第10話 聖白母《ベヤザンネ》は愛を語る

「この神殿は、宮殿のようでしょう。最初は、魔神シェイタンの居城だったのよ。眩い極光の御方シャファクアレヴ様──私がお仕えした御方の」


 聖白母ベヤザンネの眼差しは、手の届かない遥かな過去を見る時のそれだった。


 そして、眼差しだけでなく可憐な声も、うっとりとしてとても甘い。彼女が口にした魔神シェイタンの名をチャクルは知らないけれど、この御方が心から慕っているのだろうとよく分かる。


「強い御方だったんでしょうね……」


 そして同時に、過去形で語られたことにも気付いてしまう。

 魔神シェイタンが滅びるなんて一大事が起きれば、カランルクラル様の宮殿の奥にもさすがに噂が届くはず。チャクルが極光の御方とやらのことをまったく知らないということは、きっと、すごく昔のことなのだろう。


 なのに、聖白母ベヤザンネはその御方が目の前にいるかのように愛しげに微笑む。


「ええ。そして、とても綺麗で優しい方。大好きだった。だから、私のだけであの御方のお城を作って欲しいとお願いしてしまったの」

「そ、それは──」

「面白い御方でもあったのかしら。それとも、私を面白がってくれたのかも。小魔ペリふぜいが、生意気だったでしょうに」


 目を丸くしたチャクルに朗らかに笑うと、聖白母ベヤザンネは小さくも美しく整えられた室内を見渡した。雪花石膏アラバスタで下半身を固定されてしまった彼女のことだから、首を巡らせて見ることができる範囲に限られてしまうけれど。


「この部屋から始めて、とてもお待たせしてしまったけれど。私はここから出られなくなってしまったけれど。でも、あの御方はずっとここで過ごしてくださったから。幸せだった……」


 入室する前に、宮殿の主の居間のようだと感じたのは間違っていなかったらしい。

 この神殿を造らせた魔神シェイタンは最奥の、もっとも私的な空間に聖白母ベヤザンネがいることを許して、ともに長い時間を過ごしたのだろう。


 ゼヒルギュルと対峙した夜に、エルマシュが語っていたことが蘇る。


小魔ペリを愛した魔神シェイタンもいる、って──この方たちのことなのかな)


 愛する人と幸せな時間を過ごしたこと、それ自体はとても美しくて羨ましい。

 でも。この城の今の主は、その魔神シェイタンではないらしい。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、石を砕かれなければ生きていられるとか……)


 小魔ペリにしては、玉胎晶精ターシュ・ラヒムはとても長く生きられる可能性がある、らしい。主の魔力ギュチによって、命が維持されるから。


 多くの場合は主の気分によって石をする時が決められ、それがすなわち彼または彼女の死を意味するから、チャクルが意識したことはなかったけれど。


 だから──これだけの質量の石を生んできた聖白母ベヤザンネが、どれだけの年月を生きたのか分からない。そのうちのどれだけの時間を、その御方と過ごしたのかも。


 いったい何があったのか──疑問には思っていても、チャクルが言い出せないでいるのに気付いたのだろう。聖白母ベヤザンネはそっと目を伏せた。


「シャファクアレヴ様は……あの、しまわれたの。でも、私はこのお城をほかの魔神シェイタンにも人間にも渡したくなかった。そのためには、私はここで生きていなくてはならなかった。だから──神殿タプナークを作ったのよ」

「弱い人間と魔性イブリスに手を差し伸べる……?」


 エルマシュとバイラムから聞いたことを呟くと、聖白母ベヤザンネは大きく頷いた。


「そう。シャファクアレヴ様のご威光で、遠慮してくれる魔神シェイタンもいたからどうにかなったわ。弱いなりに集まれば力になるし、助けられた者たちの感謝の祈りは──そこに込められた魔力ギュチは、私の糧になる」


 ゼヒルギュルに襲われた人間たちは、バイラム経由で神殿のこと、ひいては聖白母ベヤザンネのことを聞かされて、感謝しただろう。

 あれほどの人間がいれば。そして、長年に渡っていくつもの事件に関わってきたのだとしたら。

 大食漢の玉胎晶精ターシュ・ラヒムを養うに足る魔力ギュチが、集まるのかもしれない。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムに、そんなことができるなんて」


