第5話 狩人《アヴジ》は罠を巡らせる

 泉亭チェシメを発ってしばらくすると、バイラムが言ったことの意味がチャクルにも分かり始めた。

 彼が用意してくれた馬に乗って、神殿タプナークとやらまでひと息の旅になるはずが、街道から溢れんばかりの人混みで、思うように進むことができないのだ。


「女子供も多いな……それに、家財道具も抱えて。集団で移住でもするのか……?」


 舌打ちしつつ呟いたエルマシュは、彼自身でもその内容を信じていないに違いなかった。


(だって、みんな不安そう。何かに怯えて逃げ出してきたみたい……)


 馬に乗れないチャクルは、エルマシュに抱えられる形で同乗させてもらっている。

 彼の逞しい腕と胸に抱かれて心臓の結晶が熱を帯びたのも一瞬のこと、あちこちの枝道から集まりつつある人間たちの暗い表情に、彼女の胸にも不安の暗雲が立ち込め始めている。

 馬上にあって高い視点を確保しているだけに、前後左右を見渡してもひたすら大荷物を抱えた人間がひしめき合っている光景の異様さに、どうしても気付いてしまうのだ。


 すぐ傍で手綱を取るバイラムも、周囲を見渡して険しい顔をしている。


「はぐれ魔性イブリスが、何かをしでかしたかな」


 バイラムの丈の長い上衣カフタンは、騎乗したところを見ると切れ込みが入っていて意外と動きやすそうだった。これは彼の好みなのか、術師ラヒプの衣装はそういうものなのか──何が人間のなのか、チャクルには分からないことだらけだ。


「どういうこと……?」


 彼の言葉の意味も、分からない。

 たぶん、魔性イブリスが何かしらをした結果、人間たちが住処を追われることになった、と言いたいようだけれど──


(誰がそんなことするの……?)


 可能かどうかでいえば、人間の村のひとつやふたつ、簡単に滅ぼせる魔性イブリスは多いだろう。


 でも、が楽しいとは思えない。


 守ってあげれば、人間は感謝して色々な作物や労力や工芸品を捧げてくれる。カランルクラル様の宮殿も、そうして壮麗さを増していったと聞いているのに。


 腑に落ちない表情を浮かべているであろうチャクルに、バイラムが見せた笑みはどこか苦いものだった。


「力試しや八つ当たりで人間を弄ぶ魔性イブリスは結構多い。この辺りは、特定の魔神シェイタンの庇護下にあるわけではないから、咎める者もいないしね」


 エルマシュを見上げてみても、人間の術師ラヒプを似たような表情を浮かべている。


「もちろん、縄張りの目と鼻の先で騒ぎを起こせば、魔神シェイタンの怒りを買う。……線を見極められていると思っているのか、挑発の意味合いでことも考えられはするが」

「で、でも。カランルクラル様の領地を出たばかりのところ、なんでしょ? あの御方は、魔神シェイタンの中でもお強い、んだよね……?」


 チャクルが言いたかったのは、だからカランルクラル様の不興を買うような真似をする魔性イブリスはいないだろう、ということだった。

 でも、エルマシュとバイラムは、違うように解釈したらしい。


闇の王カランルクラルは確かに名高い。だから、縄張りを多少はみ出しても押し通すだけの力はあるだろう」

「根暗野郎のやり方は見ただろう。意味もなく力をひけらかしはしないが、意味があれば躊躇わずやるぞ、あいつ」


 チャクルの目蓋の裏に、「みんな」の貴石の欠片の煌めきが蘇った。

 カランルクラル様が「みんな」を砕いた理由は──魔力ギュチを注いで育てた玉胎晶精ターシュ・ラヒムが盗まれると厄介だから、と仰っていた。


(厄介だから……それだけのことが、意味になるの……? それなら、今だって……?)


