第二話 身の丈に合わない仕事
父親が亡くなって直ぐの頃。俺はずっと調子が悪かった。皿を割ってしまったり、学校の忘れ物をしたり、凡ミスが増えた。
夜眠れない事もあり、食欲も無い。じっとしてられずに無駄に歩き回ったり、貧乏揺すりをしてよく怒られた。
そんなある日。当主様のご家族が暮らす和風の大きなお屋敷の廊下を渡って、風呂清掃に向かっている時の事。
開け放たれた部屋のドアから、声が漏れ聞こた。
「母上、御手洗いに行って参ります。」
「一人で大丈夫かしら?ついて行きましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。一人で出来ます!」
部屋から出て来たのは現当主の一人息子。四歳のりんのすけ様だ。
真っ黒い髪を坊ちゃん刈りにし、眉毛より上にある短い前髪、まつ毛の長い大きな目をした愛らしい見た目をしている。
俺は壁沿いに避け、姿勢を正してお辞儀をする。
すると、ドン、と言う音がした。
少し顔を上げて確認すると、りんのすけ様が目の前で転んでいる。近くにあった棚にぶつかったらしく、その上に乗っている壺が大きく揺れ、りんのすけ様の上に落ちそうになる。
俺は咄嗟にりんのすけ様の上に覆い被さり、右足を後ろに曲げ、足の裏でツボをキャッチする。
「お怪我はございませんか?」
俺はそのままの体勢でりんのすけ様に聞く。
りんのすけ様は目を輝かせて、うつ伏せのまま俺を見上げると言った。
「お前、凄いな!名は何と申す?」
「いえ、この程度誰でも……。俺、じゃ無かった、わたくしの名前はサソリと申します。」
俺は腕を後ろに回して、足の裏にバランスよく乗っている壺を取ると、棚の上に戻した。
「サソリお兄ちゃん!僕にもソレ教えて!」
「ええ?!」俺は困惑する。
廊下から聞こえた物音に気がついて、心配そうな顔をして出て来た奥様は、りんのすけ様の嬉しそうな表情を見て笑顔になる。そして、奥様は俺に言った。
「良かったら、りんのすけの遊び相手になって下さい。」
「御意にございます。」
俺は奥様に深々と頭を下げる。
内心、かなりのプレッシャーで潰されそうだった。劣等生の俺が、坊ちゃまの面倒を見るなんて、余りにも身の丈に合っていない。
しかし、底辺の俺には、拒否権など持ち合わせていなかった。
その日から、週に二回の頻度でりんのすけ様と遊ぶ時間が出来た。
遊び方を知らない俺は、自主トレーニングでやっている事をりんのすけ様に教えた。
腕立て伏せや腹筋、腿上げ等の筋トレから、空手や柔道の組み手なんかを一緒にやる。
りんのすけ様は飲み込みが早く、何でも直ぐに出来る様になった。
俺はそれに負けない様に、追い付かれない様に必死だった。普段の自主トレーニングを増やし、更に難易度を上げていく。
「サソリお兄ちゃん!今日は何を教えてくれるの?」
いつもの様に、お屋敷の中庭でりんのすけ様のお相手をする。
「今日は懸垂をしましょうか。器具を借りて参りました。」
りんのすけ様を抱き抱えて、懸垂器具まで背伸びをして持ち上げる。
「掴んだぞ。」
「では、ゆっくり離します。大変でしたらおっしゃってくださいね。」
俺は恐る恐る手の力を抜いていく。
りんのすけ様は楽しそうに笑いながら、懸垂器具にぶら下がり、前後に揺れる。その後、逆上がりや前転をして遊び始めた。
まあ、これはこれで良いか。
俺は楽しそうに遊ぶりんのすけ様を眺めていた。すると、遠くから視線を感じる。
使用人候補で同い年の女の子が、遠くに見える。お屋敷の縁側から、俺を見つめている。
俺と目が合うと、何処かへ行ってしまった。
まずい。俺は恐怖心に駆られた。
お互いの仕事内容は知る事がない。言われた事をするだけだ。
きっと、彼女はこの事を他の人達に話すだろう。俺がりんのすけ様と遊んでいる事を。
全身の筋肉が硬直し、息が荒くなる。
そんな俺に気が付き、懸垂器具から飛び降りて、りんのすけ様が言った。
「サソリお兄ちゃん、大丈夫?どっか痛いの?」
心配そうな顔で、俺を見つめながら、黒スーツの裾を引っ張る。
俺はしゃがんで、りんのすけ様と目線を合わせる。
「いいえ。大丈夫ですよ。今日はこのくらいにして、また一緒に遊びましょう。」
「ええー?まだ全然遊んでないよ。」
りんのすけ様は頬を膨らませて拗ねた。
「た、確かにそうですね。申し訳ございません。あの、りんのすけ様。もし良かったら、わたくしではなく別の者がお遊びのお相手をしましょうか?その方がきっと楽しいですよ?」
俺がぎこちない笑顔で言うと、りんのすけ様は腕を組んで睨みつけて来た。
「サソリお兄ちゃんは僕の事が嫌いになったの?」
「い、いえ!滅相もございません。」
