第5話 狩人《アヴジ》は罠を巡らせる
彼が用意してくれた馬に乗って、
「女子供も多いな……それに、家財道具も抱えて。集団で移住でもするのか……?」
舌打ちしつつ呟いたエルマシュは、彼自身でもその内容を信じていないに違いなかった。
(だって、みんな不安そう。何かに怯えて逃げ出してきたみたい……)
馬に乗れないチャクルは、エルマシュに抱えられる形で同乗させてもらっている。
彼の逞しい腕と胸に抱かれて心臓の結晶が熱を帯びたのも一瞬のこと、あちこちの枝道から集まりつつある人間たちの暗い表情に、彼女の胸にも不安の暗雲が立ち込め始めている。
馬上にあって高い視点を確保しているだけに、前後左右を見渡してもひたすら大荷物を抱えた人間がひしめき合っている光景の異様さに、どうしても気付いてしまうのだ。
すぐ傍で手綱を取るバイラムも、周囲を見渡して険しい顔をしている。
「はぐれ
バイラムの丈の長い
「どういうこと……?」
彼の言葉の意味も、分からない。
たぶん、
(誰がそんなことするの……?)
可能かどうかでいえば、人間の村のひとつやふたつ、簡単に滅ぼせる
でも、そんなことが楽しいとは思えない。
守ってあげれば、人間は感謝して色々な作物や労力や工芸品を捧げてくれる。カランルクラル様の宮殿も、そうして壮麗さを増していったと聞いているのに。
腑に落ちない表情を浮かべているであろうチャクルに、バイラムが見せた笑みはどこか苦いものだった。
「力試しや八つ当たりで人間を弄ぶ
エルマシュを見上げてみても、人間の
「もちろん、縄張りの目と鼻の先で騒ぎを起こせば、
「で、でも。カランルクラル様の領地を出たばかりのところ、なんでしょ? あの御方は、
チャクルが言いたかったのは、だからカランルクラル様の不興を買うような真似をする
でも、エルマシュとバイラムは、違うように解釈したらしい。
「
「根暗野郎のやり方は見ただろう。意味もなく力をひけらかしはしないが、意味があれば躊躇わずやるぞ、あいつ」
チャクルの目蓋の裏に、「みんな」の貴石の欠片の煌めきが蘇った。
カランルクラル様が「みんな」を砕いた理由は──
(厄介だから……それだけのことが、意味になるの……? それなら、今だって……?)
頬を強張らせて黙り込んだチャクルに、バイラムが慰めるように微笑んだ。
「強者の庇護を受けるとは、つまりは
……慰めるようでいて、ひどく難しいことを突き付けられた。
(だって私、ただの屑石の
バイラムから顔を背けて俯いていると、エルマシュがぎゅっ、と腕に力を込めてチャクルを抱え込んだ。
手綱から手を離したのだろうか。大きい手が彼女の頭を撫でてくれる。耳元に囁かれる吐息が、とても近い。
「ゆっくりで良い。今は、無事に逃げることを考えよう。……はぐれ者だろうと追手だろうと、警戒が必要なことには変わりない」
「うん……」
エルマシュは、ずるい。こんなことをされたら、思い悩み続けることなんてできはしない。
チャクル自身のこと、カランルクラル様のこと、
考えなければいけないのに──否応なしに先延ばしにさせてくれる。
きっと、わざとやっているわけではない気がするのが悔しかった。
* * *
バイラムが近くの人に尋ねてくれたし、そうでなくても、あちこちから不安そうな囁き声が届くのだ。
人間たちは、声を揃えてこう語った。
毒の霧が村や農地に立ち込めた。
触れた人や家畜は倒れたし、水も汚染されて飲めなくなった。
毒霧に塞がれた道を避けて、安全と思われる方向に逃げてきた──
「移住を受け入れる国があるかどうか……」
「
「それより、寛容な
人間たちの囁き声からすると、
チャクルがじっと見つめていると、バイラムは悔しそうな表情をした。
「……
「人間だもんね……」
基本的には
(どうしてそんな危ないことするんだろう)
疑問の視線を受けて、バイラムの表情が苦笑に転じる。
「非力で申し訳ないことだ。……だからエルマシュのような存在はありがたいし、君にも期待してしまうんだが」
「
バイラムの期待は勝手なものだし、エルマシュの言葉も、優しいようでいてチャクルの胸に刺さる。