 頬を強張らせて黙り込んだチャクルに、バイラムが慰めるように微笑んだ。


「強者の庇護を受けるとは、つまりは生殺与奪せいさつよだつの権をゆだねるということだ。君らの種族の特性は、知っているが──自分の足で立つことを知ってくれたら、と思う」


 ……慰めるようでいて、ひどく難しいことを突き付けられた。


(だって私、ただの屑石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムなのに。何も分からないのに……)


 バイラムから顔を背けて俯いていると、エルマシュがぎゅっ、と腕に力を込めてチャクルを抱え込んだ。

 手綱から手を離したのだろうか。大きい手が彼女の頭を撫でてくれる。耳元に囁かれる吐息が、とても近い。


「ゆっくりで良い。今は、無事に逃げることを考えよう。……はぐれ者だろうと追手だろうと、警戒が必要なことには変わりない」

「うん……」


 エルマシュは、ずるい。こんなことをされたら、思い悩み続けることなんてできはしない。

 チャクル自身のこと、カランルクラル様のこと、神殿タプナークがいったいどんなところなのかについて。

 考えなければいけないのに──否応なしに先延ばしにさせてくれる。


 きっと、わざとやっているわけではない気がするのが悔しかった。


      * * *


 アリが這うようなのろさで進むうちに、人間たちに何があったかも漏れ聞こえてきた。

 バイラムが近くの人に尋ねてくれたし、そうでなくても、あちこちから不安そうな囁き声が届くのだ。

 人間たちは、声を揃えてこう語った。


 毒の霧が村や農地に立ち込めた。

 触れた人や家畜は倒れたし、水も汚染されて飲めなくなった。

 毒霧に塞がれた道を避けて、安全と思われる方向に逃げてきた──


「移住を受け入れる国があるかどうか……」

神殿タプナークに訴えればどうにかならないか?」

「それより、寛容な魔神シェイタンの庇護下に入れれば──」


 人間たちの囁き声からすると、神殿タプナーク魔性イブリスの横暴をすることもあるらしい。

 チャクルがじっと見つめていると、バイラムは悔しそうな表情をした。


「……聖白母ベヤザンネ様にお伝えすれば、放っておかないはず。だが、これほどの規模の異変を調査するには、それなりの人数で臨まないと」

「人間だもんね……」


 基本的には魔力ギュチを持たない種族が、魔性イブリスに立ち向かうなんて大変なことだ。


(どうしてそんな危ないことするんだろう)


 疑問の視線を受けて、バイラムの表情が苦笑に転じる。


「非力で申し訳ないことだ。……だからエルマシュのような存在はありがたいし、君にも期待してしまうんだが」

聖白母ベヤザンネには恩があるからな。だから俺は協力している。でも、お前には関係ないから身の振り方はゆっくり考えろ」


 バイラムの期待は勝手なものだし、エルマシュの言葉も、優しいようでいてチャクルの胸に刺さる。


(また聖白母ベヤザンネって人のこと……それに、関係ないって……)


 むう、と唇を尖らせると、エルマシュは笑ってチャクルの身体を抱え込んだ。

 まるで、子供をあやすかのよう。──嬉しいけれど、少し嫌で。でも、黒金剛石が馴染んだ胸の水晶は、甘く疼く。


 いっそ、早く馬から下ろして欲しいと思うのに。人や馬車や荷車で埋まった街道は落ち葉で塞がれた水の流れのようで。次の宿に着くまでにはだいぶかかりそうだった。


      * * *


 ようやく宿場町に着いたところで、宿はすでに人で溢れていたので、一行は部屋を取ることを諦めて早々に野宿を選んだ。


 町はずれの空き地に張った天幕の横、焚火の灯りのもとで、バイラムが羊皮紙を広げた。そこに描かれている線は、近隣の街や村や集落と、主要な街道を描いているのだとか。


「どうも、この街に人間を集めようとしている節がある」


 地図のあちこちに、すすで印がつけられている。毒霧に侵された場所、ということだ。


「毒霧で道が塞がれたのは、ここと、ここと──そうすると、こちらに逃げるしかなくなる」


 指先につけた煤で、バイラムは地図に先を書き足していく。その地点に住む人々が避難するとしたら辿るであろう経路を示したものだ。

 何本かの線は次第に合流して、一点に集まる。──それが、この宿場町なのだろうか。


「羊の群れを追い立てるようだな」


 バイラムが作ってくれたスープを啜りながら。チャクルはエルマシュが吐き捨てる言葉の強さに首を竦めた。

 と、バイラムが気遣うような視線を向けて来る。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムに、人間の食べ物は口に合うかな?」

