第8話 太陽《ギュネシュ》は生命を照らす

 傷まみれ、かつ疲れ切った身体を引きずって、チャクルたちが宿場町に入ると、やはりというか、毒薔薇ゼヒルギュルの毒に侵された人間たちが重なり合って倒れているところだった。

 それでも、これだけの数の人間を死に至らしめるのは魔神シェイタンの側近にも手間だったのかもしれない。彼らは、身体の自由を奪われただけで、ちゃんと生きていた。


 体力がありそうな若い男を優先して介抱して、元凶の魔性イブリス神殿タプナーク術師ラヒプが退治したことを説明して。より重症の女子供や老人に屋内の寝台を割り当てて手当のやり方を、バイラムの指導のもと教えて。


 事態の解決と毒への対処法は、比較的動ける人間と、彼らが携える灯りによって、街道に溢れた避難民にも伝えられていった。夜の闇の彼方から、微かな歓声が届くたびに、チャクルは多くの人を助けられた喜びと安堵を噛み締めた。


 そして──そんな対応に一段落つくころには、空は明るくなっていた。多少なりとも回復した人間たちが動き出して、宿場町に活気が──多少、ふだんとは種類が違っても──満ち始めるのと入れ替わるように、チャクルたち三人はようやく眠りに就いた。


      * * *


 チャクルが目を覚ますと、同じ部屋に並んだふたつの寝台は空だった。


(エルマシュは!? あとバイラム……!)


 人間たちが、疲労困憊ひろうこんぱいていの三人にひと部屋を与えてくれていたのだ。胸もとが破れたチャクルの長衣アンタリに眉を顰めた女の人が、枕元に新しい服の一式を用意してもくれた。

 清潔な生地に、裾にはチューリップラーレツルを組み合わせた可憐な模様。その細部をじっくり眺めたいところだけれど、それよりふたりの居場所を早く確かめないと。


(置いていったり、しないよね……!?)


 神殿タプナークへの道のりは、まだまだ遠いはずなのだから。

 それでも、見た目にも温もりの冷め切った寝台を見ると不安になって、チャクルは慌てて長衣アンタリズボンシャルヴァルを身につけ、履き物をつっかけた。


 転がるように部屋を飛び出し、廊下を駆けて宿の扉を押し開ける──と、チャクルの身体は温かく頼もしくしなやかな何かに抱き留められた。


「チャクル。まだ寝ていて良かったのに」

「エルマシュ! だって……!」


 朝の光に髪を煌めかせるエルマシュの眩しい姿に、チャクルは目を細めて見蕩れた。

 彼の腕の中に納まる幸せは、昨夜も味わったばかり。とはいえ、金剛石は光を浴びていっそう輝くもの。明るい中で見上げるエルマシュの輝かしさは、また別格だった。


「起きたら、ふたりともいなかったんだもん。……ねえ、何かやること、ある?」


 置いていかれたわけではなかったのを確かめて落ち着いて考えれば、ふたりが起き出していた理由は明らかだった。

 ゼヒルギュルを倒しただけでは、問題は何も解決していないのだ。


(きっと大変、なんだよね……?)


 毒から回復していない者もいるのだろうし、逃げようとしていた者たちが一斉に進む方向を変えれば街道は大混乱になりそうだ。

 バイラムはどこで何をしているのだろう、と。呪文をあしらった特徴的な上衣カフタンを探して──なぜなら人間の顔を見分けられる気がしないので──チャクルはきょろきょろと視線をさ迷わせた。


「今はバイラム待ちだから、本当に休んでいて良かったんだ。……俺たちは明らかに人間じゃないからな。術師ラヒプ様に従う善良な小魔ペリってことにしとけば面倒がない」

「ふうん?」

「厚化粧ババアが暴れたばかりだからな。だいたいの人間は、魔性イブリスの強さの区別なんかつかないんだ」


 エルマシュは特別な例外だとしても、玉胎晶精ターシュ・ラヒムを恐れる必要なんてまったくないのに。人間の考えることはよく分からないけれど──エルマシュが言うならそう、なのだろうか。

 今ひとつ納得できずに首を傾げるチャクルに、エルマシュは笑った。そして、宿の軒先に設置させた長椅子に、彼女を座らせる。


 忙しく行き交う人間たちを横目に、日向ぼっこしながらのおしゃべり、のていだ。


(良いのかな?)


 後ろめたさは、けれどエルマシュの隣にいられる喜びには勝てなかった。

 数日振りに、スカーフチェヴレなしで髪を風になびかせる爽やかさを堪能しながら。チャクルはエルマシュの顔を覗き込んだ。


「バイラムは、何してるの?」

「人間の長たちと交渉中だ」


 太陽の光に輝く髪を王冠のようにいただいて、エルマシュはのんびりと長椅子に背を預けている。


「彼らの故郷を襲った毒霧もおそらくもう晴れている。だが、毒が染みた土や水に囲まれて暮らせるかどうかの確認には調査が必要だ。場合によっては浄化も。その値段交渉だな」

「お金をもらうの? 神殿タプナークが?」


 値段、というのはお金の数字の大小だということは、この短い旅の間に何とか把握している。


「ああ」


 チャクルの質問は的外れではなかったようで、エルマシュは軽く頷いた。


魔性イブリスに関する厄介ごとをのが神殿タプナークの収入源だ。お前を腹いっぱい食わせられたのも、そうやって稼いだからなんだぞ?」


 悪戯っぽく微笑まれて、チャクルは目を瞬かせた。そうだ、確かにお金というものをどうやって手に入れるのかは気になっていたのだ。

 人間が造り出したというは、カランルクラル様の宮殿では不要だったし、触れずに生きていける魔性イブリスも多いはずだから。


「稼いだ、って──お金を手に入れた、ってことだよね? エルマシュが?」

「そうだ」


 エルマシュは、なぜか得意げに胸を張った。


(エルマシュが何をしてきたか、ちょっと分かったかも……!)


