第16話 翠の涙
長い冬が終わり、春が訪れた。
スイはそのひと月前くらいから、日中は積極的に起き出して、農作業や家事をし始めていた。
それを見た母親と妹は、慌てて辞めさせて布団に連れて行った。
フラつくスイは、か弱く居た堪れ無かった。
「有難うね、翠さん。今はまだ、気持ちだけで充分だから。」
「ごめんなさい、寝てばかりで。」
そんなやり取りや会話が続く日も忘れるくらいの、春の日差しが村一面に降り注ぐ朝、
スイは一人で外に立っていた。
あれだけ寝込んでいた、か細い女性が嘘かのように、自立していた。
それを見た母親と妹は、まるで孵化した蝶々や、産み落とされた小鹿を扱うような眼差しで
スイにつめ寄った。
スイはクルリと回って、詰め寄って来る二人に、自分からお礼を言った。
その顔は、とても良い顔色で、相変わらずの白い肌、少し引き攣った眼差しで二人を見つめていた。
「大変長らく休息させていただいて、本当にありがとうございました。お二人と幺さんのお陰で
今年の冬も乗り越える事が出来ました。」
スイはその場で、二人に深々とお辞儀をした。
母親と妹は、数分前までの心配が綺麗に無くなっていて、
余りにもスイが健やかなので、躊躇したが、その後二人で顔を合わせて黙って頷き、
妹がスイに言った。
「翠さん。お帰りなさい。」
妹はそう言うと、スイに抱きついた。
スイも喜んで
「はい。」
とだけ言い、妹を抱き締めた。
妹はその時、スイの氷の様に冷たい手に、微かに熱が宿っている事を理解していた。
数日後に少年も実家に帰り、スイの元気な顔を見て大変喜んだ。
その日は皆で小さなお祝いをした。
それ程大きくはない実家の居間で、冬に蓄えていた魚や野菜で少数の家族では些か贅沢な食材を並べて
皆で大いに盛り上がった。
スイは相変わらず食は細かったものの、とても元気で沢山笑っていた。
まるで、氷に閉じ込められた女神が久々に解放されたかの如く、細く少し吊り上がった眼が
大きく開いている様に見えた。
少年は酒を飲み、良い感じに酔っていた。
囲炉裏の火も灯さず、皆が春の暖かさを口に出して喜んでいた。
すると、妹が突然何かを思い出したかの様に立ち上がった。
毎回突拍子もない行動をとる妹に、少年はまたか、と呆れて笑っていた。
外から戻って来た妹が手にしていたのは、数匹の岩魚の燻製だった。
「お父さん得意だったよね? 冬に、近所のお爺ちゃんに教わって、やってみたんだ。」
少年と母親は、まさか父の燻製が出て来るとは思わず、
「大したもんだ。」
と
絶賛した。
少年は直ぐに我に帰り、スイに父親の燻製の経緯を説明しようとした。
隣に居たスイに話かけようと顔を覗くと、今まで見た事の無いスイの姿がそこにはあった。
考えてみたら、スイは妹の燻製が居間に運ばれて来る少し前から様子がおかしかった。
何時もは大人しくしているのに、鼻で何かを探している様子が少年にだけ分かった。
燻製が目の前に来て、皆で話をしている時も燻製をジッと見つめていた。
少年の後に、スイの異変は母親も妹も気付いた。
妹がその異変に気付いて
「ごめんね、翠さん。変な料理出して。 臭いが嫌だったら下げるね。」
と言った刹那
スイは
「食べたい。」
と言った。
皆は少し驚いたが、元々食が細く、長い眠りから開けた今日に
食欲を出してくれた事に嬉しかった。
「良かった。 翠さん食べて食べて。」
妹がそう言うと、スイは岩魚の燻製を1匹取って頭からかぶり付いた。
今までのスイのイメージからは、とてもかけ離れていたが、
それでも皆、スイの好物も知れたし、これからも沢山食べて欲しいと愛くるしい表情でスイを見つめていた。
スイはそのまま一匹を食べ終えると、直ぐ様二匹目を手に取った。
それも頭からかぶり付き、小さな口では考えられない程豪快に食べた。
そして、二匹目を食べ終える直前になって、スイは食べるのを辞めた。
我を忘れて食べてしまった事にようやく気付いて、自分がとても恥ずかしかった。
しかし、それだけでは無かった。
懐かしさと安心感で、胸が張り裂けそうになっていた。
その後、声を出して泣き始めた。
泣きながら、自分の前の床に身を伏せた。
突然の号泣に驚いた三人は、慌ててスイを慰めた。
背中を摩り、母親が先ず声をかけた。
「見知らぬ村に嫁に来て、長い冬を超えて、さぞや辛かったでしょう。」
妹も声を掛けた
「翠さんが燻製好きなの知れて、良かった。また作るね。」
スイは暫く埋まっていたが、顔を上げて言った。
「とても美味しくて、何だか幸せが込み上げて来てしまいました。
取り乱してしまい、大変申し訳ございませんでした。」
土下座をして、その日は少年と寝床に移って行った。
少年は寝床に入ってからスイに言った。
「お帰りなさい。そして燻製を食べてくれて、嬉しかった。」
スイは泣き後の震えた声で恥ずかしそうに言った。
「とても懐かしい食べ物だったもので。大変美味しゅうございました。」
少年は、スイが「懐かしい」と言った意味を、深く考えなかった。
スイの過去を自分から必要以上に掘り下げて調べる事は、最初のうちからしないと決めていた。
それよりも、懐かしい味に触れて、沢山頬張っているスイの表情がとても愛らしくて
また違ったスイを知れた事に感無量だった。
二人は何時もの狭い布団で、抱き合いながら眠った。
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