「じゃあ、他の奴と遊べなんて言うな。僕はサソリお兄ちゃんと遊びたいんだからな。」
その言葉に、俺は感情がぐちゃぐちゃになった。
荷が重すぎる。必要とされて嬉しい。更にいじめが酷くなる。もっと一緒に遊びたい。俺は選ばれるべき人間じゃない。………………。
喉の奥から込み上げてくる言葉を全て飲み込んで、俺は精一杯の笑顔を作る。
「勿体無いお言葉。恐悦至極に存じます。」
その次の日。学校の昼休みの時間に、体育館裏へ無理矢理連れて行かれ、三人の男の子に暴行された。殴られ蹴られ、踏み潰され。
その男の子達は、昨日目が合った女の子の取り巻きで、掬護会とは関係の無い、普通の子供だ。
俺はやり返さず、大人しく暴行を受け続けた。鼻血が垂れ、口の中で血の味がする。
少し離れた所から、女の子が腕組みをして見ていた。ボロボロになった俺にゆっくり近づき、前髪を掴んで無理矢理目を合わせる。
「調子に乗ってんじゃないよ。エコ贔屓野郎。能力が伴っていなかったら、結局第一使用人には選ばれないんだ。身の程を弁えろ。」
そう言った後、俺の顔に唾を吐きかけて、颯爽と立ち去って行った。
取り巻きの男の子達も立ち去る。
静かに降り出した霧雨が、俺の髪を濡らす。
俺はその場に仰向けになって寝転がった。
体中が痛む。起き上がりたく無い。
こんな顔で教室には戻れない。俺は学校をサボって、家に帰る事に決めた。しばらく雨に濡れてから立ち上がろう。
フラフラと家に入る。
「サソリ!大丈夫ですか?」
声を掛けてくれたのは、ワタヌキさんだ。二十一歳の好青年で、童顔の垂れ目。焦茶色のショートヘア。高校生くらいの見た目をしている。身長は小三の俺よりは大きいが、周りの大人に比べたら小さかった。
俺は作り笑いをしながら返す。
「大丈夫ですよ。」
「大丈夫じゃないでしょ!体もびしょ濡れじゃ無いですか!さあ、こっちに来て下さい。」
「ええー。いいって!」
嫌がる俺をよそに、ワタヌキさんは俺の腕を掴んで自室へ向かった。
服を脱がせ、シャワー室に連れ込み、勝手に俺の体を洗う。
その後、服を着せ、髪を乾かし、手当てを始めた。
「イテテ!」
ワタヌキさんは消毒液を染み込ませた脱脂綿を俺の顔に当てる。
「我慢して下さい!はあ。何があったか話せますか?」
ワタヌキさんは救急箱を漁りながら聞く。
「学校で友達と喧嘩しただけですよ。」
俺は嘘をついた。ワタヌキさんには直ぐにバレる。
「殴り慣れていない貴方の手が綺麗すぎる。一方的にやられたんでしょ!いじめられてるんですか?」
ワタヌキさんは乱暴に、俺の顔に絆創膏を貼る。
「イッテ!ワタヌキさん、力加減下手すぎません?」
「もおー!今はそんな話してないじゃないですかあ!私で良かったら何でも聞きます。聞かせて欲しいです。」
俺は顔を伏せて、苦い顔をする。
「余計な……お世話……です。」
ワタヌキさんは俺の頭を撫でた。撫でる力も強くて痛い。
俺は上目遣いでチラリとワタヌキさんの表情を確認する。酷い事を言った俺に対して、全然気にしていない様な優しい笑顔を浮かべていた。
「 無理に言わなくてもいいですけど、これだけは覚えていて下さい。僕は貴方の味方ですよ。」
目を見開いて驚いた後、俺は再び顔を伏せた。混乱しながら、言葉を無理矢理吐き出す。
「何で、そんな事言うんですか。そこまでされる義理はないですよ。」
「そうですね。僕のエゴかも知れないです。周りから見放されそうに浮いてしまう姿は、昔の僕を見ている様で、他人事な気がしないんです。貴方の味方でいたい。いさせて下さい。」
ワタヌキさんは、わしゃわしゃと俺の頭を撫で回す。
「痛いよ!」俺はワタヌキさんの手を払いのける。
立ち上がって部屋のドアを開け、少し振り返って小さく呟いた。
「……ありがとうございます。」
俺は返事を聞かずにドアを閉め、自分の部屋に戻った。
枕に顔を押し当てて、大声で叫ぶ。
行き場のない怒り、悲しみ、不甲斐なさ。痛めた喉と共に、少しだけ軽くなる。
ベッドの上で天井を眺め続けると、いつの間にか放課後の“お勉強”時間が迫る。
スーツに着替える。トートバッグにキャンパスノートと筆箱、クリアファイルを入れて一階に下りた。
玄関正面にあるドアを開けると、廊下に繋がる。廊下にはいくつものドアがあり、その一つのドアを開けると、防音の会議室が現れる。毎回そこでお勉強会が行われる。
会議室に入ると既に子供達が集まっている。こちらを見ながら黙っていた。
俺は気にしないふりをして、一番後ろの席に座る。
他の人達がコソコソ話し始めたのが分かった。いつもの様に俺は机に突っ伏して寝たフリをした。
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