第7話 稲妻《ユルドゥルム》は夜空を灼く

 バイラム──人間の術師ラヒプが、長衣アンタリ越しにチャクルの胸の水晶に触れた。低い声が、彼女には聞き取れない呪文めいた何かを呟く。


「《稲妻ユルドゥルム》を通した水晶は、振動を生む──」

「ひゃ!?」


 毒によるものとは違う種類の痺れがチャクルの全身に走って、手足がでたらめに跳ねる。


(稲妻? 雷の精霊ルーを呼んだってこと!?)


 空を切り裂く雷に打たれたら、と思うとぞっとする。それに、胎内の魔力ギュチが騒めいていて、怖い。

 でも──バイラムは、やった、と言わんばかりに微笑んだ。


「振動は、伝播して増幅する。君の中の魔神シェイタン魔力ギュチを揺らがせて、共鳴する──《リュズガル》よ」


 彼が再び呪文を囁くと、チャクルの水晶から激しい風が湧き起こる。顔の横を駆け抜ける空気の流れが、髪を宙に躍らせる。

 稲妻によって起きた魔力ギュチの騒めきは、水面を揺らすさざ波のようなものだった。

 そのさざ波は、風によってより大きくなる。高く、荒々しく膨らんでいく。

 一点から──チャクルの心臓から生まれた魔力ギュチの波紋が、広がっていく。すべてを呑み込む高波になる。それに乗って、風の精霊ルーは猛り、吼えて、竜巻を形作る。轟音に、耳が塞がれる。


「──っ」


 激しすぎる空気の流れに、チャクルの髪が宙に吹き上げられる。息をすることもできなくて喘ぐ。


「何なの……!?」


 竜巻はゼヒルギュルの飛翔にも影響を与えたらしい。大きな羽ばたきの音と、戸惑いの声が聞こえてくる。そして──


「燃やせ──《アレヴ》よ……!」


 三度めに、バイラムは血を吐くような勢いで精霊ルーに呼び掛けた。

 チャクルの胸に熱が宿った、と思った瞬間──空気がぜた。


 すでに辺りに拡散していた雷と風の精霊ルーが、一瞬にして炎を膨れ上がらせたのだ。


「きゃあああああっ」


 精霊ルーの炎は、魔性イブリスの肉体をも等しく灼いた。ゼヒルギュルが宙に撒いていた花弁も、はねを形作っていたそれらも。

 細かな火花が無数に弾けて消えたのは、きっと目に見えない細かな花粉も焼き尽くされたからだ。


「私の、花が! 花粉が……っ!」


 焦げた臭いが漂う中、ゼヒルギュルのしなやかな肢体が墜ちる。翅を失って、悲痛な声を上げながら。──でも、地面に叩きつけられることはない。


小魔ペリどころか人間に後れを取ったみたいだな? 魔神シェイタンの側近ともあろうものが……!」


 毒薔薇の魔性イブリスが落ちてくる地点には、エルマシュが待ち構えていたからだ。

 黄金の魔力ギュチを纏った手刀が、ゼヒルギュルの胸を貫いた。


「嘘。嘘よ。あり得ない。こんなこと、あってはならない……!」


 エルマシュの串刺しにされて、口と胸から黒い液体──血というよりは樹液なのかもしれない──を流しながら。ゼヒルギュルは弱々しく呟いていた。

 美しい顔が苦痛と屈辱に歪み、花弁と同じ鮮やかな紅い色の目が、呆然と立ち竦むチャクルを睨む。


「チャクル……!」


 体液に汚れた唇が吐くのは、憎悪に満ちた呪いのような言葉だった。


「助かったとでも思っている? カランルクラル様に使われるのが玉胎晶精ターシュ・ラヒムの誉れなのに! 人間に何をされれるか知らないのね? どうせ砕かれて、魔力ギュチを利用されるのよ。お前も、我が君の《災厄フェラケト》にな──」

「うるせえよ」

「ぎゃ──」


 エルマシュが腕を薙ぎ払うと、ゼヒルギュルの身体は今度こそ地に投げ出されて、人形のように転がった。手足は力なく投げ出されて──魔性イブリスといえど、もう動けそうになかった。


(終わった、の……?)


 身体を駆け巡った稲妻の衝撃。大量の魔力ギュチを解き放った後の虚脱感。……殺されかけたとはいえ、知っている存在が息絶えようとしていることへの恐れと悲しみ。


 色々な理由と色々な感情によって、チャクルはその場にへたり込んだ。──すると、ゆっくりと目蓋を閉ざそうとしていたゼヒルギュルが、大きく目を見開いた。


「……うそ──屑石チャクルの、くせに……」


 弱々しい声は、なぜか歓喜に満ちて弾んでいた。

 紅い双眸も、明らかに命の灯が消えつつあるのに、一点を凝視している。チャクルの長衣アンタリの胸もと、稲妻と炎によって生地が灼かれて露出した、彼女の水晶の結晶を。


「黒金剛石を秘めた、水晶! 唯一無二の貴石じゃない! 屑石の癖に……!」


 地面に広がっていたゼヒルギュルの髪が、一度だけ波打った。その毛先から生まれた花弁は宙にふわりと浮き、組み合わさって蝶のはねを形作る。


「カランルクラル様──これで御目が、揃います……」


 毒薔薇の魔性を飛翔させた大きな翅とは違う、ほんの何枚かの花弁からなる蝶は、祈るような必死の呟きに後押しされて、ふわふわと高く舞い上がる。


(ダメ。カランルクラル様に知られては……!)


