第9話 神殿《タプナーク》は白く聳《そび》える

 の世界で見聞きするすべてを噛み締めながら進むうち、一行はやがてとある谷間に辿り着いた。


 水は、きっと太古の昔にれたのだろう。切り立った崖は木々の緑に覆われて、絡み合う枝葉が外敵の侵入を拒む。谷の狭い入り口と併せれば、天然の要害となっているのがチャクルにも分かる。


「すごい──」


 とはいえ、チャクルが溜息を漏らしたのはその谷間の峻険しゅんけんさに、ではない。


 空の青にも木々の緑にもよく映える、純白の建造物──その、一点の汚れもない清らかな美しさに目を奪われたのだ。


(これが、神殿タプナーク……? まるで、魔神シェイタンの宮殿みたい……!)


 カランルクラル様の宮殿のように、絢爛な宝石に彩られているわけではない、白一色の建物ではあるのだけれど。雪花石膏アラバスタだけで作り上げられた円蓋も尖塔も城門も、精緻な彫刻で埋め尽くされているようだった。


 わずかな雲の流れや太陽の移動によって影の落ち方が変わることで、辛うじて見える装飾は、まるで白い建物全体に銀糸で細かな刺繍を施したかのよう。

 離れたところから望むだけでも壮大なレース模様を見るようで圧倒される。そして、近づけば、彫刻が織りなす物語がはっきりと浮かび上がって見る者の心を動かすのだろう。


 これほどの建造物を築くことができるのは、よほど力がある存在だろう。聖白母ベヤザンネと呼ばれる女性が神殿タプナークの主なのだとしたら、やはり強い魔神シェイタンではないのだろうか。


 チャクルが緊張に顔を強張らせる中、エルマシュとバイラムは手綱を操って白い建物に近付いていく。城門を潜る時、積み上げられた石材から微かに魔力ギュチを感じて、チャクルは思わず声を上げた。


「この雪花石膏アラバスタ──もしかして、玉胎晶精ターシュ・ラヒムのじゃない!?」

「ああ、そうだ」


 長年に渡って魔力ギュチを注がれ、大切に育てられた玉胎晶精ターシュ・ラヒムなら、建材になり得る質量のを生み出せる。そして、雪花石膏アラバスタも石の一種ではあるだろう。


(でも……まさか、この規模のお城が、全部……!?)


 大きく見開いたチャクルの目に次々と入るのは、遠くから思い描いた通りの精緻な彫刻。生きているかのように鮮やかな、草や花や動物、妖精たち。


 そのどれもが目に痛いほど白く眩く、そして魔力ギュチを帯びた雪花石膏アラバスタなのだ。いったい何人の玉胎晶精ターシュ・ラヒムが、どれだけの年月をかけて生み出した石材なのだろう。

 費やされた命と時間と魔力ギュチに想いを馳せると気が遠くなりそうだった。


「おっと。落ちるなよ」


 神殿を見上げて、身体の均衡を崩しそうになったチャクルを、エルマシュがしっかり支えてくれた。彼女の反応を、バイラムも目を細めて見守っている。


聖白母ベヤザンネ様はこの奥にいらっしゃる。君のことを待っているだろう」


 誇らしげな彼に案内される形で、チャクルは巨大な白亜の城に招き入れられた。


      * * *


 神殿タプナークの内部は、意外にもたくさんの人間が行き来していた。エルマシュたちから聞いていた在り方からすれば当然かもしれないけれど、何しろこの建造物は魔神シェイタンの居城としか思えない壮麗な威容いようを誇っているのだから驚いてしまう。


 外観と同じく雪花石膏アラバスタで作り上げられた大浴場ハマムで、チャクルは人間の女の子たちに旅の汚れを洗い落とされた。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムのお嬢さんね。さすが、綺麗だこと」

聖白母ベヤザンネ様もさぞお喜びでしょう」


 真白い石の貝や魚の彫刻に囲まれながら、髪も肌も磨かれながら、チャクルは彼女たちの不可解な言葉におののいた。彼女は綺麗ではないから過分な賞賛だし、何より──


玉胎晶精ターシュ・ラヒムは喜ばれるってこと……!?)


 ゼヒルギュルの断末魔の声が、耳に蘇ってしまったのだ。


『どうせ砕かれて、魔力ギュチを利用されるのよ』


 エルマシュがそんなことをするはずはない、と思って忘れようとしていたのだけれど。玉胎晶精ターシュ・ラヒムの石をこうも贅沢に使った建造物を目の当たりにすると、怖くなってしまう。

 エルマシュに大丈夫だと言って欲しいけれど、彼が大浴場ハマムに入ってくるはずもない。


 だから、あれよあれよという間に、チャクルは長衣アンタリを着せられ、髪を整えられていた。久しぶりの絹の感触は肌に心地良いけれど、喜ぶ余裕は、ない。


「この廊下を行った先でお待ちだから」

「これを差し上げてね?」

「は、はい……」


 さらには銀の盆に乗ったシロップ漬けケーキシェケルパールまで持たされた。雪花石膏アラバスタさながらの白いクリームカイマクは大好きなのに、美味しそう、と思うこともできない。


 震える手で銀の盆を捧げ持ち、目に痛いほど白い廊下を進むことしばし──チャクルは、小さな部屋に辿り着いた。この神殿が宮殿なら、主が寛ぐであろう最奥の居間だ。


(入って良い、んだよね……?)