 彼が、具体的に何をしてきたかはいまだ謎ではあるけれど。心の中のエルマシュのページに、チャクルは聞いたばかりの情報をしっかりと書き込んだ。


 どうやら神殿タプナークは、色々な意味で人間と魔性イブリスの世界を繋いでいるらしい。弱い人間を助けるという点でも、魔性イブリスにお金を稼がせるという点でも。


聖白母ベヤザンネって、どんな方なんだろう。そもそも人間なの? 魔性イブリスなの?)


 神殿タプナークの中枢にいるらしい女性に、想いを馳せながら。チャクルは身を乗り出した。


「それ、私も手伝える? そうしたら一緒にいられる!?」


 エルマシュに置いていかれないかどうか、について良い示唆ヒントを得た気がしたのだ。甘い菓子や美味しい肉にかじりつく時の勢いで尋ねると、エルマシュはしまった、と言いたげな表情になった。


「……魔神シェイタンの側近とやり合うようなことは、そうそうないが……危険だぞ。お前は戦い方も知らないし……」

「でも、昨日は何だかすごかったよ? 稲妻と、風と、炎!」


 手を大きく広げても、夜空を彩ったあの閃光を表現できそうにない。色と、熱と、光の奔流──あれほどの力を操れるのは、魔性イブリスの中でもそう多くないんじゃ、と思うのに。


 エルマシュは、まだ何か言いたそうな気配を漂わせていたけれど──彼が口を開く前に、呪文を施した上衣カフタンがチャクルの視界に入る。


「あれは確かにすごかった。色々試させて欲しいところだな」


 術師ラヒプ上衣カフタンを纏っているのは、バイラムに違いない。チャクルは、目を凝らして黒髪黒目かつ地味な彼の顔を覚えようとした。


「……研究魔め。女の子をたぶらかすんじゃない」


 エルマシュは、バイラムの横やりに嫌そうな声で応じた。けれど、バイラムは意に介さずに笑うだけだ。


「私にたぶらかせるはずがないだろう。君を差し置いて」


 昨夜、彼の前でエルマシュに抱きついたことを思い出すと、チャクルの頬は熱くなる。その熱を誤魔化そうと、彼女は話題を逸らした。


「お金のお話、終わったの?」

「ああ。だいぶよ。今回は依頼を受けてではない、行きがかりのことだったからね。神殿タプナークへの信頼を買ったと思おう」


 バイナムが何を勉強したのだろう。

 チャクルには分からなかったけれど、エルマシュには分かったらしい。彼は、心配顔で立ち上がると、眉を寄せて人間の術師ラヒプを見下ろした。


「お前が良いなら良いんだろうが。慈善事業じゃやっていけないだろうに」

「思わぬもあったからな。魔神シェイタンの側近が操っていた毒──色々と使えそうじゃないか?」


 言いながら、バイラムは上衣カフタンの内側から硝子ガラスの瓶を取り出した。

 透明な瓶の中に封印されているのは──水気を失った縮みきった、ゼヒルギュルの残骸だ。枯れた草の葉や根にしか見えないそれは、あの美しくも恐ろしい毒花の性質を、どれだけ残しているのだろう。


(えっ、持ち歩いてるの!?)


 昨日の恐怖と毒の苦しさが蘇って、チャクルは思わず身体を引いたし、エルマシュも露骨に顔を顰めた。


「研究魔め」

「人間は弱いからね。工夫が必要なんだ」


 小魔ペリのふたりを動揺させておいて、バイラムは明るい笑顔を崩さない。

 弱いのに逞しく、知恵に富む──人間の性質がどういうものなのか、チャクルにも少しずつ分かってきた気がした。


      * * *


 その後の旅路は、とりあえず順調に進んだ。チャクルにとっては、ほとんど馬に揺られているだけ、エルマシュの腕の中に収まっていれば良いだけの楽な移動だった。


 庭師ゼヒルギュルが戻らなかったことで、カランルクラル様は何が起きたかを察しただろう。でも、今は報復の手を打つおつもりはないようだ。

 その理由を、エルマシュはこう語った。


『とりあえず、俺たちの行方を見失ったのもあるだろうし、厚化粧ババアゼヒルギュルがやりすぎたのもある』

『やりすぎって……?』

魔神シェイタンが気まぐれで人間を虐げるのは許されるが、逃げた小魔ペリ相手にムキになるのは恥だ。これ以上ことを荒立てると、ほかの目敏い魔神シェイタンに勘づかれかねない。闇の御方カランルクラルともあろう者が、何か失態を犯したらしい、ってな』

『なるほど……!』


 チャクルが相槌を打ったのは、胡麻パンシミットをかじりながら、だった。小麦も、肉も乳酪バターも野菜も美味しくて──でも、同時にエルマシュはこの上なく眩しい。


(うん、やっぱり好き。変わらない!)


 そう確かめて、チャクルは安心してパンをもぐもぐと咀嚼するのだ。


 旅を続けるということは、色々な美味しいものに出会うということでもあった。食べ物でお腹を満たしても、エルマシュへの想いがかげることはないと分かったから、抵抗感はもうなくなった。

 むしろ、世界からもらったたくさんの命の中で、一番輝いているのがエルマシュだと思う。だから──楽しくて、嬉しい。食べることも、生きることも。

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