第7話 稲妻《ユルドゥルム》は夜空を灼く
バイラム──人間の
「《
「ひゃ!?」
毒によるものとは違う種類の痺れがチャクルの全身に走って、手足がでたらめに跳ねる。
(稲妻? 雷の
空を切り裂く雷に打たれたら、と思うとぞっとする。それに、胎内の
でも──バイラムは、やった、と言わんばかりに微笑んだ。
「振動は、伝播して増幅する。君の中の
彼が再び呪文を囁くと、チャクルの水晶から激しい風が湧き起こる。顔の横を駆け抜ける空気の流れが、髪を宙に躍らせる。
稲妻によって起きた
そのさざ波は、風によってより大きくなる。高く、荒々しく膨らんでいく。
一点から──チャクルの心臓から生まれた
「──っ」
激しすぎる空気の流れに、チャクルの髪が宙に吹き上げられる。息をすることもできなくて喘ぐ。
「何なの……!?」
竜巻はゼヒルギュルの飛翔にも影響を与えたらしい。大きな羽ばたきの音と、戸惑いの声が聞こえてくる。そして──
「燃やせ──《
三度めに、バイラムは血を吐くような勢いで
チャクルの胸に熱が宿った、と思った瞬間──空気が
すでに辺りに拡散していた雷と風の
「きゃあああああっ」
細かな火花が無数に弾けて消えたのは、きっと目に見えない細かな花粉も焼き尽くされたからだ。
「私の、花が! 花粉が……っ!」
焦げた臭いが漂う中、ゼヒルギュルのしなやかな肢体が墜ちる。翅を失って、悲痛な声を上げながら。──でも、地面に叩きつけられることはない。
「
毒薔薇の
黄金の
「嘘。嘘よ。あり得ない。こんなこと、あってはならない……!」
エルマシュの串刺しにされて、口と胸から黒い液体──血というよりは樹液なのかもしれない──を流しながら。ゼヒルギュルは弱々しく呟いていた。
美しい顔が苦痛と屈辱に歪み、花弁と同じ鮮やかな紅い色の目が、呆然と立ち竦むチャクルを睨む。
「チャクル……!」
体液に汚れた唇が吐くのは、憎悪に満ちた呪いのような言葉だった。
「助かったとでも思っている? カランルクラル様に使われるのが
「うるせえよ」
「ぎゃ──」
エルマシュが腕を薙ぎ払うと、ゼヒルギュルの身体は今度こそ地に投げ出されて、人形のように転がった。手足は力なく投げ出されて──
(終わった、の……?)
身体を駆け巡った稲妻の衝撃。大量の
色々な理由と色々な感情によって、チャクルはその場にへたり込んだ。──すると、ゆっくりと目蓋を閉ざそうとしていたゼヒルギュルが、大きく目を見開いた。
「……うそ──
弱々しい声は、なぜか歓喜に満ちて弾んでいた。
紅い双眸も、明らかに命の灯が消えつつあるのに、一点を凝視している。チャクルの
「黒金剛石を秘めた、水晶! 唯一無二の貴石じゃない! 屑石の癖に……!」
地面に広がっていたゼヒルギュルの髪が、一度だけ波打った。その毛先から生まれた花弁は宙にふわりと浮き、組み合わさって蝶の
「カランルクラル様──これで御目が、揃います……」
毒薔薇の魔性を飛翔させた大きな翅とは違う、ほんの何枚かの花弁からなる蝶は、祈るような必死の呟きに後押しされて、ふわふわと高く舞い上がる。
(ダメ。カランルクラル様に知られては……!)
「それ──ゼヒルギュル様の、
エルマシュもバイラムも、もう余力はなかっただろうけれど。それでも、チャクルの小さな叫びに、ふたりは反応してくれた。
「ち──」
黄金の
「《
人間の
しばらくの間、誰も何も言わなかった。ただ、息を呑んで、毒薔薇の
美しい髪も、しなやかな手足も、みるみるうちに
「滅びた、のか……?
バイラムの熱に浮かされたような呟きが、チャクルの耳に届く。
街や村をいくつも簡単に潰せる
ゼヒルギュルが戻らなければ、カランルクラル様はさらにお怒りになるのだろうか。
気になること、考えなければいけないことはたくさんあるのだろうけれど──
(つ、疲れた……!)
とりあえず、地面にへたり込んだチャクルは動けそうになかった。と、彼女の頭上に眩しい
「お前のお陰、みたいだな。……いったい何をやった……?」
「わ、分からない……バイラムがやってくれたから……」
夜明けはまだ遠く、空は暗い。一瞬だけ煌めいた稲妻と炎の演舞に、目の前がまだちかちかしている。
でも、それでも。月と星のほのかな光だけでも、エルマシュは眩く輝いて見えた。髪も目も、戦いで傷ついた褐色の肌さえ。
(とても、綺麗……)
彼の纏う
カランルクラル様の漆黒の
もっと大事なのは、エルマシュを見るとチャクルの胸の水晶が熱くなる気がするということ。
バイラムが呼び出した稲妻でも炎でも、その熱を焼き尽くすことはできなかった。──と、いうことは。
「チャクルのお陰で間違いない。あとは先人のお陰でもあるか。水晶と稲妻、振動による増幅の研究──読んでいて、良かった」
よろよろとした足取りで近づいてきたバイラムが、たぶん何か大事なことを言っていた。でも、チャクルがそれに耳を傾ける余裕はなかった。
残った力を振り絞って、エルマシュに飛びつく。
「エルマシュ……好き!」
「……は?」
無理矢理に跳ねた弾みでよろめいた身体を、逞しい腕がしっかりと支えてくれた。
抱き合うような格好が嬉しくてはしゃいだ笑い声を立てると、太陽のような目が驚きに丸く見開かれていた。
「何言いだす!? まだあの
「違うって!」
エルマシュの的外れな疑いが、おかしくて。説明してあげられるのが嬉しくて。
笑いながら、チャクルはエルマシュの胸に頬を寄せた。彼の金剛石の硬質さを感じるのも、とてもいとおしい。
「いっぱい食べても、バイラムから
「いや、だが──」
「……水晶なんかが金剛石を好きになっちゃ、おかしいかな」
自分の想いが確かめられた、と思った高揚は、金色の目が戸惑いに揺れるのを見て萎んでしまった。でも──しょんぼりと肩を落としたチャクルを見て、エルマシュは表情を真剣なものに改める。
「おかしく、ない。強いか弱いか、綺麗かそうでないかなんて些細なことだ。この世界には
「本当!?」
目を丸くするのは、今度はチャクルのほうだった。信じられない、という言外の声に、けれどエルマシュは迷いなく頷いた。
「本当だ。だから、
チャクルはまだ、何も言っていないのに。エルマシュは慌てた様子で語気を強め、早口で続けた。
「お前は世間を知らない。男でも──女でも良いが、会ったことのある
どうやらエルマシュは、今でもチャクルは思い違いをしていると言いたいらしい。
(信じてないんだ……!)
ひどい、と思う。でも──もう不安になったりしない。この気持ちは簡単に消えたりするようなものではない、チャクルはもう知っているから。
「分かった。色々見てからなら、良いってこと?」
「……本当に分かったんだろうな」
チャクルを見下ろすエルマシュは、酸っぱいものでも食べたかのように顔を顰めていた。
「愛されてるな。割って入る隙がないじゃないか」
何がおかしいのか、バイラムの笑い声が響く中、チャクルはもう一度、エルマシュにしっかりと抱きついておく。
きっと、戦いの後のどさくさ紛れでもないと、彼はこんなことをさせてはくれない気がしたから。
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