第4話 泉亭《チェシメ》に旅人は集う

 翌朝──出発する際に、宿の女将おかみは平パンに塩漬け肉パストゥルマを挟んだものをふたりに持たせてくれた。


「あれだけ出したのを、全部食べてくれるなんてねえ。次の宿までお腹が空くといけないから持って行きなさい。部屋代もたっぷりもらったんだから、遠慮しないで」

「え──えっと、あの。ありがとうございます……!」


 エルマシュのほうをちらりと窺うと、笑顔で頷いていた。だからもらって良いのだろうと判断して、チャクルはパンの包みを受け取った。ずしりとした重みと、香ばしいパンの香りに胸が弾む。

 パンに合うのは果物の甘露煮ホシャプ乳酪バターやクリーム《カイマク》だけではない。肉を挟んでもとても美味しいのだと、ひと晩にして気付いていたのだ。


「こんなに細くて綺麗な子があんなに食べられるのか、心配だったけどねえ。花嫁衣装を買いに行くんでしょう? お嫁に行った先でもお腹いっぱい食べさせてもらえると良いけど──」

「そ、そうですね……」


 女将がぐいと顔を近づけたので、チャクルは慌てて目を伏せた。

 輝く色の髪はスカーフチェヴレに隠していても、玉胎晶精ターシュ・ラヒムの金色の目は人間の中では目立ってしまう。それに、またおかしなことを言われてしまった。


(私とエルマシュじゃ、綺麗さが全然違うのに……)


 同じ玉胎晶精ターシュ・ラヒムとはいえ、宿す石がただの水晶と金剛石ではもうまったく別の種族だと思ったほうが良いのではないだろうか。

 カランルクラル様は、エルマシュにはきっと惜しみなく魔力ギュチを注いだのだろう。その御力を使いこなすエルマシュは、チャクルから見れば眩しくてならない存在なのに──人間には、同じように見えるのだろうか。


「変な男には渡さないから大丈夫だ。世話になったな、女将さん」

「そうねえ、良いがいれば安心ねえ」


 チャクルが首を捻る間に、エルマシュは卒なく会話を成立させていた。彼は、人間とのやり取りにもう慣れているのだろうか。


(兄妹に見えるんだ……)


 建前のが怪しまれていないこと、エルマシュと同列の存在だと思われていることに安堵すべきなのだろうけれど──なんだか、面白くないような気分がしてしまうのはどうしてだろう。


 笑顔で手を振る女将に、手を振り返して歩き始めながら。チャクルは何だかよく分からない感情がお腹の中で渦巻くのを感じていた。


      * * *


 複雑な想いについては、それはそれとして。塩漬け肉パストゥルマを挟んだ平パンはやはりとても美味しかった。

 青空の下で歩きながら、広々とした景色を眺めながらという解放感も手伝っているだろう。


酢漬けトゥルシュはしょっぱいものの口直しにもなるんだ……!)


 塩漬け肉パストゥルマ自体の塩気はきついけれど、酢漬けトゥルシュの酸味と薄切りの玉葱ソガンの辛みが、素晴らしい味の調和をかもし出している。

 これまで、甘いものばかりを食べていたのがもったいないと思うくらい、多様な味覚の多様な刺激はチャクルを夢中にさせた。


 平パンの欠片まで綺麗にな舐め取ったところで──チャクルは、ふと気付いてしまった。


(……でも、肉を食べ続けたら、私はどうなるんだろう?)


 玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、摂取した魔力ギュチに、心や感情までも影響されてしまうという。カランルクラル様や──エルマシュへの思いも、種族の習性によるである可能性も、あるのだとか。


 だから、食べものから魔力ギュチを摂取して、ご主人様の影響から逃れるほうが良い、と──エルマシュはそう考えている節があるのは、察するのだけれど。でも、それなら──


(この石は、誰のためのものになるの? 牛や羊に捧げるのは変、だよね……? もう食べちゃったし)


 自ら生み出した石を敬愛する主のもとに役立ててもらう。それもまた、玉胎晶精ターシュ・ラヒムの本能だ。カランルクラル様に逆らった今、チャクルは何のために生きているのだろう。


(エルマシュは……こんなの要らないだろうし)


 長衣アンタリの上から水晶の結晶を握りしめて、チャクルはそっとエルマシュのほうを窺った。と、太陽のような目が彼女を捉えて気遣わしげに瞬きする。


「疲れたか?」

「ううん。大丈夫」


 別に、休憩をねだろうとしたわけではないのだけれど。

 エルマシュは強がりだと思ったのか、宥めるような笑みを浮かべてチャクルの背に手を添えてくれた。力強く背を押されて、ぐんと大きく足を踏み出す感覚はちょっと面白かった。


「昼前に泉亭チェシメに着く。そこからは馬に乗れるはずだ」

泉亭チェシメって……?」

「旅人が休息できるよう、湧き水が絶えないように整えた給水所、だな。街と街の中間に位置するから宿はないが、ちょっとした市が立ったりはする」


 の世界には本当に色々なものがあるらしい。常に噴水セビールから水が溢れていたカランルクラル様の宮殿で育ったチャクルには、湧き水が絶えることがあるということ自体が想像しづらい。


 チャクルは、今ひとつ腑に落ちてない表情を浮かべていたのだろう。エルマシュは苦笑すると、彼女の頭をぽんと撫でた。


「人間が設置することもあるが、この先にあるのは聖白母ベヤザンネが寄進したものだから、神殿タプナークの者がしばしば立ち寄る。でもあるってことだ」

「じゃあ──」

「俺が忍び込む日時も、あらかじめ伝えておいたんだ。仲間を連れ出せるかも、ってことも併せて、な。追手がかかるのも承知の上だから、逃げるの手配も頼んでいる」

「あ、だから馬なんだ……」


 着替えや食料だけでなく、エルマシュは本当に準備が良かったらしい。確かに、数多の下僕を従える魔神シェイタンの宮殿に忍び込むなら、当然のことなのだろうけれど。


(それだけ仲間を助けたかった、ってこと……?)


