではなくて日本式の風呂があるなんて最高だ。
「はぁ……生き返るぅ……」
もう一生臭いままなのかと思ってちょっとばかり不安だったんだよ。
安心したのもあって、風呂がめちゃくちゃ気持ち良く感じる。
こんなに気持ちの良い思いが出来るなら、頑張って良かった。
出来れば長風呂したいところだけれど、今日は全く食べていないにも関わらず嘔吐しまくったから体の水分が足りず長湯は危険だ。
初日の成功を祝って、今日は美味しいご飯でも食べるかな!
貸し切り風呂代。
洗濯機代。
特別石鹸代。
臭気取りミスト代(脱衣所分含む)。
計7000セニー。
赤字じゃねーか!
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