 気が遠くなるような話だった。

 この神殿を築くための年月も、注がれた魔力ギュチも。

 主である魔神シェイタンの亡き後、聖白母ベヤザンネが味わったであろう孤独も悲しみも。

 今、この白い聖母を頂点に、数えきれないほどの弱い人間や魔性イブリスが手を携えているらしいということも。


 感嘆の声を漏らして絶句したチャクルに、聖白母ベヤザンネは困ったような、あるいは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「しかも、雪花石膏アラバスタよ。貴女やエルマシュのように、宝石を生みだすわけではないのに」

「そんな。この神殿は、とても綺麗です! あの、私なんて水晶の玉胎晶精ターシュ・ラヒムに過ぎないですし」


 首を振りかけて──チャクルは、自らを卑下することの愚かさに気付く。

 聖白母ベヤザンネは、玉胎晶精ターシュ・ラヒムの同胞に話したいことがある、と言ってチャクルを呼んでくれたのだ。その話の本題は、もうしっかりと伝わっている、と思う。


(主がいなくても、この方は、こんなにも──)


 この御方を前にして、抱いた石の価値をどうこう言うなんて、どう考えても間違っている。


「でも、石の種類や価値に関わらず、何ができるか、なんですよ、ね……?」

「あら、言おうとしていたことを言われてしまったわね」


 先取りして言ってしまったのは、失礼だったかもしれない。でも、聖白母ベヤザンネは嬉しそうに笑ってくれた。チャクルが自らその結論に辿り着いたのを、寿ことほぐかのように。


「シャファクアレヴ様がいなくなられて、どれだけ経ったかしら。でも、私は変わらずあの方のことが好きよ。人間たちが私に捧げる魔力ギュチはほんの些細なものでしかない。でも、それでも彼らを愛しいと、守りたいと思ってる」

「……はい」

玉胎晶精ターシュ・ラヒムの本能なんてそのていどのものよ。気持ちのほうが、ずっと大事なの。そう伝えたかったのだけど──貴女、もう分かっていたようね?」


 聖母の優しい笑みに促されて、チャクルは大きく頷いた。


「私──エルマシュが好きです。彼は、助けたから、魔力ギュチを注がれたから起きた気の迷いだって言うんですけど! でも、色々なものを見て、色々な人や魔性イブリスと会った後でも変わらなければ、認めてくれるって──」


 どうも話が散らかる気配を感じて、チャクルはいったん深呼吸した。

 これは、彼女の心の中ではもう確かめたこと。聖白母ベヤザンネも、そうと悟ってくれている。だから何度も繰り返す必要はない。


 大事なのは──これからどうするか、のほうだ。

 チャクルは背筋を正すと、聖白母ベヤザンネの金色の目をじっと見つめて、口を開いた。


聖白母ベヤザンネ様。だから、私はこの神殿タプナークにいたいです。エルマシュの傍で、色々なことを見て、聞いて、やってみたいです。そうすることで、彼を好きだと証明できるんじゃないかって思うから。それに、それが貴女のためにもなるなら──とても素敵なことだと、思います!」


 ひと息に言い切ってから、屑石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムの胸にふと不安がぎる。


 チャクルの力が、本当に神殿に必要なのか。聖白母ベヤザンネも、危険だからと止めたりはしないかどうか。世間知らずの小魔ペリに、できることなんてあるのかどうか。


「えっと。そうさせてもらえたら、嬉しい、です……」


 最後には、チャクルの声は自信なくふらついてしまったのだけれど。聖白母ベヤザンネは、雪花石膏アラバスタのごとく白い腕を伸ばして、チャクルを抱き締めてくれた。


「もちろんよ。の話をたくさん聞かせてちょうだい。みんながいてくれるから、私は神殿の奥にいても寂しいと思わないでいられるのよ」


 優しい言葉と温かい抱擁に、チャクルの心の強張こわばりが解けていく。

 カランルクラル様の宮殿を出てからずっと、彼女には定まった居場所がなかったのだと、ようやく気付いた。そして、寄る辺がない状態が、どれほど心細かったのかも。


「はい……はい。必ず……!」


 今、チャクルは新しい居場所に迎えられて、これからの指針を得た。なんて嬉しくて、そして安心できることだろう。

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