 チャクルは、宮殿での暮らしには心から満足していた。命をかけて石を生み出す運命にも。でも、カランルクラル様の御心ひとつで砕かれるていどの存在だと知ってしまった。

 だから、に出られて良かった、のだろう。


(でも、エルマシュがそこまでする理由って……?)


 彼にとっても危険なことで、神殿タプナークとやらまで巻き込んで、大がかりなことになっているようなのに。


「もう少しだから、頑張れ。俺の分のパンも食うか?」

「い、いいって! 大丈夫、頑張れる……!」


 どうやら、エルマシュにはよほど食い意地が張っていると思われてしまったらしい。決して間違いではないだけに恥ずかしくて、チャクルは慌てて首を振った。


      * * *


 泉亭チェシメは、街道の中途の開けた広場に設けられた四阿あずまやだった。

 石を積んで作られた屋根の下、雪華石膏アラバスタのタイルが敷き詰められた池がある。澄んだ清らかな水は、雨水を溜めたのではなく、この場から湧き出るものだろう。


(土が入ったりしないし、ちゃんと流れるようになってるんだ……!)


 クリームカイマクのように白く滑らかなタイルは、池の底を守るだけでなく、水路を形作ってもいた。陽射しや雨によって水量が上下しても、水が干上がったり詰まったり濁ったりしないように、ということなのだろう。


 雪華石膏アラバスタの花や鳥の彫刻が飾る池のほとりは、水を汲む人が入れ代わり立ち代わりして列を為している。水路には馬や牛が頭を垂れて水を飲んだり、人も手足を洗ったりしている。

 旅人の憩いの場所になっているというのは、間違いないようだった。


(食べ物のお店も出てる……!)


 焼いているのは牛だろうか、羊だろうか。良い香りの煙が立ち上るところに、人が集まっているのを見つけてチャクルは覗き込もうとした。


 でも、低い声が間近から呼び掛けてくるほうが、早い。


「──エルマシュ。来たか」

「ああ。待たせたな」


 チャクルたちの傍に、いつの間にか足もとまで届く上衣カフタン姿の人間の男が立っていた。


術師ラヒプっていうやつかな……?)


 上衣カフタンを縁取る文様に、文字が隠れているのに気付いて、チャクルはそう推量した。


 個体差はあっても、人間は基本的には魔力ギュチの弱い生き物だそうだ。でも、代わりに世界に溢れる魔力ギュチを集めて利用する術を研究する知性がある。……カランルクラル様の側近たちは、せせこましく涙ぐましい偏執さ、と評していたけれど。


 だからたぶん、この男も衣服に仕込んだ文字で精霊ルーに働きかけたりしているのではないだろうか。


「今にも魔神シェイタンの八つ当たりでこの辺りも焦土と化すかと、ひやひやものだった。だが、ひとまず無事で何より。──そちらが?」


 と、男の黒い目がチャクルを捉えた。道行く旅人や商人、宿の女将もそうだったけれど、人間の髪も目も、ほとんど一様に黒や茶色だ。たまに赤っぽいのが混ざるくらい。とても地味な種族だと思う。


(顔を覚えるの、大変かも……)


 失礼なことを考えて心配になるチャクルを余所に、エルマシュは術師ラヒプらしき男に頷いた。


「ひとりだけだが、どうにか連れ出せた。チャクルって娘だ。──チャクル、こいつは神殿タプナーク術師ラヒプで、バイラム」

「よろしく、チャクル。玉胎晶精ターシュ・ラヒムは我々にとっては特別な存在だ。君を神殿タプナークに迎えられること、魔神シェイタンの支配を逃れることを選んでくれたことを、とても嬉しく思う」


 バイラムが右手を差し出したので、チャクルは首を傾げた。助けを求めてエルマシュを見ると、同じように返せ、と手ぶりで示された。


「……よろしくお願いします」


 人間と触れ合うのは少し怖かったけれど、バイラムのほうこそ怖いだろう。魔性イブリスは、基本的には人より強いものだから。だから、チャクルは我慢してバイラムと手を握り合った。


(人間も温かいんだ……)


 また新たな発見をしつつ、チャクルがしげしげと掌を見つめている間に、もうバイラムは近くの木に繋がれた馬のほうに向かっていた。


「さて、急ごうか。聖白母ベヤザンネ様も首尾を気にかけていらっしゃる。それに──どうも街道が込み合っているようだ」


 街道の賑わいは、チャクルも見てきた。人の行き来が多いのは、良いことではないかと思うのに。人間の術師ラヒプは、なぜか眉を顰めていた。

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