「う、うん! とても美味しい……ありがとう」


 彼が、白茶けた粉の塊のようなものを鍋に振り入れた時は、これが今夜の食事なのかと落胆がっかりしかけたけれど。

 注いだ水が沸いて、かき混ぜるうちにその塊は溶けて、良い香りを漂わせ始めたのだ。


 小麦の粉と発酵乳ヨールトに、塩や干し野菜や香辛料を加えて乾燥させた、タルハナという携行食糧なのだとか。

 かさばらず、水を加えれば野外でも簡単にスープが作れる。さらに干し肉や乾酪チーズも一緒に煮込めば、量としても十分なご馳走になる。


(人間が色々工夫するっていうのは、こういうことなんだ……!)


 魔力ギュチだけを摂取して生きることができない、水や火の確保もままならない種族なのに、か弱いなりに工夫を凝らしているのだ。

 人間の在り方に、チャクルは驚きつつ感動していた。人間が作る食べ物の美味しさに、かもしれないけれど、まあ似たようなものだろう。


「こいつは、何でもよく食ってくれるから頼もしい。でも上手くやっていけそうだ」


 タルハナのスープの椀を片手に、エルマシュがチャクルの髪をくしゃりと乱してくれた。

 もう日も落ちたし辺りにはほかの人間もいないから、スカーフチェヴレは取っていたのだ。帽子に押し込んでいた彼の髪も、今は自由に肩からうねって煌めいている。


 でも、エルマシュが表情を緩めていたのは一瞬だけ。焚火の火に燃える金の目が、鋭くバイラムに向く。


「──人を盾にされると動きづらい。馬を捨ててでも、チャクルこいつは背負ってでも山中を突っ切ったほうが良いかもしれない」

「そうだな……。人質を取るのは魔性イブリスのやり方ではないが。それだけなりふり構わないのかもしれない」


 ふたりのやり取りが怖くて、チャクルは無言でスープを啜った。


(確かに、カランルクラル様のご命令なら回りくどいかもしれないけど……)


 あの御方も側近たちも、とても強いのだから。チャクルたちを追っているのは間違いないとしても、何の狙いがあって人間を住処から追い立てているのか分からない。


(私たちが逃げられないように、かなあ?)


 今日は予定ほど進めなかったらしいのは、事実だ。でも、時間稼ぎだなんて、強く誇り高い魔性イブリスがすることではないような。


 チャクルが考えることなんて、ほかのふたりは当然の前提として考慮済みなのだろう。エルマシュとバイラムは、彼女を置いて頷き合った。


「じゃあ、暗いうちに発つか。早いほうが良いだろう? 人間おまえには仮眠が必要だろうが」

「ああ。食べたら少し横にならせてもら──」


 頷き合った、と思ったのだけれど。


 バイラムの声が途切れたので、チャクルはスープの椀から目を上げた。崩れ落ちた彼の姿が目に入るのと、その手から零れたスープの椀が地面に落ちる音が聞こえたのは、ほぼ同時。


「……バイラム?」


 おずおずと問いかけたチャクルに対して、エルマシュの反応は早かった。


「──これが、毒か!? ここにも、来たのか……!?」


 立ち上がって怒鳴った彼に答えるのは、上空から降るくすくすという笑い声。


「そう。闇の御方カランルクラル様のお庭の香りを味わわせてやったのよ。人間には身に余る光栄でしょう。感動して息絶えたのかしら」


 花の蕾が綻ぶような華やかなその声には、聞き覚えがあった。チャクルも慌てて立ち上がり、その源を探して空を仰ぐ。

 震えるほどの恐怖に寒ささえ感じながら、その名を叫ぶ。


「ゼヒルギュル様……!」


 月を背にはねを舞わせる、真紅の蝶と見紛うような美しい魔性イブリス。カランルクラル様の宮殿の庭師にして、庭園を彩る華麗な毒薔薇。


 魔神シェイタンの側近が、目の前に迫っていた。

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