(また
むう、と唇を尖らせると、エルマシュは笑ってチャクルの身体を抱え込んだ。
まるで、子供をあやすかのよう。──嬉しいけれど、少し嫌で。でも、黒金剛石が馴染んだ胸の水晶は、甘く疼く。
いっそ、早く馬から下ろして欲しいと思うのに。人や馬車や荷車で埋まった街道は落ち葉で塞がれた水の流れのようで。次の宿に着くまでにはだいぶかかりそうだった。
* * *
ようやく宿場町に着いたところで、宿はすでに人で溢れていたので、一行は部屋を取ることを諦めて早々に野宿を選んだ。
町はずれの空き地に張った天幕の横、焚火の灯りのもとで、バイラムが羊皮紙を広げた。そこに描かれている線は、近隣の街や村や集落と、主要な街道を描いているのだとか。
「どうも、この街に人間を集めようとしている節がある」
地図のあちこちに、
「毒霧で道が塞がれたのは、ここと、ここと──そうすると、こちらに逃げるしかなくなる」
指先につけた煤で、バイラムは地図に先を書き足していく。その地点に住む人々が避難するとしたら辿るであろう経路を示したものだ。
何本かの線は次第に合流して、一点に集まる。──それが、この宿場町なのだろうか。
「羊の群れを追い立てるようだな」
バイラムが作ってくれたスープを啜りながら。チャクルはエルマシュが吐き捨てる言葉の強さに首を竦めた。
と、バイラムが気遣うような視線を向けて来る。
「
「う、うん! とても美味しい……ありがとう」
彼が、白茶けた粉の塊のようなものを鍋に振り入れた時は、これが今夜の食事なのかと
注いだ水が沸いて、かき混ぜるうちにその塊は溶けて、良い香りを漂わせ始めたのだ。
小麦の粉と
かさばらず、水を加えれば野外でも簡単にスープが作れる。さらに干し肉や
(人間が色々工夫するっていうのは、こういうことなんだ……!)
人間の在り方に、チャクルは驚きつつ感動していた。人間が作る食べ物の美味しさに、かもしれないけれど、まあ似たようなものだろう。
「こいつは、何でもよく食ってくれるから頼もしい。外でも上手くやっていけそうだ」
タルハナのスープの椀を片手に、エルマシュがチャクルの髪をくしゃりと乱してくれた。
もう日も落ちたし辺りにはほかの人間もいないから、
でも、エルマシュが表情を緩めていたのは一瞬だけ。焚火の火に燃える金の目が、鋭くバイラムに向く。
「──人を盾にされると動きづらい。馬を捨ててでも、
「そうだな……。人質を取るのは
ふたりのやり取りが怖くて、チャクルは無言でスープを啜った。
(確かに、カランルクラル様のご命令なら回りくどいかもしれないけど……)
あの御方も側近たちも、とても強いのだから。チャクルたちを追っているのは間違いないとしても、何の狙いがあって人間を住処から追い立てているのか分からない。
(私たちが逃げられないように、かなあ?)
今日は予定ほど進めなかったらしいのは、事実だ。でも、時間稼ぎだなんて、強く誇り高い
チャクルが考えることなんて、ほかのふたりは当然の前提として考慮済みなのだろう。エルマシュとバイラムは、彼女を置いて頷き合った。
「じゃあ、暗いうちに発つか。早いほうが良いだろう?
「ああ。食べたら少し横にならせてもら──」
頷き合った、と思ったのだけれど。
バイラムの声が途切れたので、チャクルはスープの椀から目を上げた。崩れ落ちた彼の姿が目に入るのと、その手から零れたスープの椀が地面に落ちる音が聞こえたのは、ほぼ同時。
「……バイラム?」
おずおずと問いかけたチャクルに対して、エルマシュの反応は早かった。
「──これが、毒か!? ここにも、来たのか……!?」
立ち上がって怒鳴った彼に答えるのは、上空から降るくすくすという笑い声。
「そう。
花の蕾が綻ぶような華やかなその声には、聞き覚えがあった。チャクルも慌てて立ち上がり、その源を探して空を仰ぐ。
震えるほどの恐怖に寒ささえ感じながら、その名を叫ぶ。
「ゼヒルギュル様……!」
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