赤嶺紫苑(第3話)
赤嶺紫苑(しおん)
紫苑は憂鬱だった。今日の占いが悪かった訳でも、生徒の態度が酷かった訳でもない。お気に入りの煙草を昨夜から切らしていたのだ。
舌打ちをしながら教壇に立ち、一番後ろの席に座っている紗蘭(さらん)と目を合わせる。0.3秒その時教室は2人だけの世界となる。「今日の講義は、外国における日本人の犯罪です。資料をご覧ください。この事件は〜」
紫苑の声が二酸化炭素がマイクを通ってスピーカーから教室中に響き渡る。既に欠伸をし始める生徒もいれば、もうすでに寝ている生徒もいる。これでも学内で人気ある講義だ。授業を受けていれば、及第点は貰える。おまけに講師が京都弁のイケオジ。講義中だけ老眼をかけ、第一ボタンを開けてネクタイを緩める。背広を着たその姿は紳士そのものだった。
りせが5歳になる歳、紫苑に大学教授にならないかと琉球大学法学部から依頼がきた。45歳高校生相手にあくせくしながらも、過去には国際弁護士としての経歴も持つ。第一子誕生を機に高校教諭へと転職したが、離島時代も時折地元の司法事務を無給で引き受けることもあった。
紗蘭と出会ったのは、4年前。当時彼女はまだ一回生だった。京都の田舎町からこの南の島にやってきた紗蘭を見るや否や紫苑は、亡き妻である紗夜の面影を重ねた。
「はい、いつもの。」
そう言って紗蘭は煙草を片手に紫苑の部屋へと足を踏み入れる。いつものように椅子を軋ませながら、紫苑は手元の資料に夢中だった。
平日昼休憩の1時間、この部屋で紗蘭と2人お弁当を並べる。紗蘭が鍵を掛けるそれが合図で、2人は無我夢中に躰を重ねる。
空いた窓のカーテンを紫苑が閉める、柔らかな午後の光がさす。椅子に座る彼の首に女は腕を回す。ひとつまた一つとぼたんを外す。手慣れたその動きと2人の火照る顔はあまりにも美しかった。
紫苑には双子の弟がいる。
赤嶺菖蒲(あやめ)は、イギリスで一人暮らしをしている独身貴族。国際弁護士を始めて30年イギリス訛りが様になる。紗夜とはドイツでパラリーガル時代に紫苑と3人で、ルームシェアをしていた。
一目惚れだった。大家さんに紹介されて2人は初めて眼を見つめ合った。
紗夜は兄の紫苑に惹かれていった。模擬裁判で白熱した舌戦を繰り広げる2人も家では若人で恋仲だった。
紫苑は菖蒲の紗夜へ恋慕う気持ちに気づいていながら、目を背けた。あれから20年以上菖蒲の秘めた恋心は海の泡となって消えた。
紫苑の革靴が奏でる音が廊下中に響き渡る。午後のチャイムが鳴る。紗蘭がつけた紅を拭いながら、背広に袖を通し教壇に立った。
娘の事件が起こり暫くした後、紫苑は数名の女性から訴えられる。妻を失い、愛人は旅だち、愛娘はもう帰って来ない。哀愁に満ちた背中は、何を見つめていたのだろうか。
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