第6話 毒薔薇《ゼヒルギュル》は咲き誇る
闇夜の中でも妖しく紅く艶やかな、ゼヒルギュルの唇が弧を描いて笑んだ。
「久しぶりね、チャクル。怖かったでしょう。助けに来たのよ」
「ひ──」
優しい言葉と微笑みに、けれどチャクルは心底震えて悲鳴を漏らした。
だって、この御方もとても強い
仲間外れで庭園で過ごすことも多いチャクルに、声をかけてくださったこともあるけれど。美しい花を咲かせるだけでなく、恐ろしい方なのをよく知ってしまっているから。
『お客様にお引き取り願わないと。チャクル、お前は中に入っていなさい』
宮殿に魔獣の襲撃があるたびに、この毒花の
屋内に戻されたほんのわずかの間に、庭園は静謐と美しさを取り戻していたものだった。
その間に何があったのか──想像してこなかった、考えたくもないことが、今まさに目の前で起きようとしている。
棒立ちになったチャクルを身体で庇いながら、エルマシュが宙に羽ばたく不吉な紅い蝶に吼える。
「お前の花粉か、厚化粧ババア。
美しい
「効率的な方法を取っただけよ。知ってた? 人間と
笑い声と蝶の
美しく芳しいはずのそれは、
「お前たちが逃げ込みそうな範囲の人間を狩り出して、ちょっと強めの毒を撒いたら──ほら、動いているのはお前たちくらい。とても分かりやすくなったでしょう?」
ゼヒルギュルが流し目をくれた先では、バイラムがぴくりともせずに倒れている。
慌ててチャクルが駆け寄ると、微かにだけど吐息が感じられて安心する。でも、暗い中でもありありと分かってしまう顔色の悪さに、思わず叫ぶ。
「あ、あの! 集まっていた人間たちも、みんな……? どうして、そこまで……!?」
街道を埋め尽くした人間は、いったい何人いたのだろう。子供もいた。街はずれのここにまで毒が流れてきたのだとしたら、あの人たちはいったいどうなっているのだろう。
(
「みんな」の欠片の煌めきが、暗闇の中にちらつく気がして目眩がした。
ゼヒルギュルは、チャクルが納得するだけの理由を教えてくれるだろうか。
でも、チャクルとエルマシュ、たったふたりの
(でも、それでも……!)
答えて欲しい、と。願いを込めたチャクルの問いかけに、ゼヒルギュルは、かっ、と目を見開いた。
「
鞭打つような鋭い声と同時に、宙を舞う花弁が一斉にエルマシュに襲い掛かった。
軽いはずの花弁にはあり得ない、直線的な動き。触れれば彼の身体を砕くか切り裂くかするのだろうと容易に想像できる、
──でも、エルマシュに触れる前に、ことごとく眩い光の矢に射ち落とされる。
カランルクラル様と退治した時と同じだ。エルマシュの
「俺は、特に言い触らすつもりはなかったが? お前が失敗したら、根暗野郎には恥の上塗りになるってわけだな!」
「そうはならない。あの御方は、私を信じてくださったのだもの。──その石を捧げて裏切りを償いなさい、《
ふたりが叫ぶなり、紅と金の
瞬間、辺りが真昼のような光に満たされて、チャクルはぎゅっと目を瞑る。宮殿での戦いの時と同じく、強力な
(すごい……!)
細めた目の間から見える戦いは、そうだと知らなければ美しかった。
舞い散る紅の花弁に、弾ける黄金の煌めき。
でも、そのひとつひとつが、相手の命を狙って繰り出される刃なのだ。
と、チャクルの
「チャクル……あれは、
「えっと、カランルクラル様の庭師の方よ。毒薔薇の、ゼヒルギュル様! ──ちょっと待ってね、治せないか試してみるから……!」
バイラムの顔が土の色になっているのを見て、チャクルは慌てて彼の傍に跪いた。
(
エルマシュに習ったばかりの癒しの術は、自分に対して行うものだった。他人、それも種族が違う人間に対して通じるものなのかどうか。でも、毒に侵されながら必死にしゃべろうとするバイラムを放ってはおけない。
「ど、どう……?」
チャクルが必死に
「ああ──マシになった」
チャクルの手に縋り、苦しそうに顔を歪めながら──それでも、彼は口を留めようとしないのが心配だったけれど。
「花の──植物の毒か。ならば
「しゃべらないで! 今、エルマシュが、戦って……っ、くれて──」
カランルクラル様とも対等に渡り合っていたエルマシュなのだから大丈夫、と。口にしようとして、できなかった。
突然、喉を締められたような息苦しさがチャクルを襲ったのだ。
異変が起きたのは呼吸だけではない、手足は痺れて力を失い、なのに荒く浅く息をするたびに激しい痛みが起きる。まるで、血の中を毒が巡っているかのよう。──毒?
(私にも効き始めてる……!?)
胸を抑えてうずくまるチャクルに、上空からゼヒルギュルの嘲笑が降る。
「私の毒は一種類ではないわよ?
今や、チャクルのほうがバイラムに支えられる有り様だった。ゼヒルギュルは、毒薔薇の
(じゃ、じゃあ……エルマシュは……!?)
金の
状況を見極めようと、必死に目を瞬かせるチャクルの肩を、バイラムが激しく揺さぶる。
「君の力を貸してくれ。君の石には
「だ、ダメ。私の石、ただの水晶、だからっ」
そうだ、彼はまだ知らないのだ。
(私、役立たずだ……!)
カランルクラル様の
バイラムが期待しているようなことは、チャクルには何もできないのだ。
「それは良い」
さぞ落胆するだろうと思ったのに。
でも、バイラムは目を輝かせた。チャクルの肩を掴む手にも、力がこもる。
「私の
「え──」
とっさに、嫌、と思った。
人間であるバイラムの
(エルマシュへの想いも……!?)
けれど、そのエルマシュが、今まさに地に膝をついた。ゼヒルギュルの毒は、彼にも効き始めている。
毒に侵された暗い視界にも、見えてしまう。紅い毒の花弁が、包囲網を築くかのように彼の周りに密に集まっていくのを。
それを見てしまえば、迷っている暇はなかった。
「わ、分かった。お願い。エルマシュを、助けて……!」
チャクルの想いなんかより、エルマシュ自身のほうが絶対に大切だった。
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