 盆をどうにか片手で支えて入出したチャクルを、高く澄んだ声が迎えた。


「チャクルね……? 無事に会えて良かった! 迎えに行きたいところだったのだけど、ほら、私は動けないから……」

「え──」


 部屋の奥にしつらえられた長榻ながいすに座っている──座っているようにのは、白く輝く髪と肌に、金色の目をした少女だった。


 纏うのは、神殿の素材と同じく白い長衣アンタリ──では、ない。


 ドレープや刺繍を模した浮彫までが細やかに彫り出された、が、少女の身体を覆っている。

 同じ部屋にいてさえなお、柔らかな布地ではのだとは信じられないくらいの、繊細な雪花石膏アラバスタは、少女の胸もと──心臓のあたりから始まっていた。爪先を隠す長い裾は床へと流れ、さらには床と同化している。


「貴女は──貴女、が……?」


 目の前にいる少女は、生きながら雪花石膏アラバスタに取り込まれたかのよう。でも、きっと本当はなのだ。彼女の心臓から生まれた石が、魔力ギュチを注がれるうちにどこまでも育ち、この巨大な神殿を築くにいたったのだ。


 この少女は、雪花石膏アラバスタ玉胎晶精ターシュ・ラヒム

 それも、どれだけ長く生きているか想像もつかない。


 同族の偉大な先達せんだつを前に、チャクルの声は掠れ、引きつった。


「あの。まさか。この神殿は、みんな、貴女の……?」

「そう……と言えば、そう、かしら? どこからどこまでがなのか、もうよく分からないのだけれど。このお城を作った雪花石膏アラバスタは、から切り出したものよ」


 不躾ぶしつけな問いかけに、少女は──聖白母ベヤザンネは、おっとりと頷いて微笑んだ。はっきりと肯定されてしまうと、屑石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムにできることはもうひとつしかない。


聖白母ベヤザンネ様……!」


 悲鳴のように叫ぶと、チャクルはその場にひれ伏した。辛うじて銀盆を投げ出さず、床に置いたのは、偉業と言って良かっただろう。


 抱く石の貴賤なんて関係ない。この壮麗な神殿をたったひとりで生み出した存在を、崇め敬わずにはいられない。

 口の悪いエルマシュも、人間のバイラムも同じなのだろう。この神殿、この御方の姿を見れば、聖白母ベヤザンネという呼び名は何の誇張でもないのがよく分かる。


 偉大なる白い聖母は、けれどいたいけな少女のように溜息を零した。


「……大げさに呼ばれてしまっているのよ。ちょっと珍しい玉胎晶精ターシュ・ラヒムになってしまったのは、まあそうなのでしょうけど。──ねえチャクル、こちらに来て」

「え。でも」

「私も甘いものが好きなの。ここからでは手を伸ばせないから。お願い?」


 恐る恐る顔を上げれば、雪花石膏アラバスタを纏った少女が首を傾げて、頬に手を添えていた。

 その名の通り、聖白母ベヤザンネの肌はとても白く滑らかだから、目を凝らさないと分からないのだけれど──彼女の首筋や腕や鎖骨のあたりは、血の通った生身の肉体だった。


(この御方も、お菓子を食べるんだ……!)


 驚きと感動を同時に覚えながら、チャクルはよろよろと立ち上がり、盆を持ち上げた。


「は、はい」

「一緒に食べましょう。座って?」


 シロップ漬けケーキシェケルパールを挟んで、偉大な御方と向き合うのはとても不思議で、しかも畏れ多いことだった。そして、カランルクラル様の宮殿で「みんな」と過ごしたことを思い出すから、懐かしくて少し悲しい。


「──神殿タプナークを頼る人間も魔性イブリスも、みんな、それぞれ大変な事情があるの。それは、ほかの者には分からない、立ち入ることのできないものよ。でも、玉胎晶精ターシュ・ラヒムのことについては、私にも少しは分かる。だから、同族が来てくれた時は、必ずお話することにしているの」


 聖白母ベヤザンネの可愛らしい唇が、言葉を紡ぐ間にシロップ漬けケーキシェケルパールを手際よく呑み込んでいく。

 シロップが零れないように素早く舐め取るはチャクルにも覚えがあるものだった。似た色の髪や目よりも、こんな仕草を目の当たりにすることのほうが、同族なのだと確信できた。


 ようやく口を開いても良いかもしれない、と思えたから、チャクルはおずおずと問いかけた。


「お話……と、いうのは──」

「主のいない玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、どう生きていくか、ということよ」


 聖白母ベヤザンネの金色の目は、真っ直ぐにチャクルを見つめていた。けれど、同時にどこかとても遠くを見ているようでもあった。

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