 魔神シェイタンの忠実な下僕は、最後の力を振り絞って主に情報を届けようとしているのだ。疲れ切った頭がそう気付いた時には、紅い蝶は手の届かない高度まで上がっていた。


「それ──ゼヒルギュル様の、使い魔ハベルジ……!」


 エルマシュもバイラムも、もう余力はなかっただろうけれど。それでも、チャクルの小さな叫びに、ふたりは反応してくれた。


「ち──」


 黄金の魔力ギュチが、ゼヒルギュルの身体を引き裂いた。


「《稲妻ユルドゥルム》よ……」


 人間の術師ラヒプが呼んだ稲妻は、小さくとも確実に蝶の使い魔ハベルジを貫いた。


 しばらくの間、誰も何も言わなかった。ただ、息を呑んで、毒薔薇の魔性イブリスいくのを見守るだけで。


 美しい髪も、しなやかな手足も、みるみるうちにしおれて縮んでいった。花弁が燃えた灰も、ほんのかすかに残った甘い芳香も、風に吹き散らされて。残ったのは、一握りの枯れ草にしか見えないものだった。


「滅びた、のか……? 魔性イブリスが。魔神シェイタンの側近が。小魔ペリと人間によって。こんな少ない数で……?」


 バイラムの熱に浮かされたような呟きが、チャクルの耳に届く。

 街や村をいくつも簡単に潰せる魔性イブリスが討たれるなんて。確かに滅多にあることではない。

 ゼヒルギュルが戻らなければ、カランルクラル様はさらにお怒りになるのだろうか。

 気になること、考えなければいけないことはたくさんあるのだろうけれど──


(つ、疲れた……!)


 とりあえず、地面にへたり込んだチャクルは動けそうになかった。と、彼女の頭上に魔力ギュチが金色の影を落とす。


「お前のお陰、みたいだな。……いったい何をやった……?」

「わ、分からない……バイラムがやってくれたから……」


 夜明けはまだ遠く、空は暗い。一瞬だけ煌めいた稲妻と炎の演舞に、目の前がまだちかちかしている。

 でも、それでも。月と星のほのかな光だけでも、エルマシュは眩く輝いて見えた。髪も目も、戦いで傷ついた褐色の肌さえ。


(とても、綺麗……)


 彼の纏う魔力ギュチは、どうしてこんなに光を放っているのだろう。

 カランルクラル様の漆黒の魔力ギュチも、彼に注がれて金剛石の輝きを帯びたのか。宮殿を出てからの彼の遍歴が関係しているのか──違う。そんな理由が知りたいわけではなくて。

 もっと大事なのは、エルマシュを見るとチャクルの胸の水晶が熱くなる気がするということ。

 バイラムが呼び出した稲妻でも炎でも、その熱を焼き尽くすことはできなかった。──と、いうことは。


「チャクルのお陰で間違いない。あとは先人のお陰でもあるか。水晶と稲妻、振動による増幅の研究──読んでいて、良かった」


 よろよろとした足取りで近づいてきたバイラムが、たぶん何か大事なことを言っていた。でも、チャクルがそれに耳を傾ける余裕はなかった。

 残った力を振り絞って、エルマシュに飛びつく。


「エルマシュ……好き!」

「……は?」


 無理矢理に跳ねた弾みでよろめいた身体を、逞しい腕がしっかりと支えてくれた。

 抱き合うような格好が嬉しくてはしゃいだ笑い声を立てると、太陽のような目が驚きに丸く見開かれていた。


「何言いだす!? まだあのババアの毒にやられてるのか!?」

「違うって!」


 エルマシュの的外れな疑いが、おかしくて。説明してあげられるのが嬉しくて。

 笑いながら、チャクルはエルマシュの胸に頬を寄せた。彼の金剛石の硬質さを感じるのも、とてもいとおしい。


「いっぱい食べても、バイラムから魔力ギュチを注がれても、やっぱり好き! 玉胎晶精ターシュ・ラヒムの習性なんかじゃない。エルマシュだから、好き……今ので、分かったの!」

「いや、だが──」

「……水晶なんかが金剛石を好きになっちゃ、おかしいかな」


 自分の想いが確かめられた、と思った高揚は、金色の目が戸惑いに揺れるのを見て萎んでしまった。でも──しょんぼりと肩を落としたチャクルを見て、エルマシュは表情を真剣なものに改める。


「おかしく、ない。強いか弱いか、綺麗かそうでないかなんて些細なことだ。この世界には小魔ペリを愛した魔神シェイタンもいれば、人間と魔性イブリスの夫婦だっている」

「本当!?」


 目を丸くするのは、今度はチャクルのほうだった。信じられない、という言外の声に、けれどエルマシュは迷いなく頷いた。


「本当だ。だから、玉胎晶精ターシュ・ラヒム同士での違いなんて大したことじゃない──大したことじゃない、が!」


 チャクルはまだ、何も言っていないのに。エルマシュは慌てた様子で語気を強め、早口で続けた。


「お前は世間を知らない。男でも──女でも良いが、会ったことのある魔性イブリスも人間も少ないだろう。もっと色々見てから冷静に決めろ」


 どうやらエルマシュは、今でもチャクルはをしていると言いたいらしい。


(信じてないんだ……!)


 ひどい、と思う。でも──もう不安になったりしない。この気持ちは簡単に消えたりするようなものではない、チャクルはもう知っているから。


「分かった。色々見てからなら、良いってこと?」

「……本当に分かったんだろうな」


 チャクルを見下ろすエルマシュは、酸っぱいものでも食べたかのように顔を顰めていた。


「愛されてるな。割って入る隙がないじゃないか」


 何がおかしいのか、バイラムの笑い声が響く中、チャクルはもう一度、エルマシュにしっかりと抱きついておく。

 きっと、戦いの後のどさくさ紛れでもないと、彼はこんなことをさせてはくれない気